筆先の祈請

 勅令を携える明麗を乗せた天河は、ふたり分の重さをものともせずに駆ける。宵の口とはいえ、まだ往来に残る人や荷車を器用に避けて進むが、剛燕が手綱で操っている様子はない。自らの意思で道を選んでいるのではないかとさえ錯覚する。

 麒麟という瑞獣は、このような生き物を指すのではないか。黒馬の体温を感じながら、そう思わずにはいられなかった。


「これが文徳の邸?」

「正確には周殿の、だがな。場所も知らずに皇城を飛び出すつもりだったのか」

「天河なら連れて行ってくれると思って」


 ここまでの道のりでそれを確信しかけた明麗だったが、剛燕は無謀ともいえる計画を豪快に笑い飛ばす。

 馬の背から降ろされた明麗は、門の前で目を凝らした。灯籠にも火が入っておらず、申し訳程度に鍵のかかる門扉は、剛燕ならば一蹴りで開けてしまいそうだ。

 この中で、本当に人が暮らしているのだろうか。


「夜な夜な女遊びをするようなたちでもなし、周殿のお世話もあるだろう。おそらく、寄り道もせずに帰っているはずだ」


 明麗の心の内を読んだかのように、剛燕は扉を叩く。壊れてしまいそうなほどの勢いで数回繰り返すと、また馬に跨がってしまった。


「待ってください! いったんこれを文徳に預けてからでないと」


 明麗は懐に忍ばせた葆国民譚を探る。


「よくわからんが、すぐにすむ話ではないのだろう?」

「それは……」


 このあとに何央を迎えに行き、帰りしな本を回収するつもりでいたが、ここから薬屋までの距離など明麗には検討がつかない。そもそも、道順すら怪しかった。

 

「さすがのこいつも、一度に三人は無理だしな。だいたいあの婆さんと裸馬に乗るつもりだったのか? ひとりでは上がれもせんのに?」

「……天河ならなんとかなると」


 重ね重ね、己の浅慮に身が縮む。

 これには剛燕も大仰に嘆息し、「ずいぶんと見込まれたものだ」と愛馬の首を軽く叩いた。天河が高く鼻を鳴らす。


「先に何央を拾って、後宮に届けてこよう。刻限には間に合うよう迎えに来るから、おまえさんは少し落ち着け」

「……はい。よろしく、お願いします」


 夜の闇へと消えていく馬影に、明麗は深く頭を下げ続ける。その後ろで、不気味に軋む音が響いた。


「あの、なにかご用ですか?」


 細く開けられた扉の向こう側から、か細い声が聞えた。明麗は扉の隙間に手をかけて大きく開くなり、怒鳴りつける。完全に八つ当たりだ。


「遅い! どれだけ広い邸宅なの!?」

「すみません。変な人だったらどうしようって……明麗!?」

「とにかく中へ入れてちょうだい。ここでできる話ではないの」


 了承を待たずに足を踏み入れるが、表とさほど変わらぬ暗さに愕然とする。どこかで戸がかたかたと音を立てているのは風のせいだ。明麗は自分に言い聞かせた。


「いったいなんですか? まさか、後宮を抜け出してきたわけではありませんよね」


 突然の訪問に文徳が戸惑うのも当然だ。

 明麗は乱れた衣を整え、姿勢を正して声を張る。


「わたしは、勅令によりこちらへ参りました」


 懐から取り出した勅書の文字が、淡い月明かりにくっきりと浮かび上がった。



 人の周りにだけ明かりを灯した正房で、勅使としての明麗と向かい合う文徳は、困惑した様子で眉尻を下げる。その隣で、皇帝の筆蹟を見つめていた周楽文が、嘆息を交えながらこぼす。


「苑輝さまが龍筆を所望なさるとは」


 文徳は胡散臭げに訊き返した。


「あの、書が龍になって天に願いを届けてくれるという?」


 明麗がこくりとひとつ首肯する。

 文字は想いを伝える手段。その想いが人の心を動かし、幸福にも元気にもさせる。だがそれも、書を目にして初めて功を奏するのだ。皇帝がどれほど妻の回復を願って書いたところで、いまの皇后にはその文字を見ることができない。

 けれども、龍筆ならば――。まさに天にもすがる思いでしぼり出した、天意に抗うための策だった。


「ただの言い伝えです。文字にそんな力はありませんよ」


 文徳は、取り付く島もなく以前にも口にした文句を繰り返す。


「試してもいないのに、なぜそう言い切るの?」

「では反対に訊きますが、どうして僕なんですか。皇帝陛下ご自身が筆をお執りになればすむことでしょう?」


 くちびるを噛み、明麗は楽文の手にある勅書へ視線を移した。

 案を練り推敲を重ね布帛にしたためられた聖旨とは異なり、ややくすんだ色をした官製の料紙に走り書きされた皇帝の文字。それでも、大きく包みこむようなやわらかさのなかに、芯の通った力強さと匂い立つ品格を備えた手蹟からは、君主として公明正大であろうとする廉直な為人が伝わってくる。

 しかしそれだけでは、望みは叶わない。天の意に適わない。文徳の書には敵わない。 


「陛下では……ダメなの」


 常に皇帝であろうとする苑輝には、なにかが足りない。否、あまりにも多くを抱えすぎているのかもしれなかった。


「それは、僕への勅令なんでしょうか」

「違うわ」


 勅令ならば、官人として従う以外の選択は許されないが、勅書には明麗を文徳の許へ遣わすとの意が記されているのみ。文徳本人への命までは明記されていなかった。


「では、お断りさせてください。僕には無理です」

「どうして! 文徳は皇后さまをお助けしたくはないの? お産まれになったばかりの皇子は?」

「皇后陛下がお元気になられればいい、もちろんそう思いますよ。母君を亡くされるようなことになったら殿下がお気の毒とも」

「ならば、どこに躊躇う点があるというの? 陛下はあなたには成果を問われてはいらっしゃらないのよ」


 明麗が両手を床につき身を乗り出して訴えるが、文徳は首を縦に振ってはくれない。

 遠くで鼓の音が聞える。こうしている間にも刻は過ぎていく。


「けれど僕の想いは、陛下や君に比べたらずっと薄いものなんです。そんな気持ちで、龍に変わる文字を書くなんてできるわけがないでしょう」


 強い想いをこめた文字には不思議な力が宿る。

 この国の民であれば、だれでもが知っている伝承だ。

 文徳にとって皇后は、二言三言ふたことみこと交わしたことがあるというだけでも恐れ多い天上人。主君の妻、自国の皇后という存在以上に、特別な思い入れを要求するのは難しいのだろうか。


「……もし、わたしだったら」


 目を伏せる文徳の視界に割り込むように、明麗は膝を進めた。


「わたしの命がかかっているとしたら、文徳は筆を執ってくれる?」

「いったい、なんのこと?」


 上体をのけ反らせて訝しむ文徳の前に、鬱金色に染めた絹布に包んで持参した冊子本を差し出すと、覚えのある表紙の文字を見てますます怪訝な顔をした。


「あなたにとって、この写本の作成は命じられた仕事のひとつだったかもしれない。けれど皇后さまは、文徳が書いた葆国民譚で葆のことを知り、葆の文字を学ばれたの。そんなに本が傷むほど、何度も何度も繰り返し読まれたのよ。ねやにまで持ちこんで!」


 瞼を閉じれば、それをともにした明麗の眼裏にも、四季折々にみせる葆の風景や民の暮らしと、そのなかにある喜怒哀楽が、文徳の文字で鮮明によみがえる。

 本をめくる手を止めた文徳は、少々驚いたように顔をあげた。


「父や兄たちが陛下を敬愛しお仕えしているように、わたしもそんな皇后さまのお力になりたいと思ったわ。ようやく皇子がお誕生したというのに、このまま旅立たれてしまうなんてあんまりじゃない。だから、陛下にご無理をお願いして文徳のところへ来たのよ。あなたの書を持って後宮に戻らなくては、わたしは勅令に叛いたことになってしまう」

「命に従わなかったと、陛下が君を罰する? そんなはず……」

「保証はないでしょう? 規律を乱してまで何央を後宮に入れても皇后さまをお救いできなければ、哀しみを怒りに換えられた陛下はお赦しにならないかもしれないわ。それでもしわたしの首が刎ねられたら、さすがに文徳も寝覚めが悪いのではなくて?」


 脅すように上目遣いで見れば、文徳が「ずるいなあ」と口を曲げる。

「それに」と睫毛を伏せ、明麗は口元をわずかにほころばせた。


「偽書の件が片付いたあとに見た文徳の字。いままでよりもずっと、文字だった。あなたの手蹟がもっと好きになったわ。あれなら必ず、魂のこもった感字になる」


 杜昇の千里一里を目にしたからなのだろうか。それとも、事件に関わり、琥淘利や孟志範たちの生と死に触れたせいか。

 ただ純粋に書くことを楽しんでいた無邪気さの底に澱むような、懊悩や渇望といった人臭い感情がのぞく筆遣いが、文徳の書に色と深みを加えていた。   


「天がどんな書を望むかは知らない。けれどわたしは――わたしが文徳の書を見たいの。お願い。わたしを想って、わたしのために書いて!」


 一息で言い募り、瞬きすら忘れてみつめると、文徳は自分が書く文字のように複雑な色合いの表情に顔を歪ませた。

 呵々とした笑い声をあげ、楽文が膝を打つ。


「どうやら文徳の負けのようですね。考えすぎる必要はありません。書きたいか書きたくないか。赴くまま、己の欲求に従えば良いのです。それに私も、君の文字が天へと昇る様を見てみたくなりました」

「師匠……」


 大きくため息を吐いた文徳がおもむろに立ちあがると、明麗に背を向ける。


「どこへ行くの!?」

「水を汲みに。墨を磨る清水がいるでしょう?」


 不安げに訊ねた明麗の瞳が一瞬にして輝き、大輪の牡丹が花開いたような笑みになった。


「腕試しとするにはあまりにも不謹慎ですが、できるだけのことやってみます。僕だって、君が大切に思っている人を大切にしたいんですよ」




 明麗も手伝い、正房の中心に卓が置かれた。

 自房から硯箱を取ってきた文徳は、不格好な刺繍のある包みを解く。現れた角の丸い硯は緑がかっており、墨池の底には龍が刻まれている。おかに水滴から銅銭ほどの大きさの水が落とされた。


「明麗が知っている皇后さまのことを教えてください」


 文徳に請われる。彼の手のなかで、皇帝への献上品であることを示す『御墨』の文字が、数を減らした灯りに浮かびあがっていた。


「皇后さまの?」

「はい。僕が知っているのは、西国から嫁いでいらした美しくお優しい方ということくらいで……」


 ゆったりと氷上を滑るように墨が動きだし、清水と馴染んでいく。

 より詳細な人物像が知りたいということなのだろう。明麗は、初めて後宮で謁見したときから話しはじめる。


「最初は、翠玉のような瞳に吸い込まれてしまうかと思ったわ。本当に宝玉みたいだったのよ。でもすぐに、冷たく硬い石よりも陽射しを浴びる新緑の色だと、考えを改めることになったの」

「じゃあ、明麗の目はこの墨の色ですね」


 柔肌を撫でるかのごとく絶妙な力加減で磨られる墨が、少しずつ濃度を増していく。艶のある墨色は揺らぐ灯火を反射して、月夜の湖のようだ。


「い、いまは皇后さまのお話でしょう?」


 幼い日にはるか西の祖国で、即位前の苑輝と出逢ったこと。そのときの憧れが時を経て、大きく育った恋心を抱いての輿入れ。愛し愛される幸せのなかでも捨てきれぬ、望郷の念。

 明麗が後宮で見聞きしてきたことを話す間も、黙々と文徳は墨を磨り続ける。

 身籠った子が流れ、自分を責めて枕を濡らした月日。葆の将来を憂い、最愛の夫から身を引こうとした苦悩と葛藤。

 そして、日に日に大きくなっていく腹に話しかけていた穏やかな姿。

 明麗には、険しい岩場にしがみつき、強風に煽られながらも気高く咲き続けるユリの花のようなたおやかさと芯の強さのある一方で、ただ一心に夫を恋い慕う、ごく普通の女性にもみえた。

 ふわりと墨の香が濃くなった。龍が完全に漆黒の海に沈み、文徳が墨を置く。卓上に葆国民譚の裏表紙をめくって広げ、管尾に精緻な鳳凰が彫られた象牙の筆の穂先に墨を含ませる。目を瞑った文徳は、細く長く息を吐き出した。

 文徳の背筋が伸びる。ゆっくり瞼が持ち上がったかと思うと、まるで呼吸するように起筆が入れられた。


 すっと、なだらかな弧を描いて横画が伸びる。その下に、やわらかな丸みを帯びる裾の窄まったが書き加えられた。

 ひと文字目は『百』。数字を表す一と、広い、大きい、多いなどの意味をもつ博と同じ音の白とを組み合わせた文字だ。

 文徳は墨継ぎすることなく二文字目を続ける。

 力強い左払いと右払いの起筆を鈍い角度で重ね、太い横画がそれらを支える。広々とした屋根の下には大きめのがひとつ。しっかりと出口が止められた。

 蓋と器で表した『合』である。


「百合」


 起筆から筆が置かれるまで、無意識に呼吸を止めていた明麗が、吐息まじりでつぶやく。

 皇帝が皇后に贈った、葆での名だった。

 肺腑にある息を全部吐き出すように、文徳が背中を丸める。

 

「どうでしょう」

 

 伺いを立てる文徳の声に、不安の色は欠片もない。

 愛弟子の渾身の筆に周楽文は幾度も肯き、白い眉の下で眼を細めた。


「白は頭蓋骨を表した文字だとも伝わっていますが、この『百』は皇后陛下のお顔ですね。しかも、これは……」


 そこにあるのは空虚な眼窩を晒す髑髏ではない。まばゆい鳳冠を戴き緑の瞳を輝かせる、皇后の白いかんばせだ。しかし、いまの容貌といささか異なる印象を受けるのは、おそらく年を重ねた姿だからなのだろう。そしてその下に集った、笑い合う口。

 まさに永寿嘉福。幸せな行く末を祈念する書だった。


「百合の名は、球根や葉が幾重にも層をなす様子からつけられたというわ。これから先も、皇后さまにたくさんの幸せな出合いがあるように。この書は、そういう想いがこめられた感字ね」


 康寧、博愛、敬慕。文徳の筆致から発せられる陽の気を言葉にするのは、無粋にも思えた。

 

「それから、末永く両陛下の御許で多くの民が笑って過ごせるように。いま僕が出せる力を全部使って書いたつもりです。ですけど――」


 達成感が鳴りを潜め、文徳は諦観の面持ちで、灯りの届かぬ四隅に闇が凝る正房内を見回した。


「なにも不可思議なことなんておきませんでしたねえ」


 書から龍が飛び出して天へ昇るなど、やはり荒唐無稽な話だったのだろうか。それとも力量が不足していたのか。

 指先で文字に触れて墨の乾きを確認すると、文徳は力なく笑う。


「お名前だけなんて、不敬でしょうか」


 明麗は力一杯、首を横に振る。

 なぜか、一縷の望みが潰えたという絶望はなかった。それよりも、名筆が生み出される瞬間に立ち会えたという感慨のほうが深い。


「この字を見たら、だれも敬意がないなんて思わない。たとえ龍に変わらなくとも、文徳の書がすばらしいということに違いはないもの」


 文徳のみならず、明麗の、皇帝の、葆の想いがこめられた書を、目覚めた皇后に早くみてもらいたい。

 受け取った本を抱える明麗の胸が落ち着かない理由は、それだけではなかった。


「……わたしの名も書にしてくれる?」


 文徳が自分の名前をどのように書くのか、知りたくてしかたがない。『百合』の二文字に妬心すらわきそうになる。


「前に書いたことありませんでしたっけ」


 それは書庫の埃っぽい床に、指で書いたものだ。


「消えてしまうものではいやよ。文字は残すためにあるのでしょう」


 首の後ろをかきながら、文徳は文房具と、卓の左脇に座る明麗の顔とを交互にみやる。墨と筆はあるが、適当な紙はない。


「ええっと……いま?」


 さすがに皇后の容態や残された時間を鑑みれば、そのように悠長なことをしている余裕はなかった。

 後ろ髪を引かれつつも、明麗は立ち上がる。


「そうね、またにしましょう。……いつになるかはわからないけれど」


 果たして、その機会が訪れる日はあるのだろうか。後宮の一女官と低位の文官の接点は、限りなく無きに等しい。そもそも皇后に万一のことがあれば、この先明麗自身もどうなるかわからないのだ。

 明麗が諦念の笑みを浮かべようとしたときだった。


「わかりました。いつか必ず」


 明麗を見上げた文徳と目が合う。その瞳の中に、彼の手蹟と同じ、なにかを追い求めようとする感情をみた気がして、自然と頬がゆるんだ。


「約束よ」


 文徳が肯くのを見届けて表に出る。すると、敷石の隙間から枯れ草が伸びる院子なかにわにふたつの人影があった。小さい方は、いつの間にか正房から姿を消していた楽文だ。驚いて階の上で足を止めた明麗を手招きする。


「お迎えがいらしていますよ」


 まばらに提げられた釣り灯籠の灯りが、李博全の不機嫌な顔を映した。


「どうして兄さまが!?」

「無駄話をしている暇はない。――周殿、お騒がせいたしました。このお詫びは後日あらためて」

「詫びていただくことなどなにも。むしろ養い子せがれの成長を、思わぬ形で見せてもらいました」

「文徳の……」


 博全が正房に目を向けると、明麗に続いて出てきた文徳が礼をとる。


「世話になった」

「いえ。此度は力が足りず、お役に立てなかったようです」

「そんなことはないわ。文徳は最高の書を揮毫してくれた。この文字はきっと、天まで届いているはずよ」 

「龍筆か」


 明麗が抱える包みを一瞥してつぶやくと、博全は夜空を見あげた。そこには少し太った半月が輝くのみで、天翔る龍などいるはずもない。


「あ、刻限が!」


 あの月が中天に昇ってしまっては、閉門に間に合わなくなる。楽文や文徳への挨拶もおざなりに、明麗は博全と小ぶりな軒車に乗り込んだ。

 御者にとにかく急ぐよう指示したせいで車内はひどく揺れ、博全との会話にも苦労する。天河の背のほうが、よっぽどだった。

 明麗は両手で葆国民譚を守り、兄から事情を聞き出す。


「劉将軍はどうなさったのですか? 無事、何央は後宮に入れたのでしょうか。皇后さまは、いまどうされているかご存じですか!?」


 矢継ぎ早の質問に、博全は顔をしかめた。


「女薬師は剛燕が後宮に届けた。なにやら胎衣がどうのと騒いだらしいが、詳しくは知らん」

「胎衣?」


 医書では、後産の際に排出される胎盤や臍帯なども貴重な生薬として紹介されている。

 何央は明麗に髪や爪を要求したくらいだ。まさか皇后のそれを対価として強請ねだったのではとの不安が、明麗の胸に渦を巻く。いまは既知の仲である剛燕が、うまく交渉してくれたと信じたい。


「ほかにもあれこれと生薬をほしがって、医官が後宮と太医署の薬庫を何往復もさせられそうになったらしい。みかねた剛燕が中継に入り、使い走りをしている。ゆえに、私が軒車を出す羽目になった」

「兄さまも馬で来てくださればよかったのに」

 

 そうすればもっと早く帰れるはずだ。

 勝手な言動をするばかりの妹に、博全は舌打ちを返す。


「それで、皇后さまのご様子は……」


 一番の気がかりを尋ねると、博全の表情はますます渋くなる。


「なにぶん後宮内のことで、表の者には伝わってこぬのだ。皇后陛下ご危篤も、老婆を背負った剛燕が騒々しく戻ってきたおかげで、ようやく公になったほどでな」


 突然の報せに、皇子誕生による立太子の件で皇宮に居残っていた官吏たちが騒然としたという。毎日のように顔を合わせていた博全は、微塵も深憂を悟らせなかった皇帝の秘密主義を嘆く。


 明麗が強行した策は吉と出るだろうか。

 皇城へと続く大路を進む車輪の音が響く軒車の中で、『百合』の文字を胸に、明麗は祈り続けていた。

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