青年の追憶《2》

 肌に触れる暖かな感触が心地好くて、文徳はたぐり寄せる。それに頭から潜って丸まると、すべてが夢の出来事のように思えてきた。


「おい、坊主。いいかげんに起きろ」


 だが自分に都合のいいその夢は、少年の手によってあっさりと剥ぎ取られてしまう。寒気と現実が、文徳に襲いかかる。ぶるりと震わせながら身体を起こすと、上から布が降ってきた。


「寒かったら、これでも羽織ってろ。飯、行くぞ」


 少年はまだ薄暗い早朝から、無駄に大きな声をかけてくる。与えられただぼだぼの上衣に袖を通してのっそりと彼の後に続き、文徳は天幕の外に出た。

 薄らと白み始めた空の下で、大勢の人間が立ち働いている。煮炊きをする者。馬の世話をしている者。見張りに立つ者は、背筋を伸ばして鋭い視線を西に向けていた。これだけの人数がいるというのに、立てられる音は最小限に留められている。無駄のない動きと仕事は、統率が行き届いているためだろう。

 温かい湯気と食欲をそそる匂いを漂わす大きな鍋の傍らにいる兵士に、少年が近寄っていく。


「おはよう。ふたり分もらえる?」


 どう見ても彼より年上の兵士は、少年を見留めると姿勢を正して挨拶をした。


りゅう剛燕ごうえん副隊長殿、おはようございます! ただいまご用意しますっ!!」


 手際よく椀に粥を掬って剛燕に手渡し、彼はその片方を文徳に渡す。文徳の手の中には、たっぷりとよそわれた熱々の粥入りの椀が収まった。

 それは、文徳たちがいつも口にしていた、粥とは名ばかりの、薄く白濁した湯の中に申し訳程度に麦や粟が浮いたものとはまったく異なっている。米がとろりとなるまで煮込まれ、鶏肉や内陸であるこの辺りでは貴重な貝柱などから出た出汁が、空っぽだった文徳の腹の虫を刺激した。

 誘われるままに、焼け残った丸太に腰掛け粥を啜る。喉から胃の腑に落ちる過程が感じられるほど、文徳の身体にまともな食べ物が入るのは久しぶりだ。がっついて火傷した舌をべろりと出して、外の冷気で冷やす。

 その様子を見た剛燕が大きな口を開けて笑っていたが、その頭を背後から遠慮会釈なく叩く者がいた。


「朝っぱらからうるさいわ。ここがどこで、どういう状況かを忘れてるわけではなかろうな?」


 文徳が思わず舌を引っ込めて見入ってしまった人物の高い声色と華奢な容姿こそ、この場に相応しくない。剛燕と同じくらいか少し上。多く見積もっても十代後半といった年頃の娘が、細腰に両手を当て彼を睥睨している。ツンと上向けた小さな顎のかんばせは、折れそうなほど細い首の上に乗っていた。

 格好こそは剛燕と同じように簡素なものだが、所作のひとつひとつが流れるようで気品がある。ひと目見ただけで相応の家の娘だと文徳にもわかった。


朱姫しゅき様。いきなり酷いですっ!」


 口の端に飯粒をつけて抗議する剛燕を無視して、朱姫と呼ばれた少女は文徳の目の前に屈み、吊り目がちの大きな瞳で真っ直ぐに見つめてくる。その迫力に圧された文徳が木の上で仰け反り、尻が落ちそうになった。


「危ないではないかっ!」


 傾いだ文徳の身体を咄嗟に支えた少女に怒鳴られ、ますます縮こまる。両手で抱えた椀の中身に目を落として彼女の視線から逃れた文徳の頬に、ふわりと温かく柔らかな手が添えられた。


「よく頑張ったな」


 コツンと白い額が、文徳の薄汚れているおでこに当てられる。


「頑張って生き残った。偉い、偉いぞ」


 そのまま小さな頭を引き寄せ、少女は胸に抱えた。胸の中といっても彼女は革製の胸当てをつけている。ひやりと固い感触が文徳の頬に当たるが、頭を撫で背中を擦る手は優しい。胸の奥底に凝っている、ひとり生き残ってしまったという文徳の罪悪感がゆるりと溶け出すと同時に、奥がツンと痛くなった鼻を啜った。


「あ、ずるい。オレも頑張りました!」


 割り込むように差し出した剛燕の頭を、平手で思いっ切り娘が叩く。


「副長の身で勝手に隊を抜け出したそなたを褒める口など、あいにくと持ち合わせてはおらぬわ。父上がお呼びだ。さっさと行って、たっぷりとお叱りを受けるがよい」

「朱将軍がっ!? 先にそれを仰ってくださいよ」


 剛燕はまだ熱い粥を胃に流しこむと、空いた椀を文徳に押しつけて走り去った。その背中を目で追いかければ、その先で文徳が一昨日の晩に見た軍旗がはためいている。旗に記されている文字がこの国を指す『葆』だということは、昨日の夕刻に目覚めた時、剛燕から教えてもらっていた。あの旗が掲げられている天幕の中には、皇太子苑輝えんきがいるとも聞いている。

 本隊の到着により一度は退けた敵が、いつまた襲ってくるかもわからない。生き残った村人たちは集められ、落ち着くまで東へ避難することになった。文徳もその中に加わる予定だ。


「そなた、頼れる親類などはおるのか? 行く当てはあるのか?」


 冷めてきた粥を啜っていた文徳の手が下がる。同時に俯いた頭がふるふると振られた。文徳の父も母もこの村の出身で祖父母はすでに亡い。叔父だか叔母だかがいるという話を聞いたような気がするが、彼らに会ったことはなくどこにいるのかも知らなかった。故に、当然頼れるわけがない。


「そうか……」


 娘はひとつため息を吐くとすっくと立ち上がり、焼け跡の片付けと進軍の準備で忙しなく動く兵たちの群の中に紛れていった。



 二日後。琥苑輝は、国境を越え西へと軍を進めることを決定する。それに伴い、民間人は東へと移動を始めることになった。

 皇太子の意向で一個小隊をつけられた集団のほとんどの者がめぼしい荷物も持たず、身ひとつでの出立となる。文徳もその隊列の端に加わった。

 親類縁者を頼れる者たちが、次々と列から抜けていく。だが、文徳はとぼとぼと石ころの目立つ街道を歩き続けた。

 道中で寄る村や町で、皇太子が発案したという里親制度により、親を亡くし寄る辺のない子どもたちが子を望む家庭に預けられていく。文徳も何組かの家族と引き合わされたが、覇気のない俯きがちな表情やひょろひょろしたか細い身体が災いするのか、話が上手く纏まらない。結局は最後の最後まで残ってしまい、ヘトヘトにくたびれた足は、宮処みやこの土を踏んでいた。


 文徳たちの村とは比べものにならないほど多くの人や物が、宮処には溢れかえっている。今年は不作だったはずの作物が山と積まれる前を、複雑な思いで通り過ぎた。


「ほう、この子どもですか」


 西からずっと同行していた官吏に連れられてやって来た先で会った商家の主人は、渡された書簡に目を通した後、文徳の頭のてっぺんからつま先まで何度も視線を往き来させる。

うーん、と腕を組んでしばらく考え込んでから、「いいでしょう」と肩から力を抜いた。


「朱家の皆様には、お世話になっていますしね。なにより、皇太子殿下のお達しとなれば、わたくし共には断れる道理がありません」


 最後のひとりを片づけた官吏は、あからさまにほっとして皇城へ帰って行く。その後ろ姿へ文徳は主人に倣い頭を下げた。


 文徳が引き取られたのは主に酒類を扱う店である。宮処でも指折りの大店らしく、小売り以外に多数の酒家や妓楼などとの取引も多い。時には皇宮から注文が入ることもあった。

 朱家からの口添えがあったからといって文徳が特別扱いされることはなかったが、飢えや寒さの心配がない生活が送れるだけで十分だ。文徳は次から次へと頼まれる仕事を黙々とこなしていた。

 最初のうちは、酒で満たされた重い瓶を落として割ってしまったり、使いに行った先から口頭で伝えられた注文を忘れ、また聞きに戻ったりするなど、数々の失敗を繰り返したものだ。それでも、厳しい叱責を受けたり食事を抜かれたりしているうちに、不慣れだった仕事にも新しい環境にも慣れてくる。そんな中でなによりも嬉しかったのは、文字を教えてもらえること。

 仕事のちょっとした空き時間や就寝前のひと時を使い、主人から命じられた世話好きな使用人仲間が、注文聞きの際に必要な文字を教えてくれる。後になって思えば、ずいぶんと偏った文字ばかりだったが、それでも地面に棒きれで練習するのが楽しくてしかたがない。時には、仕事どころか寝食をも忘れて、筆代わりの木切れが小さくすり減るまで文字を書き続け、皆をほとほと呆れさせていた。


 西での戦が嘘のように、文徳の宮処での暮らしは穏やかに流れていく。大人たちが口にする、物資の流通がどうのとか、物価の上昇がなどという小難しい話はわからない。自分の衣食住と文字を覚える余裕さえ守られているのなら、それだけで幸せだった。

 そんな彼だから、皇帝が急逝し望界帝と諡号を贈られ、琥苑輝が新帝として即位した後、速やかに戦が収束に向かっていると聞いても、なにひとつ変わらない毎日を送っていた。

 ところが主人の供で皇城を訪れていた夏のある日。彼のこれからを大きく変える出会いが訪れる。

 城内へは届け出のある者しか入城は許されていない。主と年配の使用人が中に入ってしまうと、文徳は空の荷車の番として城門の外で待たされることになった。

 夏の高い日が作る荷車の短い影に身を隠し、文徳は地面に座り込む。懐から一本の棒を取り出すと、乾いた砂を使って文字を書き始めた。

 まずは数字。商売にはなによりも必要な文字だ。続いて得意先の屋号は、扱う品や店主を思い出し、間違わないよう丁寧に。店で扱う各地から集められる酒の銘柄となると、少し厄介になる。まだ年若い文徳には、酒の味がわからないからだ。だが、客に問われれば説明が必要となる場合もあり得る。なので、香りとほんの少し指先につけて舐めてみた味の記憶を辿りながら綴る。

 それらを砂に書いては消し、消しては書きを繰り返していた。が、夢中になっていたはずの彼はふと手を止める。文徳は眩しさに目を細めつつ、主たちが入っていった門の扁額を見上げた。


 『西大門』


 そう木の板に記された字には、上から見下ろし侵入する者たちに目を光らせているような迫力があり圧倒される。同時に、遙か西方を見据え、皇城を――果ては葆国全土をも守っているような慈愛が伝わってくる墨文字。

 当時の文徳には看字や感字といった概念がなく、ただ表記に使うものとして読みと形を教えられただけだったが、それでもあそこに書かれた文字からは、普段目にするものとは違う“なにか”を感じ取っていた。

 無性にあれと同じものが書きたくなる。文徳は見様見真似で地面に写し取る。しかし、同じように書いたつもりでもまったく違うものになる文字に、次第に苛立ちが募る。何度やってみても、あそこの文字を再現することはできない。

 悔しさに震える文徳の手元が、不意に暗くなった。主が戻ってきたのかと顔を上げれば、見知らぬ顔が覗いている。 驚きでぽとりと落とした棒きれを、その人は拾ってシワだらけの手で渡してくれた。


「君はどこの子かな?」


 綿雲をつけたような髭がもごもごと動き、同様の白い眉に隠れた細い眼が柔らかい弧を描く。まるで昔話で聞いた仙人のようだと文徳は思った。


「あ、あの……」


 戸惑いを隠せずにいると、仙人はうんうんと頷き砂の地面を指した。


「そこに己の名を書いてみなされ」

「名前?」


 文徳はあの日、家や父、妹と共に灰と化してしまった命名書を思い出す。

 葆には、この世に生まれた子どもにつける名前の文字に思いを込め、それを書にして贈る風習がある。多くは両親のどちらかの手蹟によることが多いが、中には多額の謝礼を払い著名な書家に依頼する者もいた。読み書きのできない庶民は、身近にいる書の上手い人に頼んで書いてもらう。

 文徳は、自分が生まれた時、両親が村長に頼んで書いてもらったその字を、何度も紙を広げて眺めていた。瞼を閉じ自分を表す文字を思い浮かべる。両親がくれたものは、この名前以外、もう文徳には残っていなかった。

 大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出してから、眼を開ける。 持っていた棒を握り直すと、地面に己の名を大きく刻んだ。


『林文徳』


 ひと息に書き上げたのは、初めて書いた己の名。振り返ってみれば、今までの短い人生の中で、名前を書くような機会などなかった。それくらい文徳は文字と疎遠の生活を送っていたのだと気づき、現在の環境がどれほど恵まれているのかを思い知らされる。

 自然と笑みが零れていた。


「ほう」


 老人は白髭を扱きながら目を細めて、文徳の文字を食い入るように見つめてくる。


「筆を使ったことは? 誰に書を教えてもらっているのかね?」


 矢継早の質問に、文徳はどちらにも首を横に振って答える。紙がもったいないといわれて、まだ筆を執ったこともないし、『書』などという大層なものを習っているつもりもない。

 眉尻を下げ困り顔をする文徳を見て、老人はふむ、とまた考え込んでしまう。


「うちの使用人が、なにか失礼をいたしましたでしょうか」


 流れる沈黙に慌てて割って入ったのは、用事を終え帰ってきた文徳の主人たちだった。折りかけていた腰を元に戻し、老人の姿を確認した主の顔が驚きに変わる。あらためて貴人への礼をとった。


「これはこれは。しゅう楽文がくぶん様でいらっしゃいましたか。うちの者がご迷惑を……」

「いやいや。そうではないのですよ。ふむ、あなたのところの子でしたか」


 文徳の言い分も聞かずに謝罪しようとする主を、枯れ枝のような手を前に出して止めさせ、再び文徳に視線を戻す。


「林文徳、でしたね。君は字を書くのが好きですか?」


 すぐさまこくんと、今度は縦にひとつ首を振った。その返答に楽文は眉毛と眦を満足そうに下げ自分も頷いてから、門の方へと歩き始めてしまう。


「あっ! どうかお待ちを」


 なおも引き留めようとする主の声に、楽文はいったん振り返り軽い会釈で応えると、門の向こうへと消えて行ってしまった。

 いったいなにをやらかしたのかと問い詰められても、文徳には思い当たる節などない。自分は地面で文字の練習をしていただけなのである。拙い言葉で懸命にそう訴えても上手く伝えられず、主人たちは不審に首を捻るばかり。

 終いには口を噤んでしまった文徳から、とうとう彼らは詳しい事情を聞き出すことを諦めてしまった。

 そんな客商売にはあまり向いていない性分の文徳を、周楽文から養い子として引き取りたいとの申し出があったのは、その数日後のことだった。



 静かに茶を啜る養父の姿に、ここが政の中枢である皇城内だということを忘れそうになる。この穏やかな人物が、あの軍旗の文字を書いたのだと知った時は、あんぐりと開いた口をしばらく閉じることができなかった。

 楽文には、養子といっても家督を継いでもらいたいわけではないと初めに告げられた。ただ、文徳に書を教えたかったのだとも。だがそれは、文徳にとって、貴族の位などよりもずっと甘く魅惑的な誘いだった。

 一人暮らしである彼の身の回りの世話をする傍ら、書を基礎から教えてもらう。初めて筆先に墨を含ませ、真っ新まっさらな紙に漆黒の線を引いた日の感動を、文徳は十年以上経った今も忘れられない。

 周楽文の教えは書くことだけには留まらず。文字の成り立ちや持つ意味を説き、周の家に数多ある能筆で綴られた蔵書で見る目を養わせる。文徳は、それらを料紙が墨を吸うように吸収していった。


 そんな夢のような日々を与えてくれた義父の力になれたらと、文徳は同じ文官になることを選んだのだが、もしかしたら自分は道を間違えてしまったのかもしれない。最近はそう思い始めていたのも事実だ。

 文徳は荷の中にある渡された葆国民譚を取り出して、やや古ぼけた表紙に目を落とす。少なくとも、この本以上のものを仕上げなければ、師としての楽文の顔にも泥を塗ることになってしまう。

 辞めるのはいつでもできる。今は、任された仕事を精一杯するだけだ。

 それに、自分がこうして生きていられるのは、戦災孤児の受入態勢を整えてくれた苑輝のおかげでもある。この程度で命を助けてもらった恩が返せるとは思ってもいないが、今の文徳には筆をふるうぐらいのことしかできない。

 思いがけず与えられた恩返しの機会を無駄にするまいと考えることに、心に決めた。

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