皇后の憂慮《1》
陽差しがたっぷりと差し込む
「これくらいでいいのかしら?」
硯に漆黒の海ができあがり、皇后は墨を置く。その手に侍女が太筆を渡す。
ここまでの一連の動作を、彼女はいちいち
傍らに控える明麗の姿はもう官衣ではない。蝶の舞う淡い珊瑚色の上襦に菫色の裙。髪も美しく結い上げ、金の笄で飾られている。
本来ならば、主である皇后と同等に着飾るなど許されることではないのだが、とうの皇后がそれを許可しているのだ。むしろ、率先して彼女を飾り立てているといってもいい。
『わたくしにもし妹がいたら、好みの衣をいろいろと着せてみたいと思っていたの』
自分にはもう派手だからと、まだ新しい衣裳をいくつも下賜された。李の家から次々と送られてくるものもあり、一女官が持つ量はとうに超えている。
皇后の指南役となり新たにひとり部屋を与えられ、侍女もつけられることになった。しかし、その侍女に
以後、明麗の身支度は孫恵の手によって、非の打ち所なく整えられることとなる。
「今日はどんな字を書けばよいのかしら?」
まだ手本となる文字を示さない明麗に、皇后が訊ねた。明麗は明るい房内を見回し、生けられた花を見つけて頷く。
「花の名などはいかがでしょう。お好きな花はございますか?」
「ユリ。ユリが好きよ」
明麗の言葉を奪うように返された答えは、彼女自身の名でもあった。
皇后の故国の言葉は、葆国とは発音も表記もまったく異なる。もちろん名前もしかり。
ゆえに通常なら一族を表す姓が使用されるところを、彼女の場合は『西からきた后』という意味で『西皇后』と少々味気のない呼ばれ方をしていた。それがどうした経緯なのか、いつしか皇宮の奥で『百合后』という呼称が使われ始める。最近では、民の口にも上るほどまでにその呼び名は広まっていた。
たしかに雪のような肌の白さや楚々とした佇まいが、白百合に喩えられるのも無理はない。実際、明麗も皇后を一目見て得心がいったくらいだ。
『百合』ならばそれほど複雑な文字ではないので、まだ筆を持って数日の皇后にも書きやすいだろう。なにより、この文字を失念していたことが悔やまれる。
「そうですね。まず初めに、ご自身のお名前をお教えするべきでした。気が利かず、大変失礼をいたしました」
不手際を謝ると、皇后はゆるりと首を横に振った。髷にさした簪が涼やかな音を奏でる。
「両親がつけてくれたわたくしの名は、ここの人たちには発音し難いようなの。この国らしい名を賜りたいと陛下にお願い申し上げたら、つけてくださったのよ。
宝玉を拝受した少女のように微笑む。これほど仲むつまじい夫婦に子が授からないなど、天はなにを見ているのかと、明麗は密かに憤っていた。
「では、さっそく手本を……?」
にわかに
「申し上げます。陛下がお渡りになられるとの先触れが、つい先ほど参りましたようでございます」
「陛下が?」
まだ日も高いこんな時間に訪問があることは珍しい。触れを受け忙しなくなる房内に、明麗は辞去を願い出た。それを皇后が引き留める。
「孫恵。彼女の髪を直してあげてちょうだい。笄が右に傾いているわ。衣に墨など飛んでいないかも確かめて」
自分の身支度よりも明麗を気にかけ、あれこれと指示を飛ばす。
「百合后さま、やはりわたしは失礼いたします」
夫が妻の元を訪れるのだ。無粋な邪魔者にはなりたくない。しかも相手が皇帝陛下となれば、一介の女官がおいそれと拝謁してよい方ではないはずである。
「なにを言うの? ここにいなさい。まだあなたを陛下に紹介していないわ」
「ですが……」
押し問答を続けていると、侍女が緊張した面持ちで皇帝の訪いを告げた。
「なにやら楽しそうで結構なことだ」
手ずから扉を開いて入ってきた
「近頃はずいぶんと顔色がいいようだ」
「はい。明麗が側に来てくれてから、日々がよりいっそう楽しくなりました。笑いが健やかな心身を作るというのは、本当でしたのね」
「明麗? 例の
百合后が綻ぶようなような笑顔を見せ口にした明麗の名に、苑輝の声色が僅かに堅くなったように感じられた。
自分はなにか皇帝の機嫌を損ねるような不始末をしてしまったのだろうか。そういえば先日、皇后の髷から落ちた髪飾りを踏んづけて壊してしまったことがある。いや、引き戸だと気づかず、必死に押して壊れた格子戸の件か。次から次へと思い当たり、明麗は一度上げかけた視線を再び下げてしまった。
房の片隅で顔を伏せ身を潜めていた明麗の手を、ひんやりとした白い手が取る。
「陛下。彼女がわたくしの
苑輝の前に引っ張り出されてしまっては、挨拶をしないわけにはいかない。拝跪しようと膝を折りかけた明麗は、大きな手で制された。
「明麗と申します」
これが皇帝に初めての目通りとなるが、仕方がなく立位のままで挨拶をする。父や兄に知られたら半刻は小言を食らいそうだ。先ほどの苑輝の反応も含めて、頭を垂れながら明麗は密かに鼓動を速めていた。
皇帝の視線が動き、明麗の顔で留まる。
「そなたが来たことで、この奥も賑やかになったと聞く。それにしても、父兄に負けず劣らずの勇ましい手蹟の主が、このように嫋やかな娘だったとは驚きだ」
「……恐れ入ります」
頭上に落とされた声にはもう険は残されておらず、あれは思い違いだったのかもしれないと明麗は安堵する。
苑輝はすぐに彼女から視線を外して、卓上の書道具を見つけた。
「書の練習をしていたのか。邪魔をしてしまったようだな」
「そのようなことはございません」
侍女たちが卓の上を片付けようとするが、明麗はあることを思いついてそれを止める。
「恐れながら、陛下。もしよろしければ、手本をお書きいただけませんでしょうか」
「それは素敵。ぜひ、お願いします」
明麗のいきなりの提案に百合后も乗っかり、苑輝を自分が座っていた椅子まで誘う。長身の彼が腰掛けると、黒檀の椅子も小さく見えた。
「なにを書けばよい?」
「皇后陛下のお名前を」
明麗が出したお題は皇帝を少々悩ませたらしく、しばらく目の前の紙と対峙していた。
「后の名か」
呟きを零し、傍らに立ち期待のこもる眼差しを向ける妻を仰ぎ見た苑輝の目元が、ふっと和らぐ。彼は姿勢を正し、無造作に筆を持ち上げた。急に房内の空気が変わったような気がして、明麗は息を詰める。
房中に張り詰めていたものが、苑輝が筆先を紙に下ろした瞬間にふわりと緩んだ。滑らかな漆黒の線が白い紙の上に現れる。大きく力強い手から生み出されたとは思えないほど繊細な文字。それはまさしく『百合』だった。
優雅に咲かせた大輪の花を風に揺らしながらも、地にしっかりと根を張ろうとしている白百合の姿は、そっくりそのまま皇后と重なる。そしてそれを陽の光のように大きく包んで慈しむ苑輝の想いまで伝わってくる
筆が筆置きに戻される小さな音で、突如紙の上に出現した『百合の花』にすっかり心を奪われていた明麗は我に返った。
「どうだ。手本にはなりそうか?」
「お手本どころか、このまま表装して命名書としていただきたいくらい素晴らしい
字です」
書には大して明るくない明麗にもわかるほどだ。その道の大家に見せれば、皇帝が書いたということを差し引いても絶賛されるに違いない。
「これが、陛下が書かれたわたくしの名前なのですか? なんだか少し、恥ずかしい気がします」
うっとりと己の名を見つめる皇后の白い頬が、ほんのりと上気する。感字に込められた想いは国を越えて伝わるらしい。苑輝は自分の書いた紙を脇によけ、新しい紙を用意させた。
「さあ、試しに書いてみるがよい。余も見ていよう」
苑輝が移動した席を譲られ再び腰を下ろした皇后は、筆を執るのを躊躇う。拙い手習いを夫に見られることを恥ずかしく思っているのだろう。いっこうに手を伸ばそうとしない。それもそのはず。あのような手技をみせられた後では、明麗とて同じ気持ちになりそうだ。
「そうですわ! 陛下はなにかご用があられたのではございません? 表でのお仕事中、こちらにいらっしゃることなど滅多にございませんのに」
あからさまな話の逸らし方に、苑輝は苦笑で応えて侍従を呼び寄せた。差し出した手に一冊の本が恭しく載せられ、それはそのまま皇后の手に渡る。
「ほう、こく……みん……?」
表紙に記された題の最後のひと文字に首を傾げ、百合后は明麗に助けを求めた。彼女の手元を覗き込んだ明麗が、息を呑んで目を瞠る。その文字に、瞬きも、呼吸することさえも忘れて釘付けになった。
「明麗、どうかしましたか? まさかあなたまで読めないなんて言わないでしょうね」
いつまでも黙りこくる明麗に、皇后はころころと鈴を転がすような笑いを含ませながら答えを催促する。ひとつ深呼吸をして気を落ち着かせた明麗は、ようやく返答した。
「そちらの文字は『たん』と読みます。物語、という意味で、『葆国民譚』は葆の古い民話や神話を集めたものです」
「昔話の本なのね」
細い指がぱらぱらと冊子を捲る度に飛び込んでくる文字たちに目眩がしそうで、明麗はついに目を逸らしてしまう。外した視線の先に皇帝をみつけ、不敬も忘れ思わず問い質してしまった。
「陛下、これはいったいなんなのでしょう?」
「なにとは、なんだ。そなたが欲しいと願い出たもののはずだが」
苑輝は数日前に明麗が兄へ宛てた書簡のことを指しているのだろう。たしかに彼女は、『皇后の読み書きの教本となるような書物』を所望した。まずは幼子でも読めるような簡単なものが適するだろう、とも書き添えたのを覚えている。皇宮の書庫にあるものでは、一から文字を学ぼうとする際には難しすぎるとの判断からだった。
用意された葆国民譚は、その意味では最適な教材である。が、そこに書かれた文字は想定外のものだ。
一言で言ってしまえば、『見事すぎる』に尽きる。
「こちらはいったい、どなたの
使われている料紙の新しさからして、この本は最近作られたものだ。しかし明麗の記憶の中にある書家で、同じ手蹟を持つ者はいないと思う。さっそく拾い読みを始めた百合后を置き去りにしてまでも、気になって仕方がない。
明麗の不作法な振る舞いに控えている颯璉の眉間のしわが深まるが、苑輝は気にした風もみせずににやりと笑みを深めた。
「ただの官人だ。
「文官が!? わたしはさぞ高名な書家が書かれたのだとばかり……」
予想外の答えに明麗は驚愕を隠せない。それが苑輝の興を呼んだのか、徐々に口が滑らかになっていく。
「興味深い手蹟の持ち主ゆえ試しにやらせてみたのだが、思った以上の出来映えとなったな」
「はい。四書聖の作だと言われたとしても、疑わなかったかもしれません」
「四書聖か。いくらなんでも、それは誇張のしすぎであろう」
はははと愉快げに笑い声を上げる。その闊達さに明麗は好感を抱き、ずっと入ったままでいた肩の力が抜けていくのを感じた。
いつの間にか冊子から上げられていた皇后の顔が、ふたりに向けられている。口元は穏やかに弧を描いているのだが、新緑色の瞳が露に濡れ揺れているように見え、明麗は己の思慮が欠けていたことに気づいた。自分に仕える者が夫と親しげに言葉を交わすなど、いい気持ちがするはずがない。出過ぎた行いを即座に後悔し、後ろに下がる。
それがきっかけになったのか、彼も后の意味ありげな視線に気づいたのかはわからないが、苑輝は椅子からおもむろに立ち上がった。
「さて、用も済んだことだ。執務に戻るとしよう」
「あら、もうお帰りになってしまわれるのですか?」
大きく開いた眼に明るい光を取り戻した皇后の柔らかな声色には、妬心による怒りも憂いも含まれない。ただただ、多忙な夫との短い逢瀬を惜しんでいるように感じられた。
「余がいると練習にならないようでは困る」
「……もう少し上達しましたら、陛下にもお見せいたします」
「楽しみにしていよう。その時は、ぜひ余の名を書いて欲しいものだ」
恥ずかしそうに染めていた頬を少し強ばらせた皇后に見送られ、皇帝は己の執務に戻っていった。
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