宮女の心得《2》

 孫恵そんけいの手を借り揃いの官衣に着替え終わった李明麗り めいれいは、得意気にくるりと一周回ってみせた。


「断然、こっちのほうが動き易くていいわ」


 いまにも走り出しそうなほど浮かれている。彼女にとっては、贅沢に生地を使った衣裳も透けるように繊細な被帛ひはくも、ひらひらと邪魔なものにしか思えないのだ。


「ところで明麗さま。身上札しんじょうさつの提出はすでにされましたか?」


 舞うようにはしゃいでいた明麗の動きが止まった。


「孫恵さま。わたしはあなたの後輩です。そのような物言いはおよしくださいませ」

「ですが……」


 自分のような下級の宮女が宰相の娘と対等に話すなど 、と尻込みされる。


「ではこうしましょう。わたしも堅苦しい言葉使いを止めるわ。ねっ、これでどう? 孫恵」

「……わかりま……したわ」


 渋々ながら了承した孫恵に、あらためて先ほどの問いの応えを返す。


「身上札ってなに? ごめんなさい、本当に皇宮ここのことをなんにも知らないのよ」

「じゃあ、いっしょに守衛門まで行きましょう」


 へやを出て歩き始めた孫恵の後を、きょろきょろしながら付いていく。さっきまでは方颯璉ほうそうれん春栄しゅんえいの監視の目があったため、初めて入った皇宮内を、ろくに観察することができなかった。


 さすがに歓声を上げることはしなかったが、多くの官吏が行き交い職務に精を出している姿を目の当たりにすれば、自然と気が昂ぶってくる。興奮で頬を紅潮させた明麗に熱心な目を向けられ、その場で硬直する者、逃げるように立ち去る者、はたまた見とれて柱に激突する者まで続出し、明麗たちが通り過ぎた後には、ちょっとした騒ぎが起きていた。

 一方、当の本人は素知らぬ顔で、無邪気に孫恵へ「あれはなに?」や「こっちへ行くとどこへ?」など引っ切りなしに尋ねまくる。ようやく皇宮と皇城を隔てる門に辿り着くころには、孫恵の顔には疲労の色が表れ始めていた。


「恐れ入ります。どなたかいらっしゃいませんでしょうか」


 孫恵が守衛の詰め所に声をかけると、「はーい」と気の抜けた返事が返ってきた。

 奥から顔を出したのは、ひょろりと線の細い文官の官服を着た男だ。若草色の袍は一番下の位を現している。


「なんのご用でしょう?」


 柔らかく尋ねる声と同様に眦を下げた目元は穏やかである。


「本日付で着任しました宮女の身上札を登録に参りました。私は昇陽殿の女官、孫恵です。こちらが、新任の――」

「李明麗です」


 名乗りに、文官は帳面をめくっていた手を止めて顔を上げた。


「ああ、はいはい。連絡をもらっていますよ」


 ふにゃりと笑みを作ると、白紙の短冊を一枚取り出した。


「こちらに姓名を書いていただけますか?」


 文官は短冊の横に墨を満たした硯と筆も用意する。


「その前にお伺いしたいのですけど。身上札とはなんですか?」


 明麗の疑問に、文官がへっ? と間抜けな声を出す。それが彼女のかんに障って、眉間にシワを刻ませた。


「わたしは本日、初めて皇宮に上がったのです。知らないものを尋ねただけだというのに、その返答はないのではありませんか。女子おなごだと侮り、馬鹿になさっていらっしゃるのでしょうか」

「ちょっと、明麗。おやめなさいよ」


 下っ端とはいえ相手は皇宮に務める官人だ。いかに李家の娘だとしても、無位無官の女子が盾突くことは道理が通らない。それがほうの現状である。

 だが文官は、一度背筋を伸ばすと拱手して深々と頭を下げた。


「これは申し訳ありませんでした。あなたの仰る通りですね。皇宮ここの常識が世間の常識とは限りませんから。むしろ、異なることばかりでしょう」


 男があまりにもあっさりと非を認めて謝罪したので明麗は拍子抜けするが、それも李家の威光かと勘ぐってしまう。複雑な面持ちでいると、文官が無数に並ぶ短冊の中から一枚を引き抜いた。


「これが、そちらの宮女殿の身上札です」


 たしかにそこには『孫恵』と書かれている。やや細めの線ながら几帳面に書かれた文字は、生真面目そうな彼女の手蹟によるものなのだろうか。問うように隣を窺うと、頷き返された。


「この門には皇宮や皇城に務める者すべての身上札が納められているんです。簡単に言えば、筆跡の登録です」 

「全員分?」


 皇宮の官吏だけでもかなりの数になるはずだが、皇城もとなると、いったい何枚になるのだろう。


「入退宮のときの手形代わりにもなっいるんです。もちろん、高位の方や佩玉を賜っている方々は滅多にこれで確かめたりなんかしないですけど、皆様の分もちゃんと保管されてますよ」


 皇宮内への立ち入りには制限がある。外の者が所用などで一時的に出入りする際は、身元の確かな者による許可証か同伴が必要だ。今朝の明麗も、方颯璉に引き渡されるまで兄が同行していた。


「たとえここに勤める官吏でも不審が感じられた人は、この帳面にもらう署名と身上札の手蹟を照らし合わせて、本人の確認をすることになっているんですよ」

「でも、その人の筆致を真似た者に不法進入されてしまうことはないのでしょうか?」


 一般的な書の練習に臨書というものがあるくらいだ。他人の筆跡を模倣することに長けた者に、この仕組みを逆手にとって悪用されるのではと心配になる。ところが文官は満面の笑顔で否定した。


「ここの鑑定官たちは非常に優秀ですよ。そんな不正をしたところで、まず見破られますね」


 誇らしげに断言する。


「自分で書く自身の名というのは、一番その人の人物像が表れやすい。謂わば、究極の看字かんじというわけです。それにどんなに似せようとしても、自分の癖というのは簡単に抜けないもの。まして、真贋を見極めようとする者が注視する中で他人の名を書かなければいけないのですから。それにこちらも、文字通りの首がかかってますし」


 自分の首に手刀を添えて横に引く文官を見て、皇帝がおわす場の警護を数名の文官の目などに頼るのかと訝しむ。明麗とて、この文字の国に生まれ育ち、人並み以上に数多の書に触れているという自負があるが、正直にいえばそれほど興味はない。ある程度の優劣はつくがそこまでだ。

 文官は彼女の反応を気にした様子もなく筆を勧めた。


「そんな感じなので、どうぞ気負わずにご自分の名前を書いてくださいね」


 そう言われても、いまの話を聞いてしまったら緊張するなというほうが無理だ。その上彼が、なぜか目を見開いて瞳を輝かせながら手許に熱い視線を注いでいる。

 だからといって、このまま提出しないわけにもいかない。明麗は意を決して筆と短冊を執った。難しいことはない。書き慣れた自分の名を記すだけ。

 明麗は深呼吸ひとつして、墨を含んだ筆を動かし始めた。


 明麗は自分の書が下手だと思ったことはない。

 書を見た者に、迷いのない大胆な筆遣いを褒められることもままある。そして大概こう付け加えられるのだ。「男子の書いたものだと思った」と。

 目の前で書いたのだから、さすがにそんな暴言を吐くような真似はしないだろうが、このどこか呑気のんきな文官を、明麗は今ひとつ信用できずにいた。

 ふっ、と小さく息を吐き出して筆を置く。こんなに気を張って自分の名を書いたのは初めての経験だった。


「できました。これでいいのでしょうか?」


 両手を添えて短冊を文官に向け差し出すと、同じようにして恭しげに受け取る。


「ありがとうございます」


 穏やかな礼の言葉と同時に短冊へと注がれた視線が一変した。真剣に見つめる瞳には、墨の文字しか映っていないようだ。息をすることさえ忘れているのではないかと思うほど、微動だにしない。

 ピンと張り詰めた空気に、明麗はなにか重大な失態を犯してしまったのではないかと不安に襲われた。

 と、それが一瞬にしてほわりと緩む。ホッと息をついた明麗を見て一瞬驚いたように目を瞠り、恍惚とした笑みを浮かべた。


「美しい。いや、実に美しい。予想以上です」

「な、なんなのです? 唐突に。失礼ではありませんか」


 常日頃から言われ慣れている賛辞が、この男から出ると全く違うものに聞こえてくる。不快に柳眉が歪む。

 用事は済んだ。長居は無用、と立ち去ろうとした明麗に、やや興奮気味の声がかけられた。


「あ! 度々、申し訳ありません。ただ――」

「ただ?」


 明麗の眉間に刻まれたシワがさらに深くなる。まるで蛇蝎を見るような視線に、文官が一瞬怯んだ。


「い、いえ。とても美しい――文字だ、な……と。にょ、女官殿? 李明麗殿? どうなさったんですか」


 俯いてふるふると握った両手を震わせる明麗の耳が真っ赤に染まる。孫恵が「どうしたの」と顔を覗きこんで、なにかいけないものを見たように表情を強張らせ、ひぃっと後退った。

 ゆっくりと顔を上げた明麗の黒い瞳はこれ以上ないくらいに見開かれ、真っ直ぐに文官射貫く。並の神経の持ち主なら、なんの反論もできずに平身低頭してしまいそうな威圧感だ。


「見えすいた世辞はけっこうです! 内心では男の手蹟のようだと、せせら笑いをなさっているのでしょう? こちらは書き直して、あらためてお持ちしますっ!」


 いきり立って言い放つと、明麗は文官から短冊を取り返そうと手を伸ばす。が、すんでのところで躱されてまった。


「お世辞なんかではありませんっ! この文字のどこが男手蹟に見えるというのですか!? こんなに素直で優美な文字を書く男いたら、紹介していただきたいくらいです」

「そんなはずないわ。どうせ、あなたも父におもねりたいだけなんでしょう?」

「……父? 女官殿の、お父上にですか? 僕が?」


 虚を衝かれたように首を傾げてから、胸にしっかり抱き守っていた短冊と明麗の顔を何度も見比べ、やがてあっと小さく叫んだ。


「李明麗。――李って、もしかして李宰相のお嬢さまですか?」


 なにをいまさら、という顔で孫恵が唖然とする。朝からの皇宮の騒ぎを知らないのだろうか。もしかしたら遅番で、いまさっき勤務に就いたばかりなのかもしれない。


「皇城で李、などという姓は、珍しくありませんから。ああ、でも僕としたことが迂闊でした。宜珀ぎはくさまにも博全はくぜんさまにも、こんなに手蹟が似ているのに気がつかないなんて」


 ひとり、しきりに頭を抱える男を、二対の瞳が訝しげに見やる。たしかにこの国には、一族、傍系の者、そうでない者も含めて李姓は多い。だが、宰相の娘だと気づいたのが、筆跡からとはどういうことなのか。


「それはやはり、男っぽい手蹟ということではありませんか」


 多少気を削がれながらも、明麗の憤然たる面持ちは崩れない。第一、あのひねくれ者の二人に似ているなどと言われて喜べるはずがないのだ。


「そういうことではないのです。文字に含まれる気質がよく似ていらっしゃる。真っ直ぐで偽りを嫌う、そんなところが」

「父さまたちが正直者だと? それこそ、見当違いもいいところだわ」


 やしきにこもっていた明麗の元にさえ李父子の風評は耳に届く。抜け目のない政治手腕は、ときに嫉妬の標的にもなり、それさえも利用するという狡猾さは、実父実兄ながらいっそ清々しいほどだ。

 口を曲げた明麗を見て、文官が顔を背けて小さく吹きだしたものだから、ますますもって唇が尖る。文官が失礼、と咳払いでごまかした。


「他人からどう思われようが信念を貫く、という気概が皆さん共通によく表れているんです。ただ、あちらのお二人はそれを上手く隠すすべもご存知のようですが」


 親子揃って頑固だという自覚があるので、その点に於いては否定ができなかった。だが身に覚えがあるからこそ、赤の他人から指摘されれば不愉快この上ない。


「そのような仰りよう。あなたは父や兄と懇意なのですか」


 下位の色の袍を身に付けた一官吏が、宰相である父やその直下で働く兄と関わりがあるとはとても思えない。それなのに、まるで旧知の仲だと言わんばかりの分析を披露するこの文官は、いったい何者なのだろうという疑問が湧いてくる。


「いいえ、まさか! 遠目からお姿を拝見したことくらいはありますが」

「では、なぜ彼らの為人ひととなりがそうだと思うのです?」


 この国でも最高峰の高官と知り合いなのかと訊ねられて、ひたすら恐縮していた男が、今度はいともあっさりと答えを返した。


「さっき言ったじゃありませんか、皇城に在籍するすべての人の身上札がここにあると。もちろん明麗殿のお父上と兄上のものも含めて、です」

「では、その身上札に書かれた氏名を見ただけで?」


 小さな短冊に書かれたたった三文字だけで、その人物の性格を読み取ったというのだろうか。あまりにも荒唐無稽な理由に、明麗はただ憮然とするしかできない。


「ここは宝の山ですよ。数え切れないほどのたくさんの書に触れられるんです。多彩さだったらどんな書庫にも負けません。ここにある身上札一枚一枚に、書いた人の人生が詰まっていると思うと、興奮で眠れなくなります。この前の夜勤のときなど夜通し眺めていたのですが、まだ半分にも届かなくって」


 半分!? 明麗は目を瞠って、文官と壁一面の棚に収められた無数の身上札を見比べる。この男が守衛門に勤め始めてどのくらい経つのかは知らないが、年齢からしてもそう長い期間ではないだろう。それでもう、半分に目を通したなどと平気でうそぶく。

 しかも、そのすべての手蹟が頭の中に入っているかのような口振りに、明麗は花弁はなびらのように可憐な唇をぽかんと上下に開いたまま閉じられずにいる。

 彼女のそんな姿も目に入らないのか、明麗から死守した墨の乾いた短冊の文字をひとつひとつ丁寧に指先でなぞりながら、男はうっとりとした微笑を浮かべて続けた。


「あなたの文字には、宜珀さまたちの手蹟に見受けられる世間ずれした部分のない、実直さと素直さがあります。それをとても強く感じるのに、滑らかな優雅さと気品まで備えた美しい、紛う方なき女手蹟おんなでの書です。だけど、たまには他人ひとの意見に耳を傾けることをしたほうがいいですね。そうすれば、もっと柔らかさが出ると思いますよ」


「あ、あなたは、筆跡鑑定官なの? それとも占い師!?」


 どうにか気を取り直した明麗が、身上札を所定の棚にしまう文官の背中に負け惜しみじみた声をかけた。


「はい? 違いますよ」


 間の延びた声で男が振り向いて応える。


「申し遅れました。僕は林文徳りん ぶんとく。この春に採試に合格して任官した、秘書省の書記官です。まだ見習い同然ですけど」


 奥から文徳を呼ぶ声が聞こえた。

 文徳はまたまた「はーい」と力の抜ける声で応えると、明麗たちに一礼して去って行く。


「なんというか……変わった方でしたね」


 黙ってやり取りを見守っていた孫恵が、明麗の心の内を読んだかのように呟いた。それに、こくりと首を縦に動かして激しく同意する。

 明麗の父親の地位や美貌にも気を留めた様子もなく、ただ彼女の書いた文字に対してのみ、陶酔の表情を浮かべた変わり者。


 明麗の記憶に、林文徳という文官の第一印象はなんとも奇妙なものとして克明に刻まれたのである。


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