文官の務め《2》

 くくっと喉の奥を鳴らすような声が室内に響く。それで我を取り戻ししばたたかせた文徳の目に、正面で口に手を当て笑いを押し殺す皇帝の姿が映る。

 苑輝は堪えつつもひとしきり笑った後、おかしそうに目を細め頬杖をついた。


「いや、すまん。書にしか興味を持たないというのは、噂通りとみえる。この筆がそれほど気に入ったか?」


 手許の筆をこれ見よがしにもてあそびながら苑輝に問われ、文徳は懲りずにごくりと唾を飲み込む。その様子をことさら楽しげに苑輝は眺めてから、もったいぶって筆を置く。


「林文徳。其方に来てもらったのは、頼まれて欲しいことがあるからだ。快く引き受けてくれるならば、この筆のみならず、硯に墨、紙。選りすぐりの文房四宝を用意しよう。どうだ?」


 魅惑的な報酬に一も二もなく頷きそうになった己を、文徳は必死で押し止めた。まだ依頼の内容をほんの触りも聞いていない。迂闊なことをして、楽文に迷惑をかけるわけにはいかなかった。


「……その、ご依頼というのは? ぼ……臣などに務まるものなのでしょうか?」


 文徳はなんの地位も名声もない新米の文官である。採試だとて、五回目にしてようやく最終試験まで残り、合格することができたくらいだ。中には十代半ばで受かるという天才、秀才もいるらしいが、彼は同期の中でも取り分け優秀な成績で通ったわけではない。

 そんな文徳に、皇帝自らどんな頼み事があるのというのか。不安しか抱けずにいた。


「なに、難しいことではない。一冊、写本をしてもらいたいのだ」


 机上に両肘をつき組んだ手の上に顎を乗せた苑輝に、真っ直ぐ見据えられる。その瞳は政務に就いているときとは異なり、柔らかな光を湛えたものだった。


「写本とは……」


 貴重な経典か史書だろうか。だとすれば、皇宮には数多の書記官が在籍する。文徳などに依頼しなくても、適任者はいくらでもいるだろう。不審に思う彼の前に、李宜珀が一冊の本を差し出した。


「陛下は、これの写しをお望みだ」


 惰性で受け取ってしまった書物に目を落とす。文徳は、そこに書かれた表題と皇帝の顔を交互に何度も見てしまった。


「本当にでよろしいのですか?」


 手渡された、さほど厚くもない本をペラペラと捲る。そこには想像通りの内容が書かれており、文徳はますます混乱した。その冊子の表題は『葆国民譚ほうこくみんたん』。この国の昔話を集めた子ども向けの説話集である。

 この本の内容と、目の前に座る威風堂堂たる皇帝とがどうしても繋がらない。それにわざわざ写本などしなくても、巷に溢れているいくらでも手に入る書物だ。それをわざわざ写せというのは解せない。そんな疑問が、文徳の顔にあからさまに表れていたのだろう。苑輝がさらに表情を緩めた。


「后の手習いに使いたいのだよ」

「皇后陛下の……」


 文徳はお目にかかったことはないが、皇后は西国の出身だということは知っている。言語も文字もまったく異なる国に嫁いできた彼女のために、という話ならば得心がいく。

『葆国民譚』は幼子でも読めるよう、難読難解な文字はほとんど使われていない。なおかつ、この国の風習や歴史などを、物語を通して学ぶこともできる。手習いとしては最適な教本とも言えるだろう。

 だがそれだけならば、やはり文徳でなくともいいのではないか。第一にこの本だとて、それなりの書家の手蹟によるものである。このままでも十分に手本となるほど、規則正しく美しい文字が並んでいる。

 疑問がまた振り出しに戻ってしまった。


「其方が書いた、採試の論文を読ませてもらった」


 唐突に変わった話題に文徳は少々面食らい、冊子を捲る手を止めた。


「え? あ、はい」


 正直、自分でもそれほど出来の良いものだったとは思えない。文徳が幼い頃より考えていたことを、思いつくままにつらつらと連ねただけ。あれを論文と呼ぶのも怪しいもので、よくぞ合格したものだと、我ながら感心したくらいだ。それを裏付けるように、苑輝が薄笑いを浮かべる。


「文章はたどたどしく、論文というには些か稚拙。本来なら、あれを合格とするには微妙なものだ」


 わかってはいたことだったが、目の前で改めて批評されるとさすがに身に応える。文徳の「はあ」と気落ちした返事に対し、それまで穏やかだった苑輝の瞳の色が凜としたものに変わった。


「だが其方の文字からは、この国の民にもっと書を広めたいという想いがひしひしと伝わってきた。それは、この位に就いてから、対外に重きを置いてしまっていた私の意識を改めさせるほどに、見事な『感字』と『看字』だった」


 皇帝から直々に賛辞を受け、文徳は恐縮する。自分の文章が、たとえ僅かでもこれからの苑輝の治政に影響を与えることができたのだとしたら、それはとても喜ばしいことだ。


「……本当、ですか?」


 ならば、もっとたくさんの人たちに、文字を綴ることの素晴らしさを知ってもらえるようになるのだろうか。文徳は密やかに胸を躍らせた。


「ああ。周辺の国々との関係が落ち着いてきたことで、ようやく国の内側に目を向けられそうだ」


 苑輝の声音は、文徳に期待を裏切るはずはないと信じさせるに十分な力強さがある。

 受験を躊躇っていた今回の採試だったが、「これが最後」と受けて良かった。このまま官吏として苑輝の下で働いていれば、いずれ何らかの形で己の理想に関わることができるかもしれない。

 そう考えると、もともと下がり気味の眉尻が緩んでさらに垂れていく。


「其方の書には、人の心に訴えかける力が大きく含まれているようだ。それで綴られた物語ならば、より理解を深めることができるに違いない」


 能筆で書かれた物語を読むと、まるで芝居を見ているような感覚に陥るという。そのようなものを文徳自身はまだ書いたことがない。不安はあるが、彼の心中で好奇心と探求心がそれを大きく上回る。


「あらためて依頼したい。我が后のために、そなたの文字で書いてはくれぬか?」


 このときにはすでに文徳の意は固まっていた。それでなくとも皇帝の命である。理由はどうあれ、彼に選択の余地など残されているはずはない。


「臣などでよろしければ。謹んでお引き受けさせていただきます」


 拱手で応える文徳に、苑輝が鷹揚に肯いてみせ謝意を示そうとしかけた口が遮られる。恐れ多くも、顔を上げた文徳が皇帝を真正面から見据えたのだ。


「もし可能ならばっ!」


 その語勢に、苑輝も、渋い顔のまま成行きを見守っていた李宜珀も呆気にとられる。


「賜る前に、そちらの筆を試し書きさせていただけませんでしょうかっ!?」


 室内に響いた声が吸収されるまで、三者の間に沈黙が流れる。完全に反響が消え、一拍、二拍、三拍目。

 呵々とした苑輝の盛大な笑い声と、顔に全身の血を昇らせて真っ赤にした宜珀の怒号が、へやの外にまで鳴り渡った。


 ◇ ◇ ◇


「ありがとうございました。ここからはひとりで戻れます」


 ようやく見慣れた景色になり、文徳は送ってくれた宜珀に礼を言う。道すがら受けた宰相のちくちくとしたお説教からこれで解放される。あからさまに肩から力を抜いた彼を見る宜珀の目つきは、変わらず険しい。


「周殿から話は伺っていたが、の御仁に輪をかけた書道馬鹿とは、真だったのだな。よもや、陛下にあのようなことを願い出るとは」


 文徳は筆の試用だけでなく、琥苑輝の直筆による書を頼みこんだのだ。

 この国の彼くらいの年代の男子にとって、苑輝は葆国に平穏をもたらした憧れの英雄である。その皇帝陛下に自分の名を記してもらう。これに勝る栄誉はなかなか思いつかない。

 彼の懐には、漆黒の墨で『林文徳』と書かれた料紙が大切にしまわれている。すべてを包み込むような大らかさの中にも、しなやかで、だが決して折れることのない信念が隠れている文字は、武力の行使を主張した先帝の代から仕える側近たちの反対を説き伏せ、戦続きだった周辺各国と話し合いを通じての和睦を為し遂げた彼らしい。

 家宝ができたと締まりのないほくほく顔の文徳へ、宜珀は呆れた嘆息を吐き出す。李宰相は、今となっては数少なくなった先代からの重臣だ。強硬な手段を採ることの多かった先帝にも怯まず、諫言を述べることも厭わなかった豪傑と、市井の間でも広く名が知られている。

 その李宜珀をもってしても、文徳の思考と行動は理解の範疇を超えていたようである。

 もう一度、眉間に深いシワを寄せた鋭い眼で一瞥を与えてから踵を返した宜珀を、文徳は深々と頭を下げて見送った。



 持ち場に戻った文徳を待っていたのは、またしても異動の通達だった。


「はあ、今度は記録係ですか」


 告げられた部署名に、珍しく文徳が難色を示す。


「なんだ。文句があるのか? 親子で仲良く同じ場所で働けるなど、良いことではないか」


 楊祟啓よう すいけいが、にやにやと嫌らしい笑いを浮かべてくる。ちらりと眼を動かすと、その背後で郭惟信かく いしんが決まりが悪そうに顔を逸らした。

 今回の異動の訳を察し、文徳は黙って荷物をまとめ始める。間もなく終業の時刻になるが、明日の朝から仕事にかかれるように、先に運んでしまおうという心積りだ。

 さほど多くもない荷を抱え、同僚たちに挨拶をする。


「短い間でしたがお世話になりました」


 戸口から声をかけても、ほとんどの者が僅かに顔を上げただけ。そのうちの数名が、いたわしげな目差しを送るに留まった。


『記録係は書記部の墓場』


 養父ちちの勤める部署がそう称されていることは、文徳も知っている。一説には、高齢の周楽文しゅう がくぶんのために設けられたという噂もあるが、体の良い厄介払いだとの意見が大半を占めていた。

 重い足取りで記録係が入る棟を目指す。


「仕事が少なくても、給金は変わらないのかなあ」


 荷物を抱え直して独りごちる。もとは、養父に気楽な隠居生活をしてもらおうとして決めた出仕だ。慎ましくても構わないが、男のふたり暮らしに不自由がないくらいはもらいたい。


「でもまあ、足りなくてもなんとかなるか、な?」


 いざとなれば、仕官する前にしていた仕事のつてを頼るまでだ。あまり大きな声では言えない仕事だが、あれはあれでそれなりの金になる。それに、自分の感じたままを好きなように書けるのがなによりも楽しい。

 ほんの少しだけ官吏になったことを悔やみ始めていた文徳は、いつの間にか目的の場所に辿り着いていた。

 風通しのためか大きく開かれた戸の前では、身を隠す場所もない。気まずいながらも着任の挨拶をしようとした彼が口を開くより先に、対面の席に座る周楽文と目が合ってしまった。


「おや。どうしたのですか?」


 顔の半分を覆う豊かな白髭と共に口がもごもごと動く。これまた毛虫のような眉の下で、糸の様な細い眼が目一杯に開かれる。


「ええっと。実は、明日からでこちらでお世話になるようにと……」


 養父に負けず劣らずでもごもごとしゃべる文徳を、楽文が手招きした。


「そんなところに突っ立っていないで、こちらへいらっしゃい。お茶でも淹れましょう」

「僕がやりますっ!」


 慌てて入室した文徳は、床に積み重ねられた書類の山に足を引っかけてしまう。ばさばさと音と埃を上げて崩れていく紙の束を、咄嗟に腕を伸ばして押さえたが間に合わない。均衡を崩した山が隣の山を押して、さらに被害が広がっていく。


「ああ……」


 散乱して入り乱れた紙たちは、もとはどこの山にいたのかもわからない惨状となった。とりあえずまとめようとして腰を屈めた文徳の手を、穏やかな声が制する。


「そのままで構いませんよ。今からそれの仕分けを始めたら、日が暮れ夜が明けてしまいます。どれも急ぎのものではありませんし、明日からゆっくり片づけましょう」

「……申し訳ありません」


 しょんぼりと肩を落とすすっかり大きくなった養い子を、楽文は辛うじて空いている席に座るよう促した。


「君が仕官したいと言い出したときから、いずれこんなことになるだろうと思っていました。ずいぶんと私の予想より早かったみたいですが」

「……そうだったんですか」


 思えば、養父は文徳が採試を受けることを強くは勧めていなかった。合格を伝えたときでさえ、普通なら諸手を挙げて大喜びしそうなものだが、楽文は白く太い眉を曇らせたのを覚えている。


『仕官などしても楽しいことはありませんよ。生活のことなら、君が心配しなくても贅沢をしなければ十分やっていけます。まだまだ私も職を辞すつもりはありませんし』


 そう言ってへにゃりと笑んだ楽文はどう見ても老齢である。不思議なことに文徳が初めて会った頃から、その姿はなにひとつ変わっていない。あれからもう、十三年ほど経つのだろうか。


 陽が傾き薄暗くなり始めた室の中で、文徳は乾いた熱い風が吹き、砂埃を巻き上げていたあの日のことを思い出していた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る