青年の追憶《1》

 先のほう国皇帝、望界ぼうかい帝の御代は終始戦乱の時代だった。こと晩年においては、なにかに取り憑かれたように国土を広げることに執心し、隣国との激しい戦を重ねる。

 その結果、国境くにざかい付近に住む民は否応なしに争いに巻き込まれ、田畑や住むところを失い、家族の命さえ奪われた者も数え切れない。林文徳りんぶんとくもそんな戦災孤児のひとりであった。


 ◇


 葆の北西、国境近くに位置する寒村で、文徳は父母弟妹と共に小さな畑を耕し、貧しいながらも仲睦まじく穏やかに暮らしていた。

 村外れを通る街道をほんの少し西に行けば、そこはもう他国の王が治める地となる。だが、両国間が比較的友好な関係を長い間続けてきたこともあり、主が異なる近隣の村同士で交流も盛んで、文徳たちにとっては遠く離れた自国の宮処みやこよりも遥かに身近な存在だった。

 それが徐々にきな臭さを感じるようになり、国境にはより高く強固な城壁が築かれる。山菜の豊富な山へ行くのに、挨拶ひとつで気軽に通してくれていた顔見知りの関所番たちは厳つい兵士へと一新され、子どもといえども容易には国を超えられなくなってしまう。

 人々の不安を映すように、周辺の戦況が日常会話の中にも混じりだす。それを耳にした村人の中には、東にいる親類縁者を頼って村から離れる者さえ現れる始末。そんな嫌な予感が現実となるのに、そう時はかからなかった。


 冷夏で作物の育ちが悪く、納める税どころか自分たちの食い扶持さえままならず、これからくる厳しい冬をどう越そうかと皆が思い始めていた年の晩秋。葆国中から、武官や兵士が国境付近に続々と集まってきていた。街道を通り、西へ遠征に出ようという宸旨を受けてのことだ。

 文徳たちの住む村にも、合流を待つ軍への補給が求められた。ただでさえ不足している食糧が、唐突に増えた負担のせいで更に困窮を極める。それでもどうにか寄せ集めて軍をもてなしするも、彼らは当然のように受け取るだけだ。

 村人の不満と疲弊が極限まで募っていた、その年の初雪がちらついた夜半のこと。敵襲を告げる銅鑼の音が鳴り響く。隣接する国と秘密裏に同盟を結んだ西国が、先手を打って攻め入ってきたのだ。

 火矢が放たれ、乾燥した風にのった火は家屋、草木を問わず舐め尽くす。村を焼く業火はまるで真昼のように夜闇を照らした。

 迫る炎と城門を破壊しなだれ込んできた敵兵に、あちらこちらから怒号と悲鳴が飛び交う。就寝中だった文徳が気づいたときには、すでに火の手が粗末な家に回っていた。

 文徳は隣で寝ている妹を揺り起こす。母親はまだ乳飲み子の弟を、しっかりと胸に抱えた。むにゃむにゃと寝惚け眼を擦る妹の手を引き立ち上がると、煙の充満する狭い屋内を見渡した。


「父さんは?」


 咳き込みながら悪くなる一方の視界の中で目を細めると、それに応えが返ってくる。と同時に煙が流れを作りだした。


「早く外へ出るんだ!」


 木戸を開け放った父親が四人を急き立てる。貴重品などなきに等しい家だ。着の身着のままで飛び出そうとした瞬間、頭上からメリメリと大きな音がして文徳は天井を見上げた。


「うわあっ!」


 燃え盛る屋根を支えていた梁にも移った火は、橋を渡るように広がっていく。パチパチと爆ぜる火の粉が振りかかる頭を抱え身動きが取れなくなった文徳たちの上に、とうとう耐えきれなくなった木材がバラバラと落ちてきた。

 赤く焼けた角材に押しつぶされることを覚悟し目を瞑った文徳は、いっこうに襲ってこない衝撃を不思議に思い薄目を開ける。すると落ちてきた木材を大きな背中で受け、覆い被さるようにして子どもたちを守る父の姿があった。

 苦痛に顔を歪める父親が、長男を叱責する。


「なにをしているんだ。急げっ!!」

「で、でも父さんは……」


 様々な匂いに混じって、肉の焼ける嫌な匂いが文徳の鼻に届く。それでも父は両手を目一杯に広げて降り続ける火片を己の身で受け止め、怯える息子の眼を見据えた。


「心配はいらない。みんなが出たらオレも行く。わかったな?」


 ぎこちない動きながら文徳が頷くのを見届けると、耐えがたい熱と痛みが襲っているはずなのにほわりと柔らかな笑みを浮かべた父が、「さあ」と出口を顎で示す。その間にも、家が崩れていく音は大きくなる一方だ。覚悟を決めた文徳は妹の手を引き、末っ子を胸の中で庇い火の粉を避けていた母の背を押した。

 自分の下から文徳たちが抜け出したことに安心した父親は、ついに膝をつく。背中からゴロリと落ちた木片の火は粗末な夜着にも移っており、彼の背を覆い尽くしていた。


「父さん、火が!」

「来るんじゃないっ!!」


 驚いて引き返そうとする文徳は父親に怒鳴り返され、びくりと足を止める。


「いいから早く行け! ……母さんたちを頼んだぞ」

 

 苦しそうな息遣いと共に吐き出し、がくりと床に伏せてしまう。倒れた父のところへ戻ろうにも、上から絶え間なく落ちてくる火片と、耳に残る父の言葉がそれを阻んだ。

 恐怖で竦む足を懸命に動かし表にまろび出て振り返ると、家全体を包む巨大な炎に愕然とする。思わず力が抜けた文徳の手から、するりと小さな手が離れた。


「おうまさんがいない!」


 妹が寝るときも肌身離さず持っていた、父が作った木彫りの馬は崩れ落ちる寸前の家の中。


「無理だよ。諦めるんだ」


 馬も、父も。なにもできない自分の小さな手を握り締め唇を噛んだ文徳の意識が、ほんの一時いっときだけ彼女から逸れる。こんな状況で我が儘を言う妹に、文徳は無性に腹が立つ。だがそれも行き場のない怒り故の八つ当たりだと思い直し、無茶を言う妹の肩に置こうとした手が空を切った。


紅清こうしん!?」


 彼が目を離した隙に燃えている家の中へ消えていく妹の名を叫び、後を追おうとした文徳の腕が強い力で掴まれる。


「ダメよっ! あんたまで巻き込まれてしまう」

「でも、母さん。このままじゃあ、紅清と……父さんが」


 手を振り解こうとした文徳は、母から腕の中にいた弟を渡された。


「母さんが行くわ。この子をお願い」


 文徳が抱いた途端、赤ん坊はどこかに火が移ったのではないかと思うほどの大声で泣き始める。気を取られた母親が躊躇した次の瞬間、大きな音を立て文徳たちの家は焼け落ちた。

 轟音に混じり、微かに高く短い悲鳴が聞こえたような気がして息を呑む。しかしそれも、文徳の脇にいる母親の絶叫がかき消してしまった。


「あなたっ! 紅清!!」


 家の形を失ってもなお激しく昇る炎の中へ飛び込もうとする母を、今度は文徳が必死で止める。もう、ふたりとも助からないことは明白だ。それより遺された自分たちが生き残らなくはならない。ここは戦場だった。


「……母さん、早く逃げないと」


 紅清の手を離してしまったことは、いくら後悔してもしきれない。だが今はそれを後回しにする。父に託された最期の言葉を守ろうと、文徳は涙を堪えて母を促した。

 家を焼かれたのは文徳たちだけではない。炎から慌てて逃げ出した村人たちの前に、今度は荒れ狂う敵兵たちが立ちふさがる。奇襲が成功したことで高揚した彼らの戦意は、葆国軍だけでなく丸腰の民衆にまで向けられていた。

 もともとが貧しいうえに不作が重なり強奪するものなどなにもない村だったことが、期待を裏切られた兵士たちをより一層狂暴にさせていく。

 子どもから老人まで鹿や猪を追い立てるように槍や矛で突き回し、的代わりに矢を打ち込まれる。女などは、まだ年端もいかない娘だろうが孫がいるような年齢の者であろうと、手当たり次第構わず物陰に引きずり込まれ侵略者たちに乱暴された。僅かでも抵抗すれば、奴等はなんの躊躇ためらいもなく剣を振りかざし首を刎ねる。

 自国内だと高を括っていた葆軍は統率が行き届かずに浮き足立ち、我先にと逃げ惑う者が続出して頼りにならない。

 辺りには悲鳴が飛び交い、炎が血だまりを不気味に照らす。目も耳も覆いたくなる惨状だが、それをしていては己が新たな死体となるだけだ。文徳は片脇に弟を抱え、もう片方の手を母親と繋ぎ、ただこの場から逃れ生き延びることだけを考えて足を動かしていた。


 グンッ! と文徳の片腕に衝撃が加わり、今さっきまで手のひらに感じていた熱が急速に冷める。


「母さんっ!?」


 外れた手の行方を追うと、反対の腕を鷲掴みにされた母が文徳に向けて手を伸ばしていた。


「母さんを離せっ!」


 果敢に野卑な笑みを浮かべる男たちに突進するも、軽く振った太い腕でなぎ払われる。地面に叩きつけられた文徳は、咄嗟に弟を胸に抱えて庇った。


「止めて!!」


 母親は子どもたちに駆け寄ろうとどうにかして屈強な男の手から逃れようとするが、びくともしない。それどころか、男たちは愉快そうに薄気味悪い笑みを浮かべている。


「おいおい、どこへ行く。おまえはこっちだ」


 簡素な胸当てを着けた懐に抱き寄せる。もがく母の顎を掴み上げ、下品な笑い声を上げた。


「ガキを連れているからどんな年増かと思えば、そう悪くないじゃないか。たっぷり楽しませてもらおうや」


 訛りはあるが十分聞き取れる葆の言葉で会話する男たちの話し方に、文徳は覚えがある。何度も往き来したことのある、国境を挟んだ隣村の者たちのものと同じだった。もしかしたら、一緒に遊んだことのある子どもの父親かもしれない。そう思うと、凍りついたように身体が動かない。


「いやっ。 離してっ!」


 抵抗すればするほど兵士たちの嗜虐心を煽っているのに気づかない母親は、髪を振り乱してじたばたと手足を動かす。


「そう暴れんなって。おとなしくした方があんたも、そこのガキたちにもためにもいいと思うがな?」


 腰に佩いていた長剣を抜き、どす黒く汚れたままの切っ先を文徳たちに向けた。母親がひぃっと小さく息を呑んで動きを止めると、男は満足そうに頷く。


「やりゃあ、できんじゃねえか」


 身を硬くする彼女の首筋に、男がべろりと舌を這わせた。怖気立った母親は、堪らず薄汚れた顔を払いのけ、その拍子に指先が男の片目を掠めてしまう。


「……痛っ。なにすんだ、てめえっ!」


 大きな手で頬を張られ倒れ込んだ母の元ににじり寄ろうとした文徳を、彼女は首を振って止めた。


「早くっ! 早く逃げなさい!!」

「けど……」


 母を置いては行けない。狼狽える文徳の腕の中で泣き続ける弟を、片目を押さえた兵士が無事な方の瞳でギロリと睨みつけた。竦んで強まった文徳の腕の力に、泣き声は更に大きくなる。


「チッ。うるせえガキだな」


 男は苦々しげに舌打ちすると、文徳たちに一歩ずつ近づいてくる。逃げなければ。思考は警鐘を鳴らすが、根が生えたように身体は言うことを利かない。振り上げられた剣に映り込む村を焼き尽くす紅蓮の炎から、目を離すことができなかった。

 勢いよく下ろされた刃が風を切る音がした途端、文徳はなにかに押されて仰向けになる。

つい今し方まで眼前に広がっていた恐ろしい光景が、月も星も出ていない夜空を背景にした見慣れた母の微笑みに変わった。その優しく弧を描いていた眼がゆっくりと閉じられ、母の姿が文徳の視界から消える。

 ドサッと鈍い音を立て地面に俯せになった母親の大きく斜めに裂けた背から赤い液体が流れ出し、身体の下に染みを作り始めた。じわじわと広がる染みが文徳の元へと辿り着いて、慌てて身を起こす。


「母さんっ!? しっかりして」

「なんだ、死んじまったのか。もったいねぇ」


 施された溝に添って一筋の血が滴る剣を下げた男の後ろから、仲間の兵士が不満を漏らした。


「う、うわぁ」


 揺らしてもぴくりともしない母の身体に起きたことをようやく理解した文徳は、叫び声を上げ地に腰をつけたままずるずると後退りする。だがほんの数歩で追いつかれた。不意に腕が軽くなったかと思うと、抱えていたはずの弟が宙を飛んでいる。男が襟首を捕まえてぶる下げているのだ。


「か、返せ……」


 震える声はあまりにも小声で届かない。男は赤ん坊を乱暴に揺らすと、フンとひとつ鼻を鳴らした。


「つまんねえなあ」


 その一言の後、文徳の目の前から弟が忽然と消える。続けて耳を疑う嫌な音が聞こえた。それは文徳の呆然とする頭に、収穫した瓜を不注意で落とし割ってしまい、父親にひどく叱られたことを思い起こさせる。そんな音だった。

 音のした方角が闇溜まりで確認できなかったことは、彼にとっては不幸中の幸いだったのかもしれない。それでなくとも、幼い心はとうに限界を越えていた。

 文徳は大きく息を吸い込んで、溢れる感情を絶叫に変えようとする。そのときだ。


「じゃあ、オレと遊ぼうぜ。――命がけでさ」


 声の主は、衰えることなく燃え上がる炎の中から現れたかのようだった。悠然とした足取りでこちらに向かってくる姿に集まった注目にも、なんら臆することはない。どう見てもまだ十代半ばと思われる少年は、身の丈と同じくらいの大剣を軽々と肩に担いでいた。


「なんだ、このガキ」


 剣呑な気配をまとい始めた兵士たちが、少し距離を置いて取り囲む。年少者と侮らない程度には本能が働いたようだ。少年が無残に転がる文徳の母親の遺体を一瞥し眉をひそめた僅かな隙をつき、一斉に襲いかかる。

 少年は最初の大振りな一撃を横に移動して難なくかわすと、大剣を水平に払う。まるで藁人形を切るように最初の兵士を倒した。

 続いて背後から斬りかかった兵の重たい剣を自分のそれで受け流し、返した刃で首を刎ねる。見るからに重量のありそうな大剣を片手で操り、三合と交えず確実に相手を仕留めていく様は剣舞ようだ。

 だかそれが見世物ではない証拠に、大剣が唸りを上げるごとにひとつ、地面に骸が増える。眼前で繰り広げられる一方的とも思える殺戮に、文徳は瞼を閉じることもできず、ただそれを息を殺して眺めていた。

 あっという間に最後のひとりとなった兵士が動けない文徳を盾にしようと腕を取るが、腰が抜けていたため足がふらつきすぐには立ち上がれない。足に力が入らずに腕を掴む男ごとよろけた途端、首から上を失くした男の身体が文徳にのしかかってくる。小さな身体が大人の重みに耐えられるはずもなく共に地に倒れた彼の顔に、滑らかな切り口から吹き出した鮮血が雨のように降り注いた。

 身体中が自分以外の者の血に染まった文徳の上に乗っていた重みが、無造作に取り除かれる。


「おい、坊主。生きてるか?」


 返り血が点々と飛ぶあどけなさを残す顔が、血臭が濃く漂うこの場にはそぐわない朗らかな笑みを作る。


「大将の読み通りだったな。亀みたいな行軍を抜けてきて良かったよ」


 先ほどより大きくなった喧噪に、文徳はびくりと肩を揺らし少年は顔を上げた。


「先陣がやっとついたか。……ほら」


 差し出された手を取ろうとして、怖ず怖ずと伸ばした文徳の手が止まる。不審げに首を傾けた少年の顔が、炎に照らされ鬼神に見えた。


「……血」


 文徳の呟きに少年が己の手を眺める。年の割に節と剣胼胝けんだこが目立つ大きな手は、彼が倒した賊の血に染まっていた。


「ん? ああ、これか」


 自分の衣に擦りつけて乱雑に拭うと再び差し伸べてくる。なおも躊躇う文徳の手を、彼は無理矢理掴んだ。力任せに引き上げられてよろよろと立ち上がると、その手がわしゃわしゃと血と埃まみれの文徳の髪を掻き回す。


「ちっこいのによく頑張ったな。もう大丈夫だぞ。殿下がきっと守ってくださる」


 首を伸ばして火の勢いが落ち着き始めた村を見やった瞳の先を、文徳も同じように追いかけた。そこにみつけたのは炎とも血とも違う深紅の軍旗。夜の闇にも負けずにはためくそれに記された漆黒の文字は――『葆』。

 文徳は、この村の民の大半がそうであるように読み書きができない。辛うじて自分と家族の名を表す字を知っているだけだ。彼が産まれたとき、村長に両親が書いてもらった『命名書』は家と一緒に灰になってしまった。

 だからあの旗に書かれている文字をどう読むのか、どんな意味なのかはわからない。だけどその字をひと目見て感じたのは、敵ではないということと、とても大きな存在だということ。

 ふっと身体から力が抜けていく。くずおれる文徳の身体を少年が抱き留めた。

 もう文徳が守るべき家族はない。守ってくれる両親もいない。これからは自分の身ひとつで生きていかなければならないのだ。それは、まだ八つの文徳にとって容易なものではないだろう。

 だけど今は、今だけは。あの文字が表すに身を委ねてしまおう。

 腕の中で脱力した子どもに、少年が焦りの声をかける。しかしそれに応えることもできず、文徳は静かに瞼を下ろした。



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