宮女の心得《3》

 桃の実が色づく季節になった。李明麗り めいれいが宮女として皇宮で勤め始めて一月ほどが経つ。

 俗に『美人は三日で飽きる』といわれるように、異常なほどだった皇宮内の浮ついた雰囲気はすでに消えつつあった。もとより、容姿さえ採用の条件となっている数多の女官が集う場所だ。いくら群を抜く美貌の明麗といえども、百花繚乱の中にあってはその魅力もいささか目減りしてしまうというもの。

 その上、どんなに恋い焦がれても、大概の者が手の届くどころか、伸ばすことさえ許されない高嶺の花だ。ときおり目の保養をさせてもらえれば十分、と悟る者が大半となっていた。

 ところがその花には自由奔放に動く手足と、それ以上によく回る頭と口が備わっていたことが、李宜珀り ぎはく博全はくぜん父子以外にとっては大きな誤算であった。観賞用とするには致命的な欠点である。

 宮女、李明麗の評判は、その見目の美しさ以外のところで、皇宮中に名を轟かせていた。


 夕刻間近の皇族の食事が用意される厨房内から、絹を裂くような悲鳴が響く。周囲にいた者たちの反応はものの見事に二分された。

 驚いて立ち止まり何事かと焦る者は、皇宮へ出入りが少ない皇城の官吏や久し振りに納品にやって来た遠方からの商人などだ。残りの者は「またか」と嘆息を吐きつつ、足早にその場から逃げ去っていく。万が一にも騒動に巻き込まれてはたまったものではない、とここ一月余りの間で骨身に染みているからである。


「明麗! どうやったら、かまどの火がこんなに燃え上がるのっ!?」


 額に青筋を浮かばせているのは孫恵そんけいだ。

 その脇で炊飯担当の下女が必死で消火に励んだことによって、どうにか事なきを得られそうだ。知らせを受けようやく到着した警邏の武官は、そこら中が水浸しという惨事の傍らに明麗の姿を見留めて頭を抱えていた。


「火が消えそうだったから、そこにあった油を注いでみただけよ。史書に、戦で敵国の城を焼くのに油を撒いて火を点けたとあったわ。それに、火矢の矢尻にも油を染み込ませた布を巻いたりするでしょう?」


 同意を求められた武官がびくりと肩を揺らし、「はあ、まあ」と曖昧に答えを濁す。


「あなたは、くりやどころか、この皇宮を燃やし尽くすところだったのよ」


 そんな事態になれば、当人たちはおろか一族郎党にまで累が及ぶのは必至だ。


「……ごめんなさい」

「私にでなく、ここの皆にお謝りなさいな。見てご覧なさい。夕餉のご飯が台無しだわ」


 孫恵にぴしゃりと言われ明麗が怖ず怖ずと目を向ければ、逆さまになって中身が床にぶちまけられた鉄鍋が転がる。竈も水没し、すぐには使えそうにもなかった。


「その無駄になった米に、どれだけの手間と費用がかけられているかなんて、あなたはいままで考えたこともないでしょうけれど」


 心底呆れられた。淡々と言い放つ孫恵の口振りに、ようやく明麗の顔から血の気が引く。

 彼女にとって日々の食事は勝手に用意されて出てくることが当然であり、そこに至るまでにどれだけの人の手が関わっているのかなど、孫恵の言うように疑問に感じたことすらなかった。


「もっ、申し訳ありませんでした」


 白い額が膝につきそうなほど深く腰を折って頭を下げた。「あっ」と周囲から小さな声が上がったのは、無造作にひとつに括られたの黒髪の先が、汚れた床を掃き撫でそうになったからだ。


「駄目になってしまったものの代金は、給金をいただいたら必ず払います。もし、それでは足りないようでしたら家に……いいえ! 分割でも構わないでしょうか? 何年かかっても全額お支払いします!!」


 頭を下げ続ける明麗の見当外れの必死さに、とうとう忍び笑いがあちこちから漏れ始める。それでも頭を上げない彼女の前に、調理担当の長が進み出た。


「頭をお上げください、宮女殿」

「ですが……」


 不安げに目線だけを上げた明麗に、シワだらけの顔が綻んだ。


「零れた米の代金など、あなた様の一日分のお給金でも釣りが山ほどきます。どうかお気になさらず」


 米の相場はもちろん、己が受け取ることになっている給金の額さえ知らない明麗が、「え?」と思わず上げた顔が再び曇った。


「けれど、夕餉の支度が間に合わないのでは」

「なに、まだ時間はございます。竈も他のものを効率よく使えばなんとかなりましょう」


 そこでやっと安堵のため息を吐き出し、もう一度詫びと礼を入れる。


「本当に申し訳ありませんでした。その……お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」


 この国屈指の名門、李家の令嬢にここまでされると、今度は相手方が恐縮してしまう。長は「それでは、ひとつお願いが」と提案することで、場を収めようとした。


「はい。なんでも申しつけてくださいませ。なにかお手伝いすることがありますか?」


 俄然やる気を出して腕まくりを始めた明麗を、顔を赤くした孫恵が押し止め、袖を下げて露わになった細い腕を隠す。他の者たちも大慌てでそれぞれの持ち場に戻って、素知らぬ振りを押し通した。口に出しては言えないが、明麗に一刻も早く厨房から立ち去ってもらうことが、一番効率的だと思っているのは確実だろう。


「いえいえ、ここはけっこうです。宮女殿には誠に恐れ多いことですが、皇后陛下のもとへ行っていただき、本日の夕餉の献立が変わることをお伝え願えませんでしょうか」

「――そんなことでよろしいのですか?」

「さすがに、お使者を立てている余裕はありません。ですが私どもでは、お目通りも敵いませんので」


 調理長は使える食材を素早く確認すると、新たな献立を書にしたためた。さすがに皇族の料理を任される者だけあって、その筆跡を見ただけで美味しそうな香りが想像できる感字である。


「こちらを方颯璉ほうそうれん奥女官長へ」


 差し出された書簡を受け取ろうとした明麗の手が止まる。すっかり失念していたが、皇后の元へ届けるということは、嫌でも颯璉と顔を合わすということを意味する。

 躊躇って宙に浮いた明麗の手の代わりに、孫恵が献立が書かれた書状を丁重に預かった。


「女なら腹を括りなさいな。今日のお説教は、きっと長くなるわよ」


 ぽん、と項垂れる明麗の華奢な肩を叩く孫恵は、明麗のお守り係に任命されてからずいぶんと逞しくなったようだ。顔を歪める明麗を掴み、引きずるようにして引っ立てていく。

 調理状況の監視を命じられていたはずの彼女たちが、なぜ新たな献立を持ってきたのかということを説明するには、事の次第を初めから説明しなければならないだろう。そうなれば、特大級の雷が落ちるのは必至だ。いや、もしかすると、すでにどこからか報告が上がっているかもしれない。

 さらに都合の悪いことに、今回の件も一部始終が一両日中には父兄の元へと伝わるのだろう。また博全が、わざわざ煩雑な手続きを経てまでお小言を言いにやってくるに違いない。そう思えば、動かす足が鉛でできたように重みを増す。

 文句を言うなら実家へ返せばいい、とは、もはや明麗は思わなくなっていた。皇宮での仕事は自分が望んでいたものとは違うが、それでも狭いやしきにこもっていたころに比べれば段違いに見解広がっている。いかに己が狭い範囲で生きてきたかを思い知らされている真っ只中だ。

 書物で知り得た知識を活かす機会だとばかりにいろいろと試してみるのだが、いまのところ、どれも良い成果が出ていないのが納得いかないところだった。


 今度こそは、と傍迷惑な決意を明麗がしているうちに、二人は離宮に到着する。入口で来訪の趣旨を伝えると、ほどなく許可が下りて中へと通された。


「また、あなたですか。いったい、何度問題を起こせば気がすむのです」

 

 顔を合わせた早々に、方颯璉の眉間のシワが深まる。


「先日、花を生けるように申しつければ、皇后陛下が大切になさっていた花瓶を割ってしまう。その罰として庭の草むしりを命じれば、今度は陛下が百合后さまのために植えさせたユリの球根を、滋養に良いと掘り起こして食べようとする。そして今日は、小火騒ぎまで起こしたと聞きましたが?」


 怖ず怖ずと献立を差し出せば、盛大な溜息を隠しもせずに吐き出された。


「あら、今晩の献立が変わってしまったの? 残念だわ。楽しみにしていたものがあったのに」


 へやの奥から聞こえてきた声に明麗たちはその場に膝をつく。平伏しようとした二人を手で制して皇后は長椅子に身を預け、颯璉から書状を受け取った。


「まことに申し訳ございません」


 悪気は全くなかったとはいえ、原因を作ったのは紛れもなく明麗だ。深々と頭を下げると、孫恵も顔を蒼くしながらともに詫びる。揃って連帯責任で罰せられたとしても、仕方のない状況だった。


「気にしなくていいのよ。ここの料理はどれも美味しいのだから」


 言いながら献立に落としていた目をすがめる。気に入らない料理でもあったのだろうか、と二人が身を硬くしていると、皇后が颯璉を手招きした。


「これは……なんという字だったかしら」


 指した一点を覗きこんだ颯璉が、「えびでございます」と小声で告げる。


「えび……」


 皇后が細い指先で文字をなぞりながら、小さく口を動かすのが見てとれた。明麗は、もしやと腰を浮かしかけたが、颯璉が投げた厳しい視線で縫い止められる。


「それにしても困りましたね。これほどまでに度重なり騒ぎを起こされては、後宮の、果ては皇后さまの監督不行き届きを疑われかねません」

「あら、わたくしは構わなくてよ。明麗が来てから賑やかになって、楽しいわ」


 あくまでも暢気な皇后に、方颯璉の片眉がぴくりと跳ねる。すっと切れ長の目が細められて、細長のおもてからは一切の表情が失われた。


「そういうわけには参りません。これ以上、陛下に対して迷惑をかけられる前に、李明麗の任を解いたほうがよろしいかと、私は存知あげます」

「お、お待ちくださいませっ!」


 一足飛びの提案に焦った明麗が異を唱えようとするが、それは颯璉の一瞥で黙らせられる。しかし、せめてもの抵抗とばかりに、冷たい目差しを押し返すように颯璉の眼をギッと見返した。

 それに対してあからさまに不快な表情を創ると、颯璉は明麗の全身に目を走らせた。


「第一、そのだらしのない格好はどうしたというのです? 髪は乱れて、帯紐の結びもずいぶんと適当ではありませんか。宮女たるもの、己の身だしなみも整えられないようではとうてい務まりません」


 明麗の艶のある豊かな黒髪は、うなじのところでひとつに紐で括っただけだ。それもよく見れば、結び目が固く珠を作っていて解くのに一苦労しそうなものである。同様に、衣の紐も左右で長さがまちまちだったり、縦結びや固結びになってしまっていた。


「これは……」


 無残な結び目を指先で弄くりながら俯く。何度、孫恵に教えてもらってもいっこうに上手くならないのだ。業を煮やした彼女が手を貸そうとしてくれるのだが、孫恵は明麗の侍女ではない。なんとか自分の手でできるようになりたいと意地を張った結果が、いまの状態だった。


「そうね。たしかに、その出で立ちでは……いけないわね」


 皇后までもが、視線を上下に動かして柳眉をしかめた。口元に人差し指を当てなにかを思案する様子を、明麗は固唾を呑んで見守った。彼女の去就は、皇后のひと言で決まる。


「決めました」


 静かだがはっきりとした声に、明麗がびくりと肩を揺らした。続く言葉を息を詰めて待つ。


「やはり、明麗にはわたくしの傍にいてもらいましょう」

「皇后陛下っ!?」


 珍しく颯璉が悲鳴に近い声を上げた。だが皇后は、それに穏やかな微笑みで応える。


「目の届く場所にいてくれたほうが、颯璉、あなたも安心ではなくて?」

「ですが、自分の着付けもまともにできないような女官を、皇后さまのお傍に置くわけには。働かない者に給金を与えるわけにもいきません」


 食い下がる颯璉に、皇后が「そうねえ」と頬に手を添え小首を傾げた。その思いの外幼い仕草はどこにでもいる娘のようで、明麗は勝手に親近感を覚える。


「あの……」


 気づけば言葉がひとりでに口を衝いていた。皆の様々な思いのこもった視線が集中する。


「失礼を承知でお伺いいたします。もしかすると皇后さまは、我が国の文字がお得意ではないのではありませんか?」


 さきほど献立表を見ていた彼女に覚えた違和感を、忌憚なく述べてみた。葆の文字は、他国と比べてもかなり複雑だ。仮にそうだとしても、異国出身の皇后が恥じ入るものではない。だが皇后は頬を薄らと紅く染めた。


「あら、わかってしまったの? 恥ずかしいわ。会話は故郷くににいたときから学んでいたので、ほとんど不自由がないのだけれど、読み書きはまだ苦手、ね」


 その身分にも関わらず取り繕うことをせず、また己を卑下することもなく話す皇后に、明麗はますます好感を抱く。それならば、とある考えが思い浮かんだ。


「僭越ながら、わたしが皇后陛下に葆の文字をご教授させてはいただけませんでしょうか」


 生活に関する能力には問題があると認めざるを得ないが、これだったら自分にもできそうだ。実際に李家では、甥の英世えいせいに学問や書を教えていたのだから。

 だが当然のことながら、方颯璉はいい顔をしない。


「あなたは皇后陛下を幼子と同列にするつもりですか?」

「いいえっ! そんなつもりはまったく――」


 ああ言えばこう言う。この奥女官長は、どうしてこうも自分に突っかかるのだろうか。明麗は次第に苛立ちを募らせていく。ギリっと奥歯が鳴った。


「颯璉。お止めなさい」


 見兼ねた皇后が割って入ると深く嘆息をもらし、「しかし」とまだ不満を残す颯璉に向け、静かに首を横に振った。


「あなたの気持ちはありがたく思います。でも、こうするのが一番良いことなのです」


 薄い笑いを浮かべる皇后に、颯璉が辛そうに眉を曇らせた。皇后は一転して笑みを明るいものに変えると、今度は明麗と向き合う。


「李明麗、よろしくね。あなたの教え子として学ばせていただくわ」

「は、はいっ! 精一杯務めさせていただきます」


 一度は皇后と方颯璉との間に生じたものが気にかかった明麗だったが、柔らかな笑みを向けられれば、そんな些細なことは瞬時にして吹き飛んだ。満面に喜色を浮かべ、最敬礼をもって応える。


「それから、わたくしはもう十分に静養できました。近日中に昇陽殿に戻ろうと思っていますので、皆もそのつもりで」


 一同が礼で応える中、体調を取り戻したはずの皇后の顔色はなぜか冴えなかった。

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