書家の矜持《2》

 明麗が皇帝から玉佩を賜った際その場にいた李博全は、妹が皇宮を出入ではいりすることに難色を示した。後宮の中だけでさえ行く先々で騒動を起こしていた彼女が、方颯璉や孫恵の目の届かない場所でなにをしでかすかと思うと、おちおち己の仕事をしてもいられない。

 せめて外に出るときは孫恵を伴うことを許してはもらえないか、宮中の警護を預かる禁軍の将に、無理を承知で願い出た。しかし明麗ひとりでも異例中の異例なのである。博全の過保護を鼻先で笑われ、これ以上の特例を出すわけにはいかないと、すげなく却下されてしまう。

 観念した博全は、兄の苦悩をよそに手の平に乗せた翡翠の重みをうっとりと感じ入る明麗に、せめてもの思いで訓戒を垂れた。


「皇宮の、皇后陛下の女官として、恥ずかしくない身なりと行いを心掛けよ」

「もちろんです。この四字を胸に刻み、謹んで努めます」



 そう、翠緑の玉に誓った舌の根もまだ乾いていない明麗は、宮女が身につける揃いの官衣の袖をたくし上げていた。


「どれから片づければいいのかしら?」


 いまにも雪崩を起こしそうな竹簡の山に手を伸ばす。


「毎日こちらへやってきますけど、女官の仕事はしなくていいんですか?」


 古ぼけた竹片に書かれている、かろうじて読み取れる文字を料紙に書き写していた手を止め、文徳は首をひねる。書の指導は仕事の空き時間を利用して行うと取り決めたはずだが、あれから明麗は記録係に日参しているのだ。文徳が疑問に思うのも仕方がない。


「皇后さまに、書を含めた葆のことをお教えするのがわたしの仕事。だから、わたしがあなたに書を習うのも重要な勤めなのよ」


 さも当然とばかりに胸を張るが、その内心はあまり穏やかなものではなかった。

 皇后のごく傍に仕える一番若い侍女を捕まえて聞いた話では、少しずつ形のある食事を摂れるようになってきたものの、体調はまだ万全とはほど遠いそうだ。一日のほとんどを寝台の上で過ごす日が続いているという。当然、明麗との授業どころではない。

 面会の許可も依然として下りないままである。そのもどかしさを紛らわすかのように、明麗は文徳のもとを訪れているのだが、閑職と囁かれる記録係にもそれなりに仕事があるのだ。


「すみません。この一編を写し終わるまで待っていてもらえますか」

「だから、わたしも手伝うって言っているのよ」


 一旦は引いた手を再び竹簡に伸ばす。そっと頂上に載る巻を持ち上げようとした。


「あっ!? それはちょっと待って……」


 文徳の制止の声は、竹片がたてた騒々しい音にかき消されてしまう。それが収まると、彼の周囲の僅かに見えていた床までもが、崩れた竹簡で覆われていた。


「うそ、どうして?」


 慎重に慎重を重ねて取り上げたつもりだった。先日のように、広い袖が引っかかったなどというごまかしは通用しない。

 せっかく、頑なに博全の言い付けを守ろうとする孫恵を説き伏せ、袖口も狭く動きやすい衣を着てきたというのに。

 意気消沈のまま山を元に戻そうと、ひと巻きの竹簡を拾い上げたとたん、今度は朽ちかけていた綴り紐が切れ、ばらばらになった竹の札が床に散らばる。立て続けに房内に響いた賑やかすぎる音に、さすがの周楽文も、「おやおや」とひょこり首を覗かせた。


「……申し訳ありません。すぐに直します」


 明麗は簡をかき集め、順番に並べようと試みる。だが長い年月を経た文字は、かすれている上にいにしえの書体で記されているため、一見では判断が困難だ。床に座り込んで途方に暮れる明麗の手から、簡の束が引き抜かれた。


「建国以前の古いものですからね。ついでに紐も新しいものに換えてしまいましょう」

「ごめんなさい。揃えてくれたらわたしが綴ります」


 書道具の傍らに用意されていた箱の中から取り出した綴り紐を握りしめる明麗の横で、文徳はあっという間に簡を並び替えてしまう。


「すごいわ! まるで番号がふってあったみたい」

「確認のため、一度目を通してありますから。こういった文書からは、古い文字がどのように変化し現在の形になったかが判っておもしろいですよ。――では、お願いします」


 竹簡を渡した文徳は、自分の仕事を再開する。明麗はその横で息を止めながら崩れた山を直して床を空けると、竹簡をまとめ始めた。


 墨と紙の匂いが濃い房内に、竹同士がぶつかる乾いた音がときおり響く。明麗は竹の札と紐に苦戦しながらも、どうにか竹片を書籍の形に整え終えた。

 首を横に動かせば、文徳はまだ、いつもは猫のように丸められている背中を、すっと伸ばして筆を動かし続けている。その後ろ姿から発せられる気配は、声をかけるのが躊躇われるほど静謐だ。

 待つことを決め、明麗は膝に乗せた竹簡に目を落とし、そこに書かれている市中で起きた窃盗事件の顛末の記録を読み解き始めた。


「文字は、何百年も昔の人々の生活を、現代いまに伝えてくれるんです」


 いつの間にか筆を置いていた文徳が、進捗状況を確認すべく明麗の手元を覗き込む。突然降りた声と影に、明麗は細い肩を跳ねかせてから顔を上げると、彼の言葉に呼応するように微笑んだ。


「つい夢中で読んでしまって。でも、ちゃんと仕上がっているわよ」


 明麗が膝の上の竹簡を得意げに持ち上げる。するとすべての竹の札は、紐で作られた輪をするすると抜け、また明麗の膝に落ちていった。


「あ、あら?」


 手に残った綴り紐を目の前でゆらゆらと揺らす。押し殺した笑い声が二方向から聞こえて、明麗の顔はみるみるうちに紅潮していく。孫恵の特訓を受けて、紐くらい結えるようになったと思っていた明麗だが、衣のものとは勝手が違っていたようだ。


「今度はしっかり……」


 気を取り直し、竹簡を集める。解読したところまでは、自分でも難なく並べられるはずだ。しかし焦れば焦るほど、明麗の手から竹の札が零れ落ちていく。


「慌てないで。期限を決められているものではありませんから」

「さてさて。これは古字を手本に練習する、ちょうどよい機会ではないですか?」


 楽文の計らいに、文徳も手を打った。


「そうですね。いっしょに簡の編み方も勉強しましょう」


 いそいそと道具をまとめて立ち上がった文徳に後れぬよう、明麗は拾い集めた竹簡を抱える。奥の楽文に一礼してから書庫へと向かった。


「あ、戸はそのままにしておいてください。中に風を通しましょう」


 両手が塞がった状態で扉をどうにかして閉めようとしていた明麗を、文徳が止める。助かったとばかりに入庫すると、卓子の上に竹簡をカラカラと広げ、さっそく順序を確認しながら並べていく。しかし未読のところに辿り着き、順調に動いていた手が止まってしまった。

 残った竹簡の中から続くものを探す明麗の眼前で、文徳の人差し指が一片の簡を示す。


「次はこれ。頭の文字がかなり薄くなってしまっているから、わかりにくかったですよね」


 取り上げた簡の文字は、たしかにほかの文字と比べてもいっそう薄く、ほとんど消えかけていた。


「この文字はなに?」

「“夏”。仮面をかぶった人が踊っている様子を表しています」


 文徳が筆を走らせると、葆で日常的に使われているものとは筆法も異なる複雑な文字が、鮮やかに紙の上に現れる。字というより画に近いそれを、明麗は眉間にシワを寄せながら凝視した。


「昔の人は、どうしてこんな書きにくい字を考えたのかしら。面倒だったでしょうに」

「だから、こうして変わっていったんじゃありませんか」


 小さく吹き出した文徳は、横に“夏”を書き入れる。こうして並べられると、ふたつが同じものを示す文字に見えなくもない。昔の人々も同じように考えた末、現在の形になったと思えば、不思議と、いまにも紙面から飛び出て、祖霊に捧げる舞いを踊り出しそうな古字への愛着もわいてくる。

 書と並んで葆が世に誇る製紙技術の発達もまた、文字の変化に多大な影響を与えたという。文献に遺される数々の書体は、人々の暮らしの変遷とともに文字も変わっていった証拠なのだ。


「ただ、今でも難解な書体という特長を活かして、印や符などには広く使われていますけど」


 おおかたの葆人にとって書くのも読むのも難しくなった古書体は、現行の文字に比べ複製がより困難となるからなのだろう。それをいとも簡単に読み解き再現してしまう文徳の技量には、ただただ感服するばかりだ。


 文字の簡略化と偽造防止の話の流れで、ふと明麗は思い出した。


「この前、ここで話してもらった数字の改ざんの件。詳しくは教えてもらえなかったけれど、不正の証拠を掴む有力な情報になったそうじゃない。兄も感心していたわ」

「ええ、あれから呼び出されました。すべての箇所を教えて欲しいと言われて」


 残りの竹簡を並べながら事も無げに言うのが、明麗には信じ難い。


「お手柄だったのよ。上への異動も打診されたと聞いたわ。なのに、なんで断ったりしたの!?」

「いまの仕事に満足していますし。僕にはって向いていないと思うんですよね」

「採試に合格したからには、より高みを目指すものでしょう!?」


 明麗は身を乗り出して息巻くが、当の文徳は首筋をかいて眉尻を下げる。


養父ちちとふたりきりなので、いただいている俸給でもなんとか生活は成り立ってますし。忙しくなって、書にかけられる時間が減ってしまうのはちょっと……」


 使い古された卓子が小刻みに揺れる。天板についた明麗の手の平から震えが伝わったせいだ。


「だったら、なんのために受験してまで官吏になったの?」


 眉をつり上げて詰め寄られ気まずくなったのか、顔を逸らした文徳は紙の上に筆先を置き、そこを中心に螺旋を書き始めた。途切らせることなく極細の線で渦巻きを綴りながら、ぼそぼそと話す。


「僕ができるのは文字を書いて覚えることくらいなので、文官なら務まると思ったんです。同じ職に就けば、養父も喜ぶだろうとも考えました」


 筆が紙の縁まで辿り着いてしまうと、一旦あげて墨を含ませ、今度は線と線の間を中心に向かって引き返していく。指一本分もない隙間を等間隔で二分しながら、筆先は滑るように進む。一筋の迷いもない動きに見とれそうなり、明麗は美しい曲線を生み出す手元から必死で意識を剥がした。


「だけど文官の仕事って、想像していたものとはちょっと違っていて。役人ってなんだか……いろいろと難しいんですね」


 文徳が嘆息と肩を落としたときには、四重の渦巻きができあがっていた。

 明麗が卓上の両手で拳を作る。彼が官吏になるためにどのくらいの努力を重ねたのかは知らない。だが、採試が生半可な勉強で受かるものではないことはわかる。

 それでも文徳の覇気を感じられない呑気な顔を見ていると、日頃から心の奥にわだかまる感情を、ぶつけられずにはいられなくなった。


「……ずるいわ。男の人っていうだけで採試を受けられただけじゃなく、国のために働く機会を与えられたのに、そんな気のない人が官吏だなんて」


 腰にある翡翠の玉を乗せた手の平を、同じものを持つ彼に突きつける。


「これを賜ったのだって、あなたが報奨を受け取らなかったからなのよ。女のわたしにはできないことでも、あなたなら可能なのに」


 博全から報告を受けた皇帝は、文徳に勲功を与える代わりとして、情報をもたらした明麗に皇宮の外へ出る許可を出すこととしたのだ。そうでなければ、あの夜に奏上した彼女の願いが、このような形で叶うなどありえない。公明正大を掲げる皇帝の下した、一介の女官に与えうるぎりぎりの譲歩なのだろう。

 本来なら感謝すべきなのだろうが、己の手に入らないものを容易く放棄した文徳に、素直にはなれない。手柄を譲られたようで釈然としない想いを抱え、恨みがましげな眼差しを向けると、怪訝な面持ちで首を傾げられた。

 

「仕事なら、明麗だってしているじゃないですか。こうして文字について学ぶこと、それを皇后さまにお教えすることが仕事だと、自分でも言っていました」

「それは……。でも! 国や民のために働いているわけではないわ」


 父や兄のように政に参画して、世のために働きたいのだ。そう訴えれば、文徳はますます不思議な顔をして首をひねる。


「皇帝の妻である皇后は、いわば葆の民の母でもあります。その皇后陛下のもとで働くことは、国のために働くことにはなりませんか。それに、官吏だけが国を動かしているわけではないでしょう? 田畑を耕す人、商いをする人、男も女も関係なく様々な仕事をして税を納めている。その税でこの国は回っています。世の中にどうでもいい仕事をしている人なんていませんよ? 皆、誰かのなにかに役立つ必要なものです」


 自分の言葉に肯きながら、なおもどこか腑に落ちない表情をする明麗に、真新しい綴り紐を渡す。


「さて、始めましょうか。古から伝わる書をひもといて保存し、後の世に伝えることも、大切な仕事のひとつです」


 古代の人々の営みが記されているこの竹簡は、『書』としてだけでなく、貴重な資料としても遺していかなければならない。


 まずは与えられた目の前の仕事を成し遂げよう。それさえできないようでは、自分がなにを言おうが説得力を持たない。

 明麗は両端を持った紐を、気持ちとともにピンと張った。


「簡の編み方を知らないわけじゃないの。コツさえ教えてもらえれば、うまくできるはずよ」


 そう宣言して開始された編集は、その日費やせる時間すべてを使っても終わらず、結局は文徳の手によってまとめられることとなる。


 頭の中で完璧に組み立てられている手順と、その通りには動いてくれない指先との間に生じる隔たりに苛立ちを覚えた明麗は、文字と意味とが結びついていないという百合の気持ちを、なんとなく理解できたような気がしたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る