夫婦の確執《3》

 ◇ ◇ ◇


 明麗から問われたように、いっそ葆を、苑輝を恨むことができたのならば、これほどまでの苦しい想いをせずにすんだのだろうか。否。それはそれでまた、異なる痛みに囚われ心を蝕まれるのだと、戦を経験したこの身が知っている。

 湿り気の多い生暖かい風が、自虐的な笑みを浮かべた皇后の青白い頬を撫で、麦穂色の髪を揺らす。見上げた空に月はなく、無数の星々に埋め尽くされていた。

 背後でかさりと夏草を踏む音がして、胸がひとつ大きく鳴る。


「えん、……颯璉だったの」


 振り返った緑の瞳が映したのは、闇の中から浮かび上がってきたような奥女官長の顔だった。あからさまに落とされた細い肩に方颯璉は薄布で仕立てた衫をかけ、夜風から主人を守る。


「お身体に障ります。昇陽殿にお戻りくださいませ」

「あなたこそ、故郷へ帰ったのではなかったの。お母さまの命日だったのでしょう?」

「毎年従兄弟たちに任せておりますので」


 だからこそ今年は、と暇を出したというのに、皇后の気遣いは無に帰したようだ。仕事熱心な女官に「仕方のない人ね」と苦笑する。


のお傍を離れたとあっては、母に叱られます」


 方颯璉の母親もまた、後宮に勤める女官だったと聞く。元は苑輝の乳母として、いまは亡き皇太后に仕えていたが、その役目を終えたのちも後宮に残った。そして、苑輝を狙った毒に冒され命を落としたのだという。

 皇后が後宮の住人となってからずっと傍にいてくれている彼女にとってのは、今も昔も苑輝ひとりなのだろう。衫の前をかき合わせ、星空に向かって微かに蜜酒の酒精が残る息を細く吐いた。


「あの、やけにお酒に強くて困ってしまったわ。わたくしのほうが先に酔ってしまいそうになって」


 苑輝がやって来る前に、いつまでも戻らない自分を探して堂を抜け出されては困る。明麗には軽い眠気を誘う薬を煎じて出すように命じてきた。この場で空を眺め始めてからもうだいぶ経つ。そろそろ、政務を終えた皇帝が到着しているはずだ。美しく着飾った明麗の姿を見て、自分の思惑を察してくれるだろうか。

 皇后は、頭上で輝く星のそれに合わせるように瞼をまたたかせる。


「颯璉は似てるとは思わない? 葆へきたばかりのころのわたくしに」

「李明麗が、ですか」


 つい肯きそうになって、皇后は慌ててまた夜空に目を戻した。いま下を向いてしまえば、零れ落ちてしまいそうなものがたくさんある。


「好奇心旺盛で、怖い物知らずの世間知らず。だけどその代わり、自分の気持ちだけに素直に行動できた」

「たしかに、こちらが幾度お諫めしても、一所ひとところに留まっていてくださらなかった点などは、非常によく似ておいでです。ですが、裁縫の腕前は、百合后さまのほうが数段上でございますよ」


 不出来な教え子を嘆くような颯璉の歎息も、いまの皇后には懐かしい。瞳を閉じれば、たった数年前の事柄が遙か昔のように思い出された。


「彼女なら、苑輝さまとも気が合うはず。きっと健やかで聡明な世継ぎを産んでくれるでしょう」


 皇后が失ってしまった、李明麗の滑らかで血色のよい肌は、開花直前の蕾の如き瑞々しさがあり、これから美しく咲く大輪の花を予感させる。彼女の生家である李家も、よりいっそう公私にわたり苑輝の力となってくれるはずだ。


「なにも、このような手段をとらなくともよろしかったのでは?」


 自ら妃嬪となる娘を選び夫の元に送った行為を咎めるより、心痛のほうが勝る颯璉の声音は、皇后の視線を地上に戻させた。ゆっくりと颯璉を振り返った彼女の顔からは、一切の表情が消え失せていた。


「刻が欲しいの。苑輝さまのご意志を余すことなく引き継ぐ皇子をお育てするに、十分な年月が」

「まだ百合后さまはお若くていらっしゃるのですから……」


 ゆるりとかぶりを振り颯璉の言葉を遮る。惜しむ刻は自分のものではないのだ。


「もしいますぐ皇子が誕生したとしても、成人するころには苑輝さまがいくつになられていると思う? 同じ年のあなたなら、その年齢が決して若くないことを想像できるのではなくて?」

「六十、七十を過ぎてなお壮健な方は、いくらでもおられます」


 間髪を入れずに返され、皇后は顔を俯ける。颯璉に口で勝てたことはない。

 無意識のうちに皇后の手が下腹部で重ねられていた。


「三度よ。わたくしは、三度もあの方の御子を殺してしまったの」


 一度目は、懐妊が判明してすぐ。二度目、三度目は慎重を期し公表を控えている間の出来事だったので、確かな事情を知るものは少ない。しかし当然のことながら、当事者である皇后の心身には癒えることのない傷を残していた。


「それは百合后さまのせいではございません。侍医もそう申し上げていたはず。陛下とて、一度たりともお責めにはならなかったではありませんか。すべては天命だったのです」

「天命……。そうね、わたくしが苑輝さまの御子を産めないのは、きっと天が定めたことなのでしょう」


 夜闇に向けられた翠緑の瞳にはそれよりも昏い影が降り、深い絶望の淵を映す。


「ならばわたくしは、この国の皇后として最良の策をとるだけ。遠い小国の末姫より、宰相家の強い後ろ盾を得られる李明麗のほうが、次期皇帝の母に相応しい。ほら、わたくしは間違った答えを出してはいないでしょう?」


 幼いころに芽生えた苑輝への憧れだけを胸に抱き嫁いできた彼女に、政情も習慣も違う大国の后としての心得を、懇々と説いて聞かせたのはほかでもない、方颯璉だ。かつての鬼教官に向け無理やり作った笑みを張り付かせた頬を、ひと粒の雫が伝い落ちた。


「お願いだからたまには褒めてちょうだい。あなたにはいつも、叱られてばかりだったのだもの」


 皇后が、自分と同じくらい骨張った肩に顔を埋める。衣からは、四角四面な彼女らしい清涼な香の香りがした。


「誠に遺憾ですが、それはできかねます」


 往時を思わせる声色に、皇后はびくりと肩を揺らす。遠慮がちに回された颯璉の手が皇后の背中に添えられる。


「虚偽の回答をされても、それが正しいと認めるわけには参りません」

「あいかわらず厳しいのね。でも嘘なんかついていないわ」

「では、夏の星空の下にいる私の肩が、濡れて冷たい理由を教えていただけますか」


 慌てて顔を上げると、颯璉の藍色の肩には僅かな灯りでも確認できるほど濃く色が変わった、涙の染みが作られていた。 


「いつまで経っても颯璉には敵わないわ」


 落としたため息は、胸の内にこごるすべてが吐き出されたのか、思いのほか大きなものとなる。


「本音を言ってしまうと、この国の行く末も民の暮らしも、いまのわたくしにとっては二の次よ。あの方に、血が繋がっているというだけで、無条件に愛し愛される存在を作って差しあげたい、ただそれだけ」


 一時は、国のため民のために弑そうとまで考えた父と、私利私欲のためだけに生き死んでいった母、皇太子の座を守るため自分を亡き者にしようとした兄をもつ苑輝は、自身に流れる血を嫌悪している。アザロフから百合がきていなければ、生涯独り身を通していたかもしれないほど強く。

 その血の呪縛が、自身の子をもつことで解けるのなら――。


 皇后はもうひとつ深いため息を零す。己の心についた偽りはまだあった。


「やっぱり皇后失格ね。……わたくしと苑輝さまの子を、この腕に抱きたい」


 たくさんのものが零れ落ちて空になった両手で、颯璉の衿元を力なく掴む。


「あなたは葆について、なんでも教えてくれた。だったら、なにが正解なのかを教えて。わたくしはどうすれば良かったの?」 


 夜陰に吸い込まれて消えた声に、方颯璉からの応えが返ってくることはなかった。

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