万里の惜別
明麗が堂から出されたのは、年が明けてしばらくのことだった。
雪などどこにも見あたらない。蒼く澄んだ空の下、冷たく乾いた新年の空気を体内に取りこむ。
扉には頑丈な閂と鍵がかけられていたが、窓はそのままだった。逃げだそうと思えばいくらでも可能な状況で、明麗は許しが出るまで待ち続けたのだ。
「もっと早く赦してくださってもいいのに。朝議でちょっと声を出したくらいで、颯璉さまもお厳しいわ」
久しぶりに孫恵の手で帯を締められ、髪を結ってもらう。少々の窮屈さが懐かしくもあり、煩わしくも感じた。
「軟禁生活も、悪いことばかりではなかったわよ」
日に二度、豪勢とはいえぬもののきちんと食事は運ばれてきた。三日に一度はたっぷりと湯が届き、さほど不快な思いもせずにすんだ。ただし、髪は洗いっぱなし、衣など人目がないのをいいことに、重ねて羽織ったものを一本の帯紐でまとめて留めた。もちろん固結びである。口を利いてはいけないと命じられた婢女が、必要なものを持って訪うたびに複雑な顔で戻っていった。
一番苦労したのは火だ。
颯璉が去り、長いこと扉にもたれ放心していた明麗だったが、寒さに震えて盛大なくしゃみを放ったのを機に気持ちを切り替えた。こんな場所で凍え死ぬわけにはいかない。
幸い、堂には日常生活に不自由しない程度の調度が揃っていた。まずは濡れて体温を奪うばかりの衣裳を替える。
次は暖をとらねばと火種を探すがみつからず、家捜しの末にどうにか火起こしの道具は発見した。原理も手順も知っている。だが、実践したことはない。四苦八苦の末に飛び散った火花から小さな炎が点いたときには、たまらず涙が滲んだものだ。
「火も点けられるようになったから、お湯だって沸かせるのよ。お茶は……飲めたものではなかったけど」
そこに辿り着くまでに破壊した茶道具の数は黙っておく。
「血染めの刺繍をした雑巾もたくさん縫えたものね」
「手巾よ」
「はいはい。針に糸が通せただけでも、たいした進歩だわ」
軽くいなす孫恵に背中を押された。
身支度が整い次第、昇陽殿に参上するようにいわれているのだ。
「独りきりで年を越したのは気の毒だったけど、皇后さまもお忙しくていらしたのよ。ほら、ご挨拶に行って元気な顔を見せてきなさいな!」
明麗の気がすすまぬ理由を知らない孫恵は、ことさら明るく送り出す。堂に閉じこめられてからの皇宮での出来事を尋ねても、確かな情報ではないとはぐらかされている。
帯に提げた佩玉の凹凸を指先でなぞる。早く知りたいとは思うが、同時に怖くもあった。
◇
見慣れた扉の前でいったん立ち止まり、持参した包みを胸に明麗は深呼吸する。
自分で決めたことだ。決心が鈍らないうちにと、勢いよく戸を開けた。とたん、墨と紙の香りが鼻孔をくすぐる。
「おや、明麗。久しぶりですね」
いままでと変わらない、のんびりとした声に出迎えられた。まるで、年末年始の騒動を知らないかのようだ。
新年の挨拶もそこそこに、明麗は房の奥へと視線を移す。
「周楽文さまはご不在?」
山成す書籍に埋もれている、というわけでもない。
「お休みをもらっているんです。ちょっと体調を崩していまして」
「どこがお悪いの?」
文徳の口調からは少しも危機感を受け取れないが、高齢の周のことだ。心配するなというほうが無理である。明麗が眉を曇らせると、文徳は顔の前でひらひらと手を振った。
「ちょっとした感冒です。熱もありませんし、大事を取ってもらっただけなんですよ。もう、いいお年ですしね。……僕が
ばつが悪そうに、振っていた手でこめかみを掻く。
明麗は腰を落とすとその手を除けて、自分の手のひらを文徳の額にあてた。
「あなたも!? うん、熱はないようね」
「もう治りました。おかげで、新年の支度がなんにもできなくて参ったけど」
やんわりと手を外される。そのかわりに、ずいと膝を詰めた。
「あのとき雪に濡れたせいで?」
「まあ、いろいろで体力が落ちていましたしねえ。たまにはこんなこともあります」
自分の知らないところで、いろいろなことがあったのだ。
明麗は、卓上にある書きかけの書に目を留める。そこあるのは、いつもながらにしなやかでやわらかい文徳の手蹟だ。だが、どことなく深みが増した気もする。
これまではみえなかった感情が加わり、墨の中に溶けこんで、繊細に複雑に絡みあう。目にした者の琴線に触れずにはいられないその墨蹟は、明麗の心を温かくも苦しくもさせた。
「ねえ」
「あの」
互いに目で譲り合い、けっきょく明麗が我慢しきれず先に口を開く。
「あのあと、なにがあったの? 志範さまが入水したと聞いたけれど、まさか兄が……」
皇后との会話で知り得たのは、関係者が軒並み死亡したという結果のみ。志範は捕縛を恐れ、自ら命を絶ったのだろうか。あるいは、万が一にも累が及ばぬよう、李家が手を下した可能性も皆無ではない。ぞくりと、明麗の肌が粟立った。
「孟殿は自死ですよ。罪を
そのため、濠から引き揚げられた遺体は荒野に晒されることなく、寺院の片隅への埋葬を許された。それを知り、明麗の胸はいくらか軽くなる。
「……博全さまになりたかった」
「え?」
「あの雪の日、明麗が後宮に戻ったあと、孟殿はそう言っていました。その前は、兄たちのかわりになろうとしていたとも。自分を主張する手段だった画と違って、彼の文字に個がみえなかったのは、だからなのかもしれません」
自分以外のだれかになることを望まれ憧れるなかで、己を消す術が身についたのだろう。なまじ画の素養があったために文字や画を写し取ることに長け、そこを宋惺に付け入られた。
明麗は膝の上で両手を握りしめる。
「父がしっかり後ろ盾となっていれば、偽筆なんかに手を染めずにすんだのかしら」
明麗にも、公人としての立場を貫こうとする宜珀の志は理解できる。けれどもう少し、人としての情があってもいいのではないか。そんな薄情な父を慕った志範が、李家のために手を汚したのだとしたらやりきれない。
ふいに、皇后から志範の話を聞いた際に抱いた違和感が、明麗の脳裏によみがえった。
「そうよ。志範兄さまは、わたしを国母にするつもりでいたはずだわ。それなのに呪詛が、
その文官は、まだ皇后が冊立されるまえに暗殺を企てた者のひとりだった。とうの昔に宇仲宣は裁きを受けて刑に処され、志範には連座させる妻子も両親もない。
『呪詛の件はこれでおしまい』
長い黙祷を終えた皇后は明麗にそう告げ、自分に言い聞かせるように肯いていた。
「本当ですよ」
思いのほか強い口調で文徳が肯定する。
「遺書にもそうありましたし、証文もありますから」
「証文?」
「ええ。呪詛の効果が確認できたら孟殿を取り立てるという、宇仲宣と交わした証文が発見されました」
宋惺を介し、出世と引き換えに依頼された志範が、宇仲宣から受け取った念書があるという。
「彼が皇后に鴛鴦図を送った件は、李家とは無関係で、明麗のためでもなかったというわけです」
話を切り上げるように、文徳は卓子に向かう。筆を手にすると、まだ書きかけだった文書の余白に渦巻きを書き始めた。大筆を使っているせいか、線の間隔が前よりもやや不均等に見える。
「本物だった?」
明麗は円を描き続ける穂先を目で追ったまま、文徳に尋ねた。
筆が止まる。紙面にじわりと墨が広がっていく。
「なにが?」
「その証文。宇仲宣の真蹟だったの?」
「当たり前でしょう。複数の鑑定官からの筆蹟鑑定を受けているはずですよ」
文徳は静かに筆を置く。渦の出来に納得がいかないのか吐いた嘆息が、真新しい墨の蹟を撫でた。
「だから君は、いままでどおり陛下にお仕えすればいい」
反故となった紙を丸め、文徳は膝の向きを変える。
「ところで、今日はなにをしに来たんですか。問題は決着しましたし、書の練習ももう必要ないですよね」
不出来な弟子をあしらうかのような文徳の口振りに、明麗は本来の目的を思い出す。床に放置したままの包みをたぐり寄せて姿勢を正し、腰の佩玉を手のひらに乗せた。
「これをお返しすることにしたの。――林文徳
重ねた手を掲げ深々と拝礼すると、表情を隠すように袖が顔の前に垂れる。その隙間から覗き見えた文徳は、細い目の眦をくたりと下げていた。
「せっかくあなたの功績を譲ってもらったのに、ごめんなさい。わたしには分不相応だったわ」
偽書の捜査も、呪詛の件でも、自分にはなにもできなかった。しょせんは与えられた特権にすぎなかった。いまはまだ、この玉を持つ資格がない。
「なにを言っているんですか。君がここへ来なかったら、僕はきっと、偽筆を見なかったことにしていたと思う。それに鴛鴦図の呪詛に気づいたのは、紛れもなく明麗のお手柄でしょう?」
「でもあなたや兄たちの力がなければ、どちらも解決には至らなかったのは事実よ。だから――」
明麗は腕を下ろし、古ぼけた天井を見あげる。数回瞬きをして大きく息を吐き出すと、肩の力がすっと抜けていった。
「いまは後宮で、皇后陛下のお傍で自分にできることを探す。もっと学んで、たくさんのことを身につけて、そしていつか、実力でもう一度手に入れてみせるわ」
静かに決意を告げ、淡い紅色の絹布に包んだ品を差し出した。
「これは?」
「いままでのお礼。楽文さまは甘い物がお好きだときいていたから、皇后さまにお願いして、西国の焼菓子を用意していただいたの」
「……ご下賜品」
何気なく受け取ろうとしていた文徳が、慌てて叩頭した。捧げた手に乗せられた包みを、書籍や文房具に占拠された卓の上に慎重に置く。
「まさか、皇后陛下のお手を煩わせたりは?」
「作り方を尚食に伝えていただいただけよ。よく再現されていると、感心なさっていたわ」
それでも恐れ多いと恐縮する文徳に、明麗は得意げに胸を張る。
「でもね、その牡丹はわたしが刺繍したの!」
「牡丹って、もしかしてこれ?」
上から横から包みを眺めていた文徳が、引き攣れシワが寄る布を指し示す。
「下絵もなく刺したからちょっと形が悪いけれど、過去最高の出来だわ。血も出さなかったし。硯をくるむのにでも使ってちょうだい」
文徳は「血……」と神妙な面持ちで赤と緑の糸の塊でできた牡丹を眺めたあと、包みを顔の前に掲げる。甘い香りでもしたのか、口元を綻ばせた。
「ありがとう。大切に使います」
「中身は食べてね。お師匠さまといっしょに」
「そうします」
これまで文徳が賜った文房四宝や釵に比べたら、はるかにささやかな品だろうに、やけに嬉しそうだ。安上がりなものである。
「今度の件の恩賞はなにになるのでしょうね。昇進かしら。あなたのことだから、また筆や墨をお願いしたの? それとも……」
謀叛に関わる筆蹟鑑定という勅命を見事成し遂げたのだ。それに見合うだけのものが与えられるに違いない。舞姫を所望した武官の話が、明麗の頭の片隅をかすめた。
「ああ、それならもういただきました」
目を閉じてうっとりと頬を紅潮させる。「なにを」と訊ねる明麗の声が裏返った。
「
「ばんり? 杜昇の書ならば、千里一里よね。違う書のこと?」
千里一里といえば、明麗もその存在を李家の家史で知った、書仙の手蹟による書簡のことだ。しかし万里一里などと呼ばれる書は、耳にしたこともない。
文徳はゆるやかに首を振ると、指で宙に文字を書く。勢いよく左に払い、やや右上がりの横画、その中心を通る縦画の収筆は、永久に続くように伸びる。
「あれは、『せん』と書いて『ばん』と読むんです」
――我、
「あの書簡は、千里先にいる許嫁に出したものではない。もっと、遠いところにいる人へ宛てたものだったんです」
「千里より遠くに……」
「そう。宛先はおそらく故人。千里どころか、万里でも足りない場所に逝ってしまった人への文でした」
ひと文字ひと文字を思い出すように、文徳は手を動かし続けた。逢いたい。愛しい。見えない感字が切実な恋情を訴えては、儚く消えていく。
伝記では、杜昇の最期は妻が看とったとある。ゆえに千里一里が、本当はだれに宛てたものか、どのような経緯で揮毫され人手に渡ったのか、真相は不明だ。ただ、そこに綴られたひたむきな想いに偽りはなく、名筆であることにかわりはない。
「それで、その書仙の書を賜ったというの!?」
功を成したといえども、国の宝といっても過言ではない逸品が一介の文官に下賜されるなど前代未聞。興奮を隠さずに、明麗は身を乗り出す。
ところが文徳は、小さく肩をすくめて首を振った。
「丁重にお断りしました」
「どうしてっ!」
価値ある書だけではない。栄誉まで手にする好機を自ら逃したのだ。
「千里一里は、宋紙舗で焼失したと思われていたんです。けれどそれは琥淘利様が書いた偽物で、真作は淘利様のご逝去に前後して、陛下の許に届けられていました」
「後顧の憂いを絶つと遺されて、健尚様を道連れに自死なさったそうね」
明麗は浮いていた腰をおろした。
淡々と取り調べに応じていた淘利は邸に戻されたあと、監視の目を盗んで一人息子の命を奪い、自らも毒を呷ったという。さらには、夫の裏切りによる兄の極刑と愛息の死を教えられた曹旻が、白布を賜るまでもなく獄中で縊死したと聞かされ、明麗の胸の内は鉛を詰めたように重くなるばかりだった。
――健尚が生き残れば、本人にその気がなくとも、第二第三の曹逸が現われないとも限らない。これから産まれるであろう皇子のためにも、我が子を連れて逝く。
淘利の遺言を、身勝手だと切り捨てた皇后の、口惜しげな表情が目裏によみがえる。
「曹逸も、偽筆の専門家だった宋惺も、贋作を見抜けなかったのね」
「それはきっと、淘利様も杜昇と同じお気持ちで書かれたからじゃないかな。淘利様が一時、皇籍から外されていたことは?」
「知っているわ。たしかお父上が先帝陛下のご不興を買い、ともに幽閉同然のお暮らしをされていたとか」
しかしおかげで、戦に駆り出されることも、宮廷の争いに巻き込まれることもなく戦乱の世をやり過ごしたともいえる。父親の死後、淘利が皇族に戻されたのは、曹家の口添えによるものだ。
「不遇の生活を強いられるなかで、将来の伴侶にと想いを寄せてた女人がいらしたそうです。その方が伊恭。沅岳公主として北国の
ずいぶんと琥家の血は薄いが、適当な娘を公主に仕立てあげ、和平の証として他国へ送ることは珍しくもない。だが、嫁いだ先が問題だった。
「晨国とは、先帝陛下の晩年に激しい戦をおこしているわ」
彼の国は、望界帝の命を受けた今帝が率いる葆軍との戦いの末に降伏し、現在は葆の属国となっている。隙あらば豊かな土地を求めて南下を試みるので、葆としても独立を認められないのが状況だ。いまだ国境付近は気を抜けない。
ましてや戦中となれば、敵国からきた公主が辿った末路は容易に想像がつく。
みるみるうちに、明麗の眉間のシワが深まった。
「葆軍が晨の王都に攻め入ったときにはもう、公主は亡くなられたあとでした。それも……」
「なに? 気になるじゃない」
言いさして目を泳がせた文徳に先を促す。
「聞いたらきっと、後悔すると思う」
そう言う文徳本人が後悔しているようだ。丸められた背中は、悪い想像ばかりをかきたてる。それでも、知らないことがあるほうが不快だった。
「わたしはしないわ。後悔なんて」
「なら、教えるけど。嫌な話をしたって、怒らないでくださいね」
しつこく念を押されても、明麗は退かなかった。文徳が渋々といった態で口を割る。
「入城した陛下は、城門の前で犬がなにかに群がっているのをみつけたそうです。ふと顔をあげると、掲げられた晨の旗の先で長い黒髪が揺れていて。慌てて犬を追い払うと、そこには変わり果てた姿の――」
「やめて!」
両手で顔を覆う。大きく開けられたまま閉じることのない口。光の消えた虚ろな瞳。獣の荒い息遣いと濃い血臭。固く閉じた瞼の裏にも、覚えのないはずの残酷な光景が現われる。たまらずに開けた目の前に、心配そうにのぞきこむ文徳の顔があった。
「すみません。やっぱり、女の子に聞かせる話ではなかったですね」
明麗はゆっくりと息を整え、激しく脈を打つ胸を落ち着かせる。
「いいえ。こちらからお願いしたのだもの。女を駒として扱うのは、いつの時代も変わらないわ」
だが、泰平の世に生まれた自分の境遇など、異国の地で非業の最期を遂げなければならなかった沅岳公主と比ぶべくもない。
国や時代に翻弄されて、短い生を終えた公主の無念に想いを馳せる明麗に、文徳は申し訳なさげに追い打ちを掛けた。
「それも、最初から捨て駒だったとしたら? 束の間の休戦状態を作りたいがために、伊恭様を晨に送るよう望界帝に進言したのが曹家だったと知ったら?」
琥淘利があれほどまで曹家に憎悪を抱いていた理由に辿り着いた。愛した人の命が物のように軽く扱われ、その名も人々の記憶から消し去られたのだ。
彼が千里一里にこめた想いには、杜昇にも勝るとも劣らぬものがあったのだろう。
「文が天まで届いて、おふたりが万里のかなたで再会できるといいわね」
「僕もそう思って、千里一里を淘利様と副葬してもらえるようにお願いしました」
「……は?」
感傷にひたっていた明麗は目を剥いた。文徳は事も無げに、国宝を文字通り葬ったという。
「なんてことを! 杜昇よ? 書仙の手蹟なのよ!?」
「でも私信だし。そのうえ奥さん以外の人に宛てた恋文なんて、他人には読まれたくなかったんじゃないのかな」
「それで、陛下はご承知なさったの?」
「たぶん。この国の皇帝陛下って、そういうお方でしょう?」
にっこりと同意を求められては、もうなにも言えなくなる。明麗がため息と肩を落とすと、文徳は口の前で人差し指をたてた。
「でも、秘密にしてくださいね。盗掘されたら困ります」
「言わないわ。こんなこと、だれにも言えないわ」
話したところで、この葆に、貴重な書を地中に埋めた文官がいるなど、信じてもらえるとは思えない。明麗は呆れと諦めをこめた眼差しで文徳を見る。
この、風変わりな文官とこうして会うのも、おそらく今日が最後だ。
おもむろに腰を上げた明麗は、万感の想いで揖礼する。
「数々のご厚意に重ねて感謝します。楽文さまにも、くれぐれもお大事にと」
長裙の裾を翻して戸口を向いた。
「ちょっと待って」
振り返ると、文徳がごそごそと抽斗をあさっている。細長い紙包みを探し当て、明麗に差し出してきた。かすかに胸を躍らせ封を解くと、琥珀のはまる釵が現われた。
「すみません、忘れていました」
「あなたから釵を渡されるのは二回目ね」
「どちらも、自分で購ったものではないけど」
「そういえば、そうだわ」
わずかでもなにかを期待していた自分に呆れる。
明麗は礼を言って、再び文徳に背を向けた。が、またしても袖を引かれて引き留められる。そのうえ今度は、首を巡らせることも禁止された。
「動かないでくださいね」
文徳は真後ろに立ち、孫恵が結い上げた髻になにかを突き刺した。そのまま明麗の正面に回りこむと、腕を組んで首をひねる。
「うーん。やっぱりおかしいかな」
「なにをしたの?」
明麗が違和感のある頭に手をやると、細い棒が髻から飛び出していた。指先で辿った先端に触れて、その正体に思い当たる。
「筆……」
引き抜いたそれは、竹管の質素な小筆だった。よく見れば、軸に白い梅が一輪咲いている。
「ちょっとした強弱でも穂先にちゃんと伝わって書きやすいんですよ、それ。もちろん自分で買ったものなので安心してください。安物だけど、十本まとめ買いしたら店主が一本おまけしてくれて得しました」
眉根を寄せ無言で筆をみつめる明麗に不安を覚えたのか、文徳が早口でまくし立てた。
「そうだ! 新品のほうがよかったかな。たしかまだ……」
明麗は抽斗に伸ばした文徳の手を掴んだ。
「これでかまわない。この筆がいい」
「そう……ですか」
「当世の書聖候補愛用の筆だもの。ありがたく使わせていただくわ」
伏し目がちに小筆を胸に抱いた明麗から顔を逸らした文徳は、照れくさそうに首裏を掻く。
「釵には不向きみたいだけど」
「わからないわよ。これから後宮で流行るかも」
いたずらな笑みを浮かべ、梅の花が正面から見えるように筆を頭にあててみる。冗談めかした言葉にも、文徳は真顔で肯いた。
「そうですね。女官たちがこぞって、李家の姫君のまねするかもしれません」
後宮の流行は、時めく妃嬪や女官につくられるともいう。
明麗はそれを、『新しい流れを創れ』という励ましと受け取ることにした。
「これから、陛下に拝謁するの」
新年最初の望月を祝う宴が終わり、一連の騒動も収束をみせ、ようやく多忙な皇帝に佩玉を返上する場を与えられたのだ。玉がもつ意味の重さを実感した今、受け取ったとき以上に緊張していた。
強ばる顔を向けた明麗に、文徳はくたっと相好を崩す。
「いってらっしゃい」
明麗は一瞬目を瞠り、満面の笑みで応えた。
「いってきます」
表に出ると、どこからとものなく春を言祝ぐ梅の香が漂ってきていた。
◇
昇陽殿の壁にあった鴛鴦図は新たな年を迎えると同時に外され、梅と鶯の軸に替えられていた。そしていまその場所には、赤い牡丹が大輪の花を咲かせている。
胸の前で手を組み合わせた明麗は、呼吸も忘れて寝台を注視していた。
侍医が脈を取っていた皇后の腕がおろされる、ほんのわずかな衣擦れに反応して息を呑む。
「方殿。主上にお使者を」
「それでは……」
颯璉が珍しく声を上擦らせて尋ねる。
丁稔がしっかりと肯き返したことを確認し、明麗は真っ先に寝台へと駆け寄り膝をつく。
「皇后陛下にお祝いを申し上げます」
「ありがとう、明麗。わたくしね、この子は必ずこの世に生まれてくる、不思議とそんな気がするの」
まだ薄い腹を撫でる皇后の瞳は、早くも母性にあふれていた。
雷珠山の頂に残る万年雪と、裾野を彩る鮮やかな新緑の対比が
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