書家の矜持《1》

 明麗は起き上がり伸びをした寝台の様子が、いつもと違うことに気がつく。

 この数ヶ月ですっかり慣れた質素なものではない。李家の私室で使用していたように華やかな、吉祥模様の刺繍まである絹の夜具の上にいた。同じく絢爛な衣装を着たまま、酒と薬のせいで寝入ってしまった明麗を、ここまで運んだのはおそらく皇帝だろう。

 焦った明麗が両手で自身のあちらこちらを確認してみても、先端の鋭い釵が解れた髷から抜かれているほかに、特別乱れたところはない。胸元に巻かれた帯の紐も固く結ばれたままだった。

 安堵すると同時に、昨夜は動転して奥底に沈んでいた怒りがふつふつと湧いてくる。勢い勇んで寝台を覆う紗の幕をめくった。


「ようやく目が覚めましたか」


 昨日はあれほど探し求めていたはずの声が、冷たく耳に刺さる。


「……颯璉そうれんさま」

「いつまで寝ているつもりですか。陽はとうに高く昇っています」


 燭の灯りが揺れていたはずの堂の中は、外から入る陽射しだけで十分に明るい。完全に寝坊確定の時刻だった。


「皇后陛下のおへやへ伺わなくては」


 出口に向かって駆け出そうとした明麗を、方颯璉が止めた。


「お待ちなさい。そのなりで外に出るなど正気の沙汰ではありません」


 指摘を受け己を見下ろす。なるほどと、寝皺の寄った襦裙を摘まんで引き延ばした。次いで髪を手櫛で数回梳く。最後にその手でぱんぱんと膝を払って、颯璉の脇を抜けようとした。


「皇后さまは体調を崩され、お休みになっています」


 明麗の二の腕を掴む手の力が強められ、小宴のあとがすっかり片付けられた円卓へと導かれる。問答無用で椅子に座らされ、ほわりと湯気の立つ椀を出された。


「お飲みなさい。心配などしなくても、ただの白湯です」


 びくりと警戒したのが伝わってしまったらしい。ということは、昨晩の一件を颯璉も承知しているということだ。思いのほか渇いていた喉を、白湯で湿らせ弁解を試みる。


「あの、わたし。昨夜はなにも……」

「わかっています。陛下はことをなさるお方ではありません」


 皇帝のお手つきになったのではなどと、あらぬ疑いをかけられずにほっとする明麗の前に、今度は茶杯が置かれた。その水色すいしょくが苦い記憶を蘇らせる。


「いくらお世継ぎが必要とはいえ、皇后陛下は、なぜあのようなことをなさったのでしょう」


 陽の昇りきった表では、すでに蝉がうるさいくらいに鳴いている。今日も一日暑くなりそうだというのに、明麗の胸には冷たいものが溶けずに残っていた。


「この葆へいらしたばかりの百合后さまは、いまのように病がちな方ではあられませんでした。輝かんばかりに溌剌とされ、そのお転婆ぶりにはこちらが手を焼くほどで。……まあ、あなたほどではありませんが」


 懐かしむように目を細めごく僅かに口元を綻ばせた颯璉に、明麗は目を丸くする。だがそれも一瞬で、すぐに引き締められた表情は一段と厳しさを増す。


「無事ご婚礼が済み正式に皇后となられ、ご夫婦仲にも不安などなく。皆が御子の誕生を心待ちにしていたのです。それが――」


 颯璉は、皇后が流産を繰り返していること、そのたびに心身を弱らせていっていることを言葉少なに語った。

 国にとって、後継問題がどれほどの重要事項であるか、それは明麗にもよくわかる。わかっているつもりでいた。だが、当事者である皇后にかかる負担は、予想を遥かに超えていたのだ。

 自分の意思を無視され、皇后自らの手によって皇帝に差し出されたことへの憤りは、深い同情に変わる。両手で包んだ茶杯の水面が細波さざなみを立てていた。


「今朝のご容態では、当分の間は床を上げられますまい。しばらく、あなたは顔を出さないほうがいいでしょう」


 皇后の心情を慮ってのことだろうが、書の練習どころか、見舞えさえも止められてしまう。知らず唇を噛みしめていた明麗を残し、颯璉は堂から出て行った。


 ◇


 特に謹慎を言い渡されているわけではないが外に出る気がおきない。なにか手伝おうとすれば「仕事を増やすな」と孫恵そんけいに叱られる。無為にへやに籠もって三日目の朝。明麗は着替えもせずにだらりと長椅子にもたれ、いくら考えても答えの出せない問題と向き合い続けていた。


 子を成すすべは、入宮前に義姉から教えられている。

 明麗が知りたかったのは皇太子となる男子を授かる方法だったのだが、鼻息を荒くした陽媛ようえんはその前段から懇切丁寧に説いて聞かせてくれた。義妹が皇太子となる御子を産めば、その兄である夫の地位も盤石だと考えたのだろう。

 至極真面目な顔で説明されたが、しょせんは口頭でのこと。世俗との接触に乏しかった明麗の想像力では、どうにも要領を得ない。

 だがいくら好奇心の塊とはいえ、まさか兄夫妻に目の前で実演して見せてくれと頼むわけにもいかず、まして嫁入り前である己の身体で実践を試みようとするほど浅慮ではなかった。

 その上、陽媛に教わったのは懐妊するまで。その後どのように子がはらの中で育ち、産まれてくるかまでは聞かされていなかった。


 授かった子が無事出産にまで至らない可能性として明麗が真っ先に疑ったのは、幾重の目をかいくぐり、皇后に毒を盛った者がいるのではないかということだ。だが現在の後宮には、百合以外に皇帝の寵を競うような妃嬪はいない。つまりは生まれてもいない御子が、後継を巡る争いの元になりようがないのである。


 となると、やはり皇后の身体が子を宿し育てるに不適と考えるのが妥当なのだろうか。

 辿り着いてしまった絶望的な思考に、皇后の夏でも冷たい白い手で首筋を撫でられたような気がして、明麗は粟立った身体を自身の腕で抱えた。


 難題につまづき悶々と過ごす明麗のもとに、皇帝のお召しがかかったのは、その日の昼を過ぎたころだった。


 ◇


 皇宮と皇城を繋ぐ門の前まできた明麗は、帯に紐を挟んで提げた玉璧に手を添える。ひやりと硬い感触が伝わり、思わず息が詰まった。先日下賜されたものだ。

 明麗を外朝の殿舎に呼びつけた皇帝は、若草色をしたこの玉を明麗に授けた。そこに浮き彫りにされた『鞠躬尽瘁きっきゅうじんすい』の文字は、採試の合格者に贈られるものと同じである。つまりは、これさえあれば、目の前に立ち塞がる門の通行が可能になるということだった。

 大きく息を吐き出し肩の力を抜くと、腰元で揺れる玉璧を見せつけるようにして門に近づく。門衛たちは堂々とした足取りでやって来る女官へ一瞬不審げな眼差しを向けたが、陽光を受け柔らかな輝きを帯びる璧と、その上に乗る可憐なかんばせに気づいて道を空けた。

 すれ違い様に「ご苦労さまです」と笑みを添えれば、 武骨な顔を緩ませた門番から「お気を付けて」と返ってくる。

 悠然とくぐり抜け、官庁街を臨む大路から外れて曲がった小道で立ち止まった。振り返っても、彼女を追いかけてくるような者はいない。行き先へ向き直した明麗はほくそ笑む。駆け出しそうになる足を必死でなだめ、書記部記録係の入る棟を目指した。


「こんにちは!」


 返事を待つのももどかしく戸を開ける。あいかわらずうずたかく積まれている書物の山の陰から、ほぼ同時にふたつの頭が戸口を覗く。 血縁はないという父子だが、満面の笑顔で立つ明麗を茫然と眺める様はよく似ていた。


「これはこれは……。こんにちは、またなにかお捜し物ですかな」


 奥に座るしゅう楽文がくぶんが飄々とした口調で尋ねる。それに礼と深めた笑みを返し、明麗は左右の山に気をつけつつ林文徳りんぶんとくのもとに辿り着くと、筆を持ったまま見上げる顔に手を重ねて拝礼した。


「林文徳どのにお願い申し上げます。どうかわたしの書のせんせいになってください」

「……へっ!? 僕がですか?」

 いやいや、と筆を持つ手を振るものだから、穂先から墨の滴が跳んで明麗の白い額の中心に小さな点を作る。文徳が「あっ!」と思う間もなくそれを手の甲で無造作に拭うと、再び明麗は頭を下げた。


「本当は直接皇后陛下のご指南をお願いしたいのだけれど、さすがにそれはできないと言われてしまって。そのかわり、わたしが習ったことをお教えすればよいだろうと、陛下からこれをお預かりしたの」


 賜ったずしりと重い玉佩を掌に乗せて見せた。

 本来なら血の滲むような努力をして採試に臨み、狭き門を通過した者だけが得られるものだ。それを、限られた期間だけとはいえ一女官にすぎない明麗に、皇帝は特別に預けたのである。そこにこめられた意味とともに、硬い玉を握りしめた。


「……わたしだけじゃ、ダメなの」


 きつく眉根を寄せ唇を引き結ぶ。ひたすらに注がれる切羽詰まった眼差しから逃れるように、文徳は上司であり養父でもある周楽文に助けを求めた。


「僕なんかより、そういうのは師父のほうが……」

「いいのではないですか?」

「えっ?」


 歓喜と驚きの二色をした別々の声と二組の視線を向けられ、楽文は綿雲に似た口髭を揺らす。


「人に教えることは、あらためて自身の書を省みる良い機会にもなるでしょう」

「ですが、僕からこの方にお教えできるようなことはなにもありません。もう十分に見事な手蹟をされているのです」

「書法だけが書道ではない、君にもそう教えたはずですよ」


 師匠に諭され思い当たる節があるのか、文徳は筆を置いて明麗に向き直った。一旦俯いて目を瞑り大きく息を吐き出すとゆっくり顔を上げ、期待で輝かせている明麗の瞳を見据える。


「僕はあなたの手蹟が好きです。それを変えるようなことはしたくありません。なので、教えられるのは書の基本と心構えだけですが、それでもよければ」


 明麗は自分の筆跡を嘆かれたことはあるが、好ましいと言われたことはあまりない。先日も皇帝から「勇ましい」との言を賜ったが、年若い娘に対しての褒め言葉にはならないだろう。正直、義姉のようなもっと嫋やかで女らしい字を書けたほうがよいのでは、と思ったこともあった。その手蹟を、彼はそのままが好いと言ってくれたのだ。


「……え、ええ。それでも構わないわ」


 半ば茫然と承諾する。


「それでは、お互いの仕事の手が空いたときに。場所は……」


 彼が明麗を訪ねて後宮に立ち入るわけにはいかない。そのためにも皇帝は、通行証代わりの玉佩を明麗に渡したのだ。しかし文徳は雑然とした室内を見渡し、困り顔をしたこめかみを掻く。ここでは少々無理がある。 


「奥の書庫を使うといいでしょう。あそこなら、参考になるものもたくさんありますからね」


 書の山の奥から出された助け船に、ふたりは顔を見合わせ、ほっと頬を緩めた。

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