収筆

希望の産声

 皇后の妊娠経過は、決して順調とはいえなかった。

 初期はとにかくひどい悪阻で、食事が喉をとおらない。よかれと処方された不味い湯薬など言わずもがな。白湯の湯気にも吐き気をもよおすといった具合である。

 東奔西走した御膳所や太医署が様々なものを試し、皇后の体力維持と胎の子の発育に尽力した。

 ほんのりと腹が膨らみはじめるころに食欲は戻ったが、続いては張りや出血に幾度となくみまわれた。そのたびに、宮女たちは顔を蒼くして右往左往する。

 多くの者が繰り返された哀しみを思い出し悲観に暮れるなか、皇后はただ静かに、腹をまあるく撫でながらまじないのように言い聞かせた。


「大丈夫。あなたは強い」


 それに応えるように、子は母の胎にしがみつき続けた。

 ようやくはち切れんばかりにまで突き出た腹を抱え、皇后はため息を吐く。


「重すぎて、自分の身体ではないようだわ」

「いましばらくの辛抱にございます」


 黒い碁石を冷静に打つ朱華月の物言いは、兵卒を激励するかのようだ。


「けれど侍医は、まだ産まれる様子はないというのよ」 

「母上のお胎の居心地がよろしいのでしょう。いずれ御子も、外の世界をご覧になりたくなるはず。お生まれになれば、終始肌身離さずというわけにはまいりません。いま限りの母子水入らずの時をお楽しみくださいませ」

「それもそうね。でも、早く逢いたいわ」


 経産婦の言葉はなによりも心強い。皇后は安堵の笑みをみせる。

 慎重すぎる周囲に止められ中庭の散策もままならなず、初めて迎える出産への不安を抱えて過ごす皇后に、華月を招くよう勧めたのは明麗だ。碁盤がよく見える位置に置かれた椅子に腰かけるにも難儀そうな皇后の大きな腹を、手番も忘れ、感慨をこめつつまじまじと観察する。


「本当に、御子がいらっしゃるのですね」


 英世を産んだ兄嫁の腹より、細身の皇后のほうがより前に出ているようだ。人の中で人が育つ。明麗にはその仕組みが不思議でしかたがない。


「そうよ。いまも元気に動いているわ。触ってみる?」

「よろしいのですか!? 甥のときは、兄から禁止令が出されていたんです!」

「李明麗! そのように不吉な手で触れることはなりません」


 興味の赴くままに伸ばした右手を、方颯璉に叩き落とされた。

 しかたなく行き先を変えた明麗の手は、掴んだ白石を盤面の右辺に荒っぽく打つ。すると華月から、小さな舌打ちが聞えてきた。


「明麗の手は不吉なんかではないわ。博全はきっと、この幸せを独り占めしたかったのよ」


 笑いをかみ殺した皇后が両手を腹に添える。


「でしたら、息子の学問くらい、己でみたらよいとはお思いになりませんか?」


 英世から送られてきた文があまりにも読み難かったため朱を入れて送り返したところ、次には大量の書が届いた。いまでは、明麗から課題を出すまでになっている。


「博全も自身の勤めで手一杯なのよ。それに、あなたも苦ではないのでしょう?」

「英世には、将来御子をお支えするために、しっかり学んでもらわねば困ります。兄の片手間仕事に任せておくわけには参りません」

「では、当家の放蕩息子もお願いしようか。子来よりも覚えが悪くて困っておる」


 長考していた華月が、ようやく石を置いて盤から顔をあげた。義侑は、大火傷を負い、まだこれまでの生活に戻るには少々不自由が残る秋子来の世話を焼く傍ら、彼女に文字を教えているそうだ。脱走癖はあいかわらずだが、以前より書に向かう時間が増えたと、華月は苦笑する。


「よろこんで。ここからでは監視の目が届きませんので、そちらはお願いいたします」


 応じて明麗が石を打ちこむ。華月の細い眉が片方跳ねた。

 

「承知した。では、武芸は当家で面倒みよう」

「それは心強いです。思う存分鍛えてやってくださいませ。万一のときに殿下をお守りできぬようでは、目も当てられません」

「遠慮はせぬぞ」

「こちらもです」


 口を動かす間にも対局は進む。盤面が白と黒に埋まりはじめたのを横目に、皇后は小卓から毛糸の塊を取りあげた。初夏に刈った羊の毛を紡いで試作した糸で編んだ、小さな小さなくつしたは、もう完成間近だ。


「あなたは生まれる前から、頼りになる臣下がたくさんいて幸せね」

「……皇子でしょうか」


 殿内を見渡せば、至るところに北方の民が得手とする弓や猛々しい馬像などが飾られている。どれも皇子誕生を祈念して置かれたものだ。

 後宮内では様々な予想が飛び交っているが、後継となる男子を望む声が圧倒的に大きい。自分たちも当然のごとく、腹の子が男子であるものとして会話していたことに気づいた。

 しかしもし、産まれたのが女子だったら、皇后はまた思い悩むことになるのだろうか。

 明麗の胸をよぎった懸念を見透かしたように、皇后は眉根を寄せる。


「明麗は、この子が女の子だったら困る?」

「そのようなことは断じて! 公主さまならば、わたしが葆国初の女帝にしてみせます」


 とっさに口を衝いた案だったが、それもまた悪くはない。明麗の口角が自然と不敵に持ちあがった。


「ありがとう。頼もしいわ」


 目まぐるしく表情を変える明麗をからかうように、腹を庇いながらころころと皇后が笑う。


「とにかく、元気に産まれてきてくれないことには――」

「どうなさいました」


 突然息を詰めて上体を前に傾けた皇后の許に、颯璉が膝をつく。


「しばらくすれば治まるから大丈夫よ。少し前からときどきあるの。お腹を冷やしたのかしら」

「丁殿を呼びましょう」


 すぐさま太医署に遣いを出そうとした颯璉を皇后が制する。


「朝も診てもらったばかりよ。そんなに頻繁に呼んでは老体に悪いもの。ほら、もう平気」


 ふうと息を吐いて、椅子の背にもたれた。

 その様子に、華月が思案顔で腰を浮かす。

  

「もしやそれは、産気づかれたのでは? 早く太医を!」


 有無を言わさぬ勢いがある華月の指示に、素早く颯璉が動く。殿内がにわかにざわつきはじめると、皇后は困惑の表情を浮かべた。


「我慢できるくらいだもの、違うと思うわ。……もっと痛いものなのでしょう?」


 怖々と尋ねる皇后と同じ表情をした明麗も、固唾を呑んで華月を見やる。

 華月は昇陽殿の内を見回し、呆れたように嘆息した。


「ここにいる宮女のほとんどは、陛下がお若い皇后さまのために揃えられたのでしたね」


 先帝の崩御以降、十年以上にわたり后妃が不在だった後宮での出産は、じつに久しぶりのことだ。皇后の身の回りにいる者たちが妊婦の些細な変化に気づかなかったことを、一方的に責めることはできない。年嵩の颯璉とて、自身の出産はおろか介助の経験すらないのである。


「いっそ、腰から下を斬り離してくれと叫びたくなるほどの激痛です」


 皇后が神妙な面持ちで自分の腰回りをさすり、明麗は出かかった悲鳴を呑み込む。


「なれどたいていは、初めから激しい痛みに襲われるわけではありません。来ては引きを繰り返しながら強まり、徐々にその間隔が狭くなっていくものなのです」

「それは医書で学んだので存じています。が……本当に?」


 明麗は、皇后の顔と腹とに幾度も視線を上下させる。医書の記述にあるような出産の兆候が、ほかにあったとは聞かされていない。


「百の妊娠があれば、百通りのお産になるもの。書物にある知識だけで、明麗は医者にでもなったつもりでいるのか」 


 静かに、だが鋭く問われ、明麗は口を尖らせる。

 

「そのように思い上がってはおりません。ですが、侍医殿もまだ先だろうとおっしゃっていました」

「丁稔殿か。戦傷の治療では右に出る者はないが、果たして独り身の太医がどこまで女子の身体に精通しておられるか」

「丁稔はよく診てくれているわ。無事に産み月を迎えられたのも、彼が――」


 また皇后が前屈みに腹を抱えた。先ほどよりも痛みが強いのか、肩が大きく上下する。


「とにかく寝台へ。ご自身で歩けますか?」


 なんとか肯いた皇后は、小柄な華月に支えられて寝台へと向かう。慌てて明麗も、ときおり立ち止まり深呼吸する皇后の手を取った。


 結果。やはり、陣痛が始まっていたようだ。

 診断を見誤った丁稔の責を颯璉が問おうとするが、反対に「いまはそのような場合ではない」と叱責される。


「この首が必要とあらば、のちほどでいくらでも差し出そう。しかしまずは、産所の支度をしてくだされ!」


 気勢に鼻白みながらも颯璉は宮女たちに指示を出し、いつでも赤子を迎えられる準備を整えた。



 ところが、御子誕生の吉報は聴けぬまま二晩が過ぎた。

 手を出せることがなにもない明麗は、早々に産所から閉め出されてしまった。祈りながら昇陽殿の周りを何周もし、みかねた孫恵に自房へ連れ戻されてはまた戻るといった具合だ。

 三日目の朝も、昇りはじめた陽に輝くうっすらと降りた霜を踏みながらやって来た、昇陽殿の扉の正面を陣取った。

 昨夜、消灯の見回りの目を盗んで殿舎を見張っていた明麗は、産所に詰めている高泉が銀の面盆を手に出てきたところを捕まえた。血走った目で内の様子を訊ねれば、痛みは強まる一方だが、赤子がなかなか降りてくれないのだと眉を曇らせる。このままでは、ろくに食事や睡眠がとれていない皇后の身体がもたず、母子ともに危うい。丁稔の見立てを聞かされた明麗は、押しこめられた衾の中でまんじりともできない一夜を過ごしていた。

 冷たい石の階に腰かけ、いつ届くやもしれぬ産声に耳を澄ませているうちに、横顔を照らす陽の暖かさが、腫れぼったい瞼をいっそう重くする。やがてやわらかな陽射しを受けながら、明麗はゆっくりと船を漕ぎはじめた。


「ちょっと! こんなところで居眠りしないでちょうだい」


 高泉の金切声で起こされ、高く昇った眩しい陽光を手庇で遮る。

 いつの間にか扉は開かれており、人の出入りで慌ただしい。もしやと明麗が顔を向けると、高泉はいまにも泣き出しそうに表情を歪めた。


「お産まれになったわ。お健やかな皇子殿下よ」

「まことですか!? お祝いを申し上げなくては」


 痺れた足で立ちあがろうとした明麗がよろける。とっさに支えた高泉が、耳元で深くため息を吐いた。


「それはまだ……陛下!」


 高泉は、はっと明麗から手を離すと頭を垂れる。それに倣い礼をとる明麗の前で、荒々しい足音が止まった。


「皇子殿下ご誕生、お慶び申し上げます」


 声を弾ませる。しかし険しい顔の皇帝は、祝辞に応えることなく殿内へと消えていく。少々遅れて、息を切らせた侍従らが続いた。


「嬉しくないわけではないわよね」


 不審に思った明麗がつぶやく。


「じつは出血が酷くて、皇后さまは御子を一度も抱かれぬうちに気を失ってしまわれたの。丁侍医たちが手を尽くしているけれど」


 殿舎を振り仰いだ高泉の憂い顔が、ざわりと明麗の肌を粟立たせる。矢も盾もたまらず、殿内へと押し入った。


「皇后さま!」

 

 寝台に横たわる皇后の姿に、明麗は悲鳴をあげる。固く瞼を閉ざした顔色は、死人と見紛うばかりに蒼白かった。

 枕頭に駆け寄ろうとする明麗の前に、颯璉が立ちはだかる。


「静かになさい。皇后陛下のお身体に障ります。それに、あなたの入室を許可した覚えはありませんが」

「かまわぬ。そなたも早く、百合の子に逢いたかっただろう」


 寝台の端に腰掛け皇后を見守る皇帝の腕には、錦にくるまれた小さな塊が抱かれていた。

 恐れ入りながら覗いた腕の中で、すっかり清められ真新しい産着を着せられた赤子は、健やかな寝息をたてていた。


「皇子……殿下」

「どうだ。抱いてみるか」


 猫の仔を渡すように差し出され、明麗は受け取るべきか否か、じたばたと両腕を上げ下げしてしまう。


「お戯れはおやめください。大切な皇子になにかあったら、どうなさるおつもりですか」


 止めに入った颯璉の声に反応したのか、顔をしかめた赤子がむずかりだす。しゃくるような声は次第に盛大な泣き声になった。


「申し訳ありません。ああ、どういたしましょう。春雨しゅんう! ぎゅう春雨をこれへ。早く!」


 さすがの颯璉も、産まれたばかりの赤子の扱いは不得手のようだ。声を抑えながらも、必死で乳母を呼ばう。その間も皇子は、父親の腕の中で顔を真っ赤にして泣き続ける。

 控えていた春雨が帳の奥からおっとりとした動作で現われて、肉付きの良い腕に赤子を収めた。「おそらく乳でございましょう」と、手馴れた様子であやしながら連れて行く。

 小さくなっていく泣き声を背に、颯璉は頭を下げた。


「申し訳ございません」

「いや。赤子が泣くのは当然のこと。賑やかにしておれば、除け者はごめんだと起きるかもしれぬな」


 皇帝は空いた手で、寝台に広がる麦穂色の髪を梳く。耳元で我が子があれだけ泣きわめいても、皇后は目を覚ますことはなかった。ときおり苦痛を訴えるような動きをみせる瞼やくちびる、うっすらと汗ばんだ額が、むしろ息をしているのだという安心を与える。


「陛下。皇后さまは……」

「多量の血を失い、気も不足しているらしい。薬を飲ませようにも、意識が戻らないことにはどうにもできないと。いまは、鍼や灸を試みているそうだ」


 自身の袖を使って妻の額を拭うと、皇帝が立ちあがった。

 待望の皇子誕生により、皇太子冊立の話も進むだろう。憂いを残しつつも外朝へ戻らねばならぬ皇帝を見送るために、皆が頭を垂れる。


「子の様子を聞かせてやってくれ。――また来る」


 最後にもう一度、妻の血の気の失せた頬に触れていった。




「百合后さま。さきほど、わたしの顔を見て、皇子さまが笑われたのですよ」


 皇后の腕の拭き清めながら語りかける。 

 

「気のせいではないの?」

「そんなことはないわ! たしかにお笑いになられたもの。こう、にこっと」


 明麗は自分のくちびるの両端をあげてみせるが、足を任せた孫恵に鼻で笑われた。


「ではよっぽど、明麗の顔がおもしろかったのね。あっ! そんなに力を入れてはダメでしょう」

「だけど、赤くなるってことは、血の巡りが良くなっている証拠ではないの?」

「垢すりをしているわけではないのよ。皇后さま、お痛みはございませんでしたか」


 いたわしげに孫恵が問うが応えはない。生薬を煮出した湯にくぐらせた絹布を絞ると、冷たい爪先をしたもう片方の足を丁寧に拭う。

 出産から三日目の晩が明け、その陽が傾きかけても、いまだ皇后は眠り続けていた。

 明麗は白い首筋をそっと拭き取る。氷のような手先足先に対して、額や胸元にはじっとりと汗が滲む。


「また熱が上がられたみたい」

「丁侍医にきていただぎしょう!」


 孫恵が太医を呼びに行っている間にも、皇后の息遣いが荒くなっていく。このような事態に直面してもなお、後宮内で医師が待機していないのだ。融通の利かない不自由さに苛立ちながら太医の到着を待ちわびる。

 不意に皇后が、苦しげにうめいて激しく頭を振った。


「百合后さま?」

 

 呼びかけるが返事はなく、意識が戻ったわけではないようだ。再び深い眠りに落ちる。

 明麗は新たに汗の噴いた顔を拭い、乱れた髪を整える。位置を直した枕の下から、一冊の本がのぞいていた。


「これは……葆国民譚」


 近頃は教本とすることもなくなり飽きたものと思っていたが、明麗が最後に見たときよりもさらに読み込まれたらしく、手擦れが増している。


「たしか、四書仙と龍のお話をお気に入りでしたね」


 表紙をめくると、明麗は声に出して読み始めた。

 



 力の全く入っていない皇后の手を寝台に戻し、丁稔は深く一礼する。


「どうなのだ?」


 静かに訊ねる皇帝の声には、偽りを述べることは許さぬという含みがあった。

 両手を胸の前で重ねたまま、丁稔の肩が落ちる。


「脈がかなり弱くなられています。ご出産で体力を奪われたうえにこう高熱が続くとなれば、正直なところ、この一両日が山かと」


 丁稔の直截な物言いに、皆が息を呑んだ。


「子を授けた代わりに、つまを召し上げるが天意なのか」


 重い足取りで寝台に近づいた皇帝が、皇后の手をとった。眼差しには、後悔にも諦めにも似た色が浮かぶ。

 燭台の灯火が揺らぐ音さえ聞えそうなほどの沈黙を壊したのは、両手で作った拳を震わせる明麗だった。つかつかと進み、侍医に詰め寄る。


「無責任なことをおっしゃらないでください! 丁殿は優秀な医官が集まる太医署から選び抜かれた名医なのですよね。簡単に務めを放棄なさるなど、それでも太医といえるのですか!?」 

「私とて皇后陛下をお救いしたい! なれど、湯薬はおろか、水さえもお飲みいただけぬようでは、これ以上私には手の施しようがないのだ」


 ただ衰弱していく姿を観ていることしかできない苦渋に、顔のシワを増やす。

 眠り続ける皇后の枕辺に一瞥を送った明麗は、皇帝の足元に額ずいた。


「僭越ながら、謹んで皇帝陛下にお願い申し上げます。市井の者を後宮に招き入れることをお許しくださいませ」

「明麗、このようなときになにを――」


 皇帝がゆるりと首を振って颯璉を制し、理由を訊ねる。


「いかがした?」

「西下に何央という女薬師がおります。彼の者ならば、皇后陛下をお救いできるかもしれません」


 紙舗の火災でひどい火傷を負った少女の存在は、皇帝の耳にも入っていた。彼女の命を救った薬師だと告げると、皇帝は思案げに目を細める。


「しかし、外傷の治療とは勝手が異なるのではないか」

「何央は、花街で数多の妓女を診ているのです。おそらく、女子の身体については太医署におりますどの太医よりも詳しいのではないかと」


 明麗は面を伏せたまま、ちらりと丁稔を盗み見る。

 花街、妓女と聞いて、一同が眉をひそめた。ところが驚いたことに、誹りを受けたはずの丁稔だけは、節の目立つ手を顎に理解を示したのだ。


「妓楼の薬屋か。なるほどそれは一考の価値があるやもしれません。いやしかし、下賤の薬師に皇后を診せるなど、前例が……」

「わたしはっ!」

 

 風向きが変わりそうになった言葉を奪い、明麗は座した床の上から皇帝を睨めつける。


「諦めたくはないのです。たとえわずかなりとも可能性が残されているのなら、どのような策でもすがりつきたいのです。陛下も、もっと執着なさってください。皇后さまにも。そして、ご自身の想いにも」  


 戸惑うように明麗から逸らされた皇帝の視線は、皇后の浅い呼吸を繰り返す乾いたくちびるをなぞって、固く閉じたままの瞼で留まった。己の体温を冷たい手に移すように、大きな両手で包みこむ。皇帝はしばしの間その手を額にあて瞑目していたが、やがておもむろに目を開けた。 


「……颯璉。西下に遣いを」

「御意」

「お待ちください!」


 命を受けた颯璉を押し留め、明麗は再度平伏する。


「どうかそのお役目を、わたしに一任してはいただけませんでしょうか」

「薬師を連れてくるだけなら、あなたが行く必要はないではありませんか」


 颯璉が訝しむのはもっともだが、明麗はもうひとつの策をもっていた。


「薬屋のほかにもう一ヶ所、行かねばならぬ場所があるのです」


 顔をあげて胸を張る。絶対に譲らないという強い意思をその瞳に宿して、皇帝を見据える。


「わたしは陛下が皇后さまに贈られた葆国民譚をお借りし、林文徳の邸を訪ねるつもりです」

「林文徳の?」

「先ほども申し上げました。どのようなことでも試したいのです。それがたとえ、雲を掴むような方法だとしても。もちろん、すべての責はこの身に負う覚悟です」


 皇帝は寝台の隅に置かれた本と明麗を見比べ、微苦笑を浮かべた。


「そういうことか。たしかに、試してみる価値はありそうだ」


 筆の用意をさせると、女官李明麗への勅令をしたためる。


「刻限は城の閉門まで。それを過ぎれば、厳罰に処す。よいな?」

「しかと拝命いたしました」


 まだ墨の乾ききらぬ勅書と葆国民譚を胸に、明麗は久しぶりにくぐる通用門へと急いだ。



 まっ先に向かった練兵場の厩で、明麗は馬の鼻頭に勅令を突きつける。


「天河ならわたしの言うことがわかるわね。これは陛下の御命なの。わたしを乗せなさい」


 いくら皇帝の手蹟でも、馬に字が読めるわけがない。当然のごとく、ふいと横を向かれてしまう。危うく、飛ばされた鼻汁で勅書を汚しそうになった。


「やっぱり無理ですよ、女官殿。いま軒車くるまを用意させますから、ちょっと待ってください」

「時間がないの。一番脚が速いのはこのでしょう?」

「じゃあ、せめてほかの馬に……あ! 鞍がまだ」


 急かされながら轡を着けていた厩番が止めるのも聞かず、明麗は手綱を引っ張って、山陰に日が隠れた外へと連れ出した。


「お願いよ、天河。文徳のところへ連れて行ってちょうだい!」


 頭の位置よりも高いところにある馬の背に両手をかける。自分の身体を持ち上げようと両腕に力を入れるが、爪先は地面からいっこうに離れない。しまいには、高くあげた片足で腹を蹴ってしまい、天河に嫌がられた。

 明麗は、鞍を手に追いかけてきた厩番ににこりと微笑む。


「申し訳ないのだけれど、踏み台になってくださる?」

「え……」


 顔を引きつらせて後退る。


「だ、台を取ってきます」


 踵を返した厩番は、薄闇に浮かぶ大きな影に気づいて胸を撫でおろした。


「なんだ。馬泥棒が出たと聞いてすっ飛んでくれば、天河のほうが引きずり回しているようではないか」

「劉将軍!」


 泣きついた厩番の肩を叩いてねぎらい、剛燕は不満を訴えるように擦り寄ってきた天河の鼻筋を撫でてなだめる。明麗にはまったく見せなかった仕草だ。


「盗人ではありません。少しの間、お借りするだけです」

「勅書まで振りかざして、いったいなにがしたんだ?」 


 ここで宸筆を出したところで、剛燕が膝を折るとは思えない。なにより刻が惜しい。


「急ぎ、何央を皇后さまの許へ連れて行かねばなりません。それから、林文徳の邸にも」

「何央に……文徳?」


 剛燕は後宮のある方角を眺めやり、頭をかきむしってから鋭い眼光で明麗に質した。


「それが苑輝さまの望みなんだな?」

「はい。そして、わたしが希望したことでもあります。じつは皇后さまが――」

「細かい話はいい。いとまがないのだったな。鞍を置く手間も無駄ゆえ、このまま行くぞ。ほれ」


 明麗の説明が終わらぬうちに、剛燕は天河に跨がり手を伸ばす。それを掴み、もう片方の手を馬の肩にかけて軽く跳びあがると、次の瞬間には明麗も馬上にいた。


「日が暮れたあとで助かったな。その格好で城内を駆けたら、嫁にいけなくなるところだった」


 いつもの女官服に、孫恵が慌てて取りに戻り渡してくれた外套を羽織っただけだ。馬の背を跨いだ裙の裾は大きくまくれ、膝褲を着けた脛が露わになっている。


「ご心配には及びません。わたしはこの先もずっと、後宮の女官ですから」

「そうなのか。それは残念!」

 

 剛燕の合図で歩き出した天河の脚は、徐々に速まっていく。勅書を門符に東大門を抜けるとさらに速度は増し、初冬の風が飛礫つぶてのようだ。明麗は目も開けていられなくなり、馬の首にしがみついた。

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