文官の務め《1》
乾いた墨と埃っぽい紙の香りが満ちる室内。卓面を覆い尽くしていた紙類は、周辺の床にまで侵食の手を伸ばしている。足の踏み場もない、とはまさにこの状態をいうのだろう。
その中心にいる人物は、一枚の料紙を手に難しい顔をしていた。
「おい、
先輩である
「はあ、まあ」
歯切れ悪く答えると、持っていた書類を惟信へ渡す。「なんだ?」と受け取った惟信が目を通してみた文面は、先年、同僚の文官が提出した休暇願だった。特に不審な点も見当たらず、それを出した同僚は休みが明けた後、希望により故郷のある地方へ異動している。
「これがどうかしたのか?」
再度問われ、文徳は鼻の頭をかきながら承認者の欄を指差した。それは、彼らの直属の上官でもある
「これ、偽筆ですよね?」
「まさかっ!?」
惟信が目を皿のようにして、穴が開きそうなほど文字をみつめる。彼とて皇宮の書記官だ。真贋を見極める目は人並み以上に持っていると自負している。だが、そこにあるのは自身もよく知る楊の手蹟にしか見えない。
「これが、か? そんなはずはないだろう」
楊の署名ももちろんだが、さらに上の書記部の長、
書記官の一番上に立つ者が、見慣れているはずの部下の文字の偽造に気がつかないなど、あり得ないし、あってはならないことだ。
「とてもよくできています。並べてみても、普通の文官ならまず気がつかない」
だけど、と文字の一カ所を文徳は指でなぞる。
「ここの払いの部分。筆の抜き具合ですが、楊殿のものはもっと、こう、力が抜けているのです。それにあの方の起筆は、もっともっとふらふらと頼りなくて――」
宙に文字を書くように指先を動かすが、郭惟信にはまったく理解できない。彼は嘆息を吐いて、
「あ、なにをするんです!?」
「いいか、林文徳。万が一、おまえの言う通りにあの署名が偽筆だとしても、もう一年以上も前のことだ。それに、奴の休暇は滞りなく終わっているんだ。いまさらそれを蒸し返して、誰の得になる?」
「でも、偽書は許されない行為で――」
ばんっ! と惟信が卓の書類の上に、両手を痺れるほど勢いよくつく。耐えきれなかった紙の山が、音を立てて崩れていった。
「たしかに公文書の偽造は大罪に値する。場合によっては、頸が跳ぶことも珍しくない。だが、この件に関しては誰も損をしていないんだ。あえていうなら彼が休暇の間に仕事が増えた俺たちだが、そんなのは些細なこと。それよりも、不正を見逃した虞書記部長の名誉を守るほうが重要だ」
いくら騙された側だとはいえ、仮にも書の専門家である書記官の長が、偽筆に気づかなかったということが世間に知れ渡れば、大変な不名誉だ。下手をすればその地位が危ぶまれる。
別に惟信としては彼の去就などに興味はないのだが、問題はその事によって虞広から逆恨みを買うことだった。『長』がつく役職にある者に目を付けられれば、これからの出世はまず見込まれない。惟信とて少なからずの野心を持って採試を受けている。事勿れ主義に流されても無理はなかった。
それでもまだ、恨めしげに散乱する紙をみつめる気落ちした文徳の肩を、惟信はまだ先ほどの痺れが残る手のひらでぽんと叩いた。
「おまえさんだって、
養父の名を出され、文徳は膝の上で握った拳に力を入れ唇を噛む。己だけならどうあっても暮らしていける。もともと世の底辺で生きてきた身だ。だが、年老いた
「わかったな。今回の件は、おまえの胸の内に納めておけ」
「……はい」
早く仕事を片づけるように、と言い置いて惟信が出ていくと、文徳は深い嘆息を洩らす。散らばった紙をのっそりとまとめながら、瞳を流れていく文字たちに謝罪した。こんなに彼らは雄弁に語ってくれているのに、その意図を正しく読み取ってあげられなくて申し訳なく思う。
あの偽筆の手蹟は、こう評するのも妙な話だが、見事なものだ。皇宮に詰める筆跡鑑定の専門家であっても、十人に一人くらいは見落とすかもしれない。それほど巧妙に書かれていた。目にする者を欺こうという意志が込められたものに間違いない。だが文徳は感じとっていた。その中に極微かに残されていた、筆者の罪悪感を。あの書の書き手は、本当は誰かに気づいてもらい止めて欲しいと願っている。そう文徳には思えたのだが、余計なお世話なのだろうか。
書かれた文字の真意を読み取ることが許されない場合もあるのだと、文徳は官吏になってから初めて知る。それまではその文字が、どのような状況でどんな想いを込めて綴られたものなのかを感じとることこそが、一番大切なのだと信じていた。その考えが、根底から崩れていくような気がして、思わず手にしていた一枚をくしゃりと丸めてしまう。慌ててシワを伸ばして山に重ね、自嘲する。
好きな文字を好きなだけ、好きなように書いて生きていくことは、文徳が想像していたよりもかなり難しいことのようだ。己が楽文の元で過ごしてきた年月が、どれほど幸せな時間だったかを思い知らされていた。
気落ちしながらも与えられた仕事を片づけると、報告をしにとぼとぼと回廊を歩く。もともと、それほど重要なものではなかったのだ。急がなくても構わないだろう。最近、文徳はどんどん閑職に回されている。もちろん仕事は仕事だ。手を抜くつもりもないし、給金さえきちんともらえれば問題はない。
心残りがひとつあるとすれば、門衛の仕事を回されなくなったことくらいか。大量の手蹟を目にする絶好の機会を失ったことになる。
「また、お師匠の書庫に籠もらせてもらおうかな」
自分の気持ちとは裏腹に、
「林文徳というのは、そなたで合うておるか?」
「はあ」
間の抜けた返事を返した文徳の顔を怪訝に眺め、その官人は横柄に白髪交じりの髭を蓄えた顎を反らす。
「あるお方のお召しである。ついて参れ」
文徳の返事も聞かず、くるりと身体の向きを変えつかつかと歩き出してしまう。その方向は書記部とは真逆である。
「すみません。仕事の途中ですので、いったん書記部に戻りたいのですが」
行方をくらませたと思われては面倒だ。ひと言断りを入れておきたい。文徳は後を追いつつ後ろを気にする。
「その必要はない。お待たせするわけにはいかん。急ぐのだ」
息を切らせながらも足を緩めない男に、文徳は「まあ、いいか」と従った。自分の直属の上司よりも、彼の方が位はずっと上である。従わない方が、後で面倒なことになりそうだった。
丸い体躯とそれなりの年齢にもかかわらず、高官の歩みは思いのほか早い。何度も角を曲がり、文徳も踏み入れたことのないような場所を迷いなく進むので、ついていくのが大変だ。帰り道も案内してくれるのだろうか、という不安に駆られた。
やがて、あきらかに周囲の様子が変わる。警護の兵の数が多くなり、建物はより一層荘厳さを増してく。ここまでくれば、さすがの文徳にも、あるひとつの答えが思い浮かぶ。たぶん皇宮のさらに奥。皇帝陛下のおわす宮が近い。
だがそうすれば、今度は別の疑問が湧いてくる。こんな場所に文徳が呼びつけられるような用件は、まったくといっていいほど思い当たらなかった。
「あの。いったい、どなたがなにを……」
堪えきれずに訊けば、ぴたりと男の足が止まる。回答が返ってくるものだとばかりに期待していると、振り返った顔は恐ろしいほど真剣で、文徳は思わず半歩足を引いてしまったほどだ。
「よいか。そなたがいったいなにをしでかしたのかは知らぬが、悪いことは言わん。素直に罪を認め、平身低頭で謝罪をするのだ。その気持ちに偽りがなければ、慈悲深いあのお方のこと。そう、無体なご決断はなされますまい。儂に言えるのはそれだけだ」
早口で言われ、文徳は訳も分らずぽかんとする。罪など犯しただろか。もしかして、当番でもないのに詰め所に居座って、身上札を眺めていたことがいけなかったのだろうか。それともこの前、清書用だとあまりに質の良い料紙を与えられ、一枚だけまったく関係のない文字を書いてしまったことだろうか。だとしたら弁償しなければ。自宅にちまちまと貯め込んだ小銭が、どれくらいになっているかを思い出していると、前で立ち止まっていた
衛兵は頷くと扉を開ける。そこへ向かって、彼が深く頭を垂れたので慌てて文徳も倣った。
「
聞き覚えのあるその名に文徳は思考を巡らせる。秘書省の次官のひとりに同じ名前があったはず。頭の中で、片っ端から見ていた身上札の文字を思い出す。彼のものは、少し性急な印象のある手蹟だった気がして、なんとなく納得した。
だがそれほど高位の者が、ここまで
「ご苦労であった。梁鴛はもう、仕事に戻ってよいぞ。――林文徳、中へ」
誘われて顔を上げた文徳は目を丸くする。開いた扉の内側に立つのは、
「なにをしておる。早く入るのだ」
梁鴛に背を押され、文徳は
「あっ……」
完全に逃げ場を失い文徳は嘆息する。どんなお咎めが待っているのか。養父にも累が及ばなければいいのだが。諦めの体で房の奥に向けて拱手する。
「林文徳です。お呼びと伺い、参りました」
相手が誰なのかもわからないまま頭を下げる。通常ならこれでも礼を失さないはずなのだが。一抹の不安が文徳を襲う。
「突然の呼び出し、すまなかった。もう少しこちらへ来てはくれぬか。声が少々遠い」
降ってきた声に文徳は耳を疑う。採試に合格した際、たった一度だけ間近で聞いたものと同じ声。
「へ、陛下……っ!?」
文徳はその場に叩頭しようとして宜珀に止められた。
「陛下はお忙しいのだ。早く仰せの通りに、お側へ」
「ですが、しかし……」
末端の臣下としてそれは許されないのでは。いくら世事に疎い彼にも、それくらいはわかる。
「構わぬ。公の場ではないのだ。面倒なことに時を割く方が無駄なこと」
当の本人にまでそう言われてしまっては、従わないわけにはいかない。怖ず怖ずと歩を進めた。
中は皇帝の使用している房とは思えぬほど狭い。最奥に置かれた黒檀の机に頬杖をつく
正面に立つともう一度、緊張に強張る手で拱手する。皇帝直々のお咎めでは、楽文にまで迷惑をかけてしまうのは間違いない。ああ、でも彼の功績を考慮してはもらえないだろうか。文徳は、己より、ここまで育ってもらい、存分に書に親しませてくれた養父のことを気に掛ける。
「恐れながら……」
と、上げた文徳の視線の先に、黒々とした墨を含ませ筆置きに置かれた一本の筆が目に入った。腰のしっかりしていそうな穂首は、公的な文を
あの筆で業務報告を綴れたら、通り一遍の文章が楽しいものになりそうなのに。ふらふらと手が机上へと伸びていたことに、文徳は自分で気づいていなかった。
こほん。脇から咳払いが聞こえて我に返る。中途半端な位置にある己の右手に、文徳は真っ青になった。
「も、申し訳……」
それこそ頸が跳ぶ大失態だ。慌てて引き寄せた震える手を硬く握り締める。文徳は跪くこともできずに、呆然と立ち尽くしてしまっていた。
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