戦禍の燐光《4》

 明麗は一世一代の賭に出た。

 皇宮の門を越えるための佩玉は、いま彼女の手元にはない。だが、どうしても外へ出る必要があった。

 ひと暴れしたせいで乱れた黒髪を撫でつけ、普段は邪魔にしている帔帛をゆったりと羽織る。

 曹逸が謀反を企てていたという報せは瞬く間に皇宮を駆け抜けた。対応に奔走する官吏たちに紛れ、明麗は平静を装い門へと近づいていく。

 通過する者に目を光らせているのは、すっかり顔馴染みとなった門衛だった。腰に帯びた玉を、手に握りしめる門符を、あるいは官服に身を包んだ尊大な顔を、ときには呼び止めて確認し、またある官吏には慇懃な礼で見送る。

 彼らの視線を感じながら、帔帛の端を両腕にかけて垂らし、帯の辺りで手を組んで悠然と歩く。心持ち顎をあげ、真っ直ぐ前を――門の外を見据えて。


「あ、李女官!」


 あと数歩で門を出るというところで、若いほうの門衛から声がかかる。跳ねた胸を悟られないようゆっくりと、くちびるに笑みを貼りつかせた顔を向けた。


「なにか?」


 小首を傾げ、ほんの少しだけ眉を寄せた憂い顔を創る。


「いっ、いえ! あの……滑りやすくなっていますので、どうか足元にはお気をつけて」


 言われ、明麗は行く手を見やった。湿った大粒の雪が石畳の色を変えている。


「ありがとう」


 微笑みを残し、明麗は門を抜けた。

 建物の角をひとつ曲がったところで立ち止まり、大きく息を吐きだす。明麗の細腰の軽さに気づかれず通過できたことに、胸を撫でおろす暇ももったいない。官衙が建ち並ぶ向こうにのぞく木々の茂みを確認する。

 迷いながらだったとはいえ、一度通った道だ。明麗は記憶を頼りに門前とは打って変わって人気ひとけの消えた雪道を進み、古紙の集積場を目指した。

 帔帛に降りた雪が、先を急ぐ明麗の体温で溶けて薄絹を濡らす。それは徐々に上衣の肩や背にも及んだ。

 見覚えのある棟の裏手に回り、水気を含み重くなった彩鞋で木立へと足を踏み入れた。白と茶でまだらな一本道には、大小の足跡や轍が奥へと続く。足元に気を取られていた明麗は、声をかけられるまで前方から人が来ていたことに気づかなかった。


「明麗!?」


 声の主は瞬く間に近づき、ふわりと笠が明麗の頭に乗せられた。


「どうしてここに? また道に迷ったわけではないですよね」

「志範兄さまを訪ねて礼部に寄ったら、反故を捨てに行ったと言われて……。あの牡丹は、兄さまが描いたのでしょう?」


 顔を上向けた勢いで笠が落ちる。それを拾い、再び被らせようとする志範の手から、明麗は身体を引いた。


「佩玉を拾ってくれたのも」


 睫毛に乗った雪がすぐさま雫へと変わる。瞬きをすると、頬を伝い落ちていった。

 孟志範は満足げな笑みを浮かべ、両手で笠を差し出す。


「あれに気がついてくれましたか」

「初めはただの花の画だと思ったわ。でもそれだけではなかった」


 うつくし咲く牡丹から散った花弁や葉を描いた墨線のなかに、明麗は四つの文字を見出した。牡丹は明麗自身。花を見上げる蛙――すなわち志範は『鞠躬尽瘁』の玉を落としたと訴えていたのだ。


「後宮にいるあなたにどのようにして知らせたらよいものか、ずいぶんと悩んだんですよ。宇兄妹のやり取りは、まさに渡りに船で。いつになるかと気を揉んでいましたが、思ったより早く渡せてよかった」

  

 志範はいっこうに受け取ってもらえない笠を、問答無用で明麗に被せた。宇粛の兄は以前この場所で会った少年で、あのあとも幾度となく顔を合わせているうちに親しくなったのだと、顎紐を結ぶ。空いた手で、腰に下げていた巾着から手巾を取り出し、明麗の前で広げた。

 現われた玉に、明麗は恐る恐る手を伸ばす。凍えた手のひらよりもなお冷たい感覚に背筋が伸びる。同じ意匠に同じ文字が刻まれていても、翡翠は個々で色合いが異なる。これは間違いなく、明麗が皇帝から賜った佩玉だ。


「どこでこれを拾ったの? なぜわたしの物だとわかったの? あの店でなにをしていたの?」


 礼を言うのも忘れ、矢継ぎ早に詰問する。目を丸くして聞いていた志範は、柔和な顔をしかめた。


「驚いたのはこちらです。買い物中に騒がしくなって外へ出ると、大切な佩玉を落としたのにも気づかずに走っていく明麗が見えるではありませんか。後宮の女官が西下の街を男とうろつくなんて、公になったらどうするつもりだったんです? 玉だって、もし拾ったのが――」

「そんなの、いまは関係ない。あの紙舗が裏でどんな商いをしていたか、志範兄さまは知っていたの?」


 明麗の危惧するところを知り、「ああ」と志範が眉を曇らせた。佩玉を握る手に、しらず力が入る。


「騒動は、後宮にまで届いていましたか」


 嘆息交じりでそう言う声音が、明麗の不安を一段と煽る。暴走しそうになる気持ちを大きく吸いこんだ息で冷やし、少し顎を上向けて志範を見据えた。


「偽書にかかわってなどいないわよね」


 希望をこめて問う眼差しから、志範はついと目を逸らす。その瞳に差した陰が答えだった。

 明麗は、張りつく喉から声を振り絞る。


「どうして? 困っていたのなら、父にひと言……」

「上への付け届けを融通してくれ、とですか? 言えるわけがない」


 志範は自嘲の笑みを浮かべた。

 採試に合格し官吏となったからといって、必ずしも高官への道が保証されているわけではない。周りも同じように難関をくぐり抜けてきた者ばかりなのだ。ましてや、志範のように寒門の出では、下位の官吏のまま勤めを終えることも珍しくはなかった。

 いかに皇帝が清廉を唱えようと、唯々諾々と続けられてきた慣習は、そう簡単に変えられない。生まれついた家柄、受け継ぐ財力。己の才だけではどうしようもできないこともある。

 その一方で李宜珀は、自らが衣食住を世話した者であろうとも、任官後の彼らに目を掛けることはしなかった。むしろ、距離をおいていると感じるほどだ。志範が朝廷の中枢にいる宜珀の側まで登るためには、多かれ少なかれ悪習に倣わねばならぬという皮肉があった。


「だからって、あんな――呪詛をこめた画を描くなんて。だれがそんな惨いことを、志範兄さまに頼んだの? 幾度も御子を喪われた皇后陛下が、どれだけお苦しみになられたか」


 くちびるを噛み憤りをみせると、志範は驚いたように目を瞠る。富貴図の謎を解き彼の許に辿り着いた明麗が、鴛鴦図に隠された呪詛まで見抜いていたとは考えが及ばなかったのだろうか。思いつめたように間合いを詰められる。


「明麗。私はあなたに……」


 言いさした口が結ばれる。やや遅れて背後から雪を踏む足音がやって来た。先日のように、悪天候の中でも休むことなく働かされている官奴か、はたまた、彼女が佩玉を所持していないと気づいて追いかけてきた衛士だろうか。

 身を固くして振り返り、その正体を確かめた明麗の肩から力が抜ける。しかし次の瞬間、自分と同じように、肩と裾周りを雪で濡らし、軽く息を切らした林文徳がこの場に来た事実に眉根を寄せた。

 ただ一枚の紙切れを握る彼の視線は、明麗を通り越して志範に注がれている。


「ごみ捨てに来たわけではなさそうね」


 白い嘆息とともに吐き出すと、文徳は眉尻を下げた顔で明麗に向き直った。


「だれが鴛鴦の画を描いたのか、判りました」


 強張らせた声色で告げられるが、明麗にとっては予想していた答えだ。

 その薄い反応をみた文徳が、「知っていたんですか」と小さく口を動かしたかと思うと、笠のつばが邪魔になるほど明麗を引き寄せた。


「勝手に判断をしてはいけないって、言いませんでしたっけ? 彼は、皇后を呪うような人なんですよ。君まで害そうとするかもしれないとは思わなかったんですか?」


 志範との間にできた分だけ、文徳との距離が縮まる。

 左の二の腕を掴む力と語気の強さから、心配されているのだと伝わるが、それが明麗には納得いかない。


「志範さまがそんなことするばすない。呪詛だって、お金のためにしかたなく描かされたのよ」

「本当に? あの人が、本当にそう言った?」

「それは……」


 不信感も顕わに訊き返されて口ごもる。明麗の、願望を多分に含んだ臆測だ。志範本人からは、まだなにも真相を聞かされてはいなかった。

 明麗のすがるような瞳を向けられた志範は、警戒を解く様子のない文徳へ薄い笑みを送る。


「出身は永菻?」

「……いいえ。ずうっと西の国境です」

「そのわりには訛りが少ないね。私はずいぶんと苦労しましたが。……家族は?」

「ご両親も弟妹も、戦に巻き込まれて亡くなったそうよ」


 質問を重ねる志範の意図が掴めず困惑する文徳に代わり、明麗が答えた。意外だったのか、志範はわずかに眉をひそめる。沈痛に歪めた顔で「兄さまと同じね」と付け加えると、それに志範は小さく肯いた。


「私には年の離れた兄がふたり。武官になった長兄と中央の官吏を目指す次兄のおかげで、日がな一日、画を描いていられました」

「画の道に進みたかったのですか」

「まさか」


 文徳の問いに苦笑する。


「兄たちと違い武勇も学問の才もなかった私を、父が唯一ほめてくれたのが画だったんです。でもふたりの死によって、そうはしていられなくなった」 


 父親は南方の辺境の小役人だった。戦場で長子を亡くし、文官ならば危険は少なかろうと望みをかけた次子は、あっけなく流行病に倒れた。父母は、残った末子に兄たちの分も期待を背負わせたのだ。有金をはたいてつくった細いを頼りに、宮処の李宰相の許へ志範を送り出した。その直後に郷里は敵襲に遭い、両親を含めた一族は命を落とした。

「当時は珍しくもない話ですけどね」と志範は締め括る。

 明麗を掴んだままでいた、文徳の手がほんの少しだけ緩められた。 


「あの画に隠された文字は、強い害意がこめられた感字でした」


 怒り、恨み、悲しみ。負の感情の濁流となり皇后の気を蝕んだ『流』は、十数年の刻を経てなお癒えなかった、戦乱の爪痕が書かせたものだったのだ。


「だから皇后さまの御子が流れても構わないと? 一時は敵対した異国の血をひく皇子が帝位に就くのは許せないから、大逆に手を貸したというの?」


 朝堂で曹逸が放った暴言が、明麗の脳裏で反響する。

 だが志範は、首を横に振った。幞頭に留まっていた氷の粒が滑り落ちた。


「異国人だろうと、葆の民であろうと。明麗、あなた以外の女人をこの国の皇后と認めることなどできません」

「バカなことを」


 肌を刺すみぞれよりも冷たい声が、志範の主張を一刀両断にする。


「あのお方を皇后に推したのは我が李家だ。そして、唯一の妻だと主上がお認めになられた。そなたひとりがなにを思い申したところで、それは覆されることはない」

「……博全様」

「取り調べの記録に、孟殿の名はありましたか」


 重そうに傘を差す博全が、片手で文徳を制した。険しく寄せられた眉間のシワからは、その結果がうかがえない。

 志範と宋紙舗との関わりは、もう広く知られているのだろうか。明麗の胸中で、正義感と身内にも等しい志範への情とがせめぎあう。


「志範さまはどうなるの」


 呪詛の罪が確定されれば、死罪は免れない。明麗は無意識に、震える自分の右手を文徳のそれに重ねていた。


「知らん。それを決めるのは、私の職掌ではない」


 煩わしげににべもなく言い放つと、博全は文徳を押しやる。肩口をおさえた文徳を一瞥し、明麗が佩玉を握っていた左手を捻り上げた。


「己の務めを果たさず、なぜこのような場所にいる。この四文字の意味を忘れたか。皇后陛下はいま、現世の淵を彷徨っておられるぞ」

「まさか……」

「そう思うなら、真偽は自分で確かめろ」


 衿首から雪の塊を入れられたように、明麗の背筋が冷えていく。濡れる翡翠から志範へと視線を移すと、色の消えたくちびるの両端が緩やかに持ちあげられたようにも見えた。

 それを見留めた瞬間、明麗は博全の手を振りほどいて踵を返す。


「これが明麗の答えであり、私と父、そして李一族の総意だ」


 氷水に晒したように感覚のない足を進める背中に届き、明麗は振り返ることを懸命に堪えた。


「私に、李家に仇なす意図はございません」

「当たり前だ。縁もゆかりもないそなたに、家名を汚される謂れはない」


 取り付く島もない博全の返答は、家を守るためのものだ。明麗にはそれがわかっていても、胸が苦しくなるのを抑えられない。笠を目深に被る。


「父母が望んだ兄たちのようにもなれず、博全様に倣って李家のお役に立つこともかなわず。私の生は、だれのためにあったのでしょう」


 雪の上にこぼれ落ちた呟きから耳を塞いで逃げるように、明麗は後宮に駆け戻った。



 ◇



 上衣には解けた雪が重く染みこみ、下裙の裾を泥はねで著しく汚した明麗は、殿舎への立入りを止められる。


「颯璉さま! 皇后陛下は……百合后さまはご無事なのですかっ!」

「お静かになさい。お休みの妨げとなるではありませんか」


 皇帝の寝所がある丞明殿に運びこまれた皇后の容態は、扉の前に立ちはだかる方颯璉によって、覗うこともできない。


「ご危篤というのは、本当でしょうか」


 胸の前で手を組み瞳を潤ませると、颯璉の眦が吊り上がった。


「縁起でもない。どこの輩がそのようなでまかせを!」

「え……? 通りすがりに耳にした、ような?」


 ここで兄から聞いたなどと告げたら、博全の命が危ぶまれる。そんな迫力があった。

 ふいに扉が開かれ、中から丁稔が出てきた。颯璉の意識が逸れたのを好機とばかりに、丁稔に詰め寄る。


「丁侍医。皇后さまは助かるのですよね? 助けてくださいますよね!?」

「助かるもなにも、眠っておられるだけだ。十分に休まれたら、いずれ目も覚まされよう」


 博全は、夢と現の境を揺蕩うていると言いたかったのか。紛らわしい。明麗は憤慨しながらも胸を撫で下ろす。ところが丁稔の表情は芳しくない。


「方殿。主上にも、休息をおとりいただくよう進言してくださらぬか。あれでは早晩、お身体を壊される」 


 顔中にあるシワをさらに深める。昏々と妻が眠る寝台から離れず、持ちこんだ上奏文を処理する皇帝の顔は、皇后よりも青いという。


「この状況でそれは、私でも難しいかと……」


 眉を寄せた颯璉と同時に嘆息した丁稔は、ふたり分の薬を届けると言い残して帰っていった。


「では、僭越ながらわたしが陛下に申し上げます!」

「お待ちなさい。その姿で御前に上るつもりですか」


 抜け目なく殿内に踏みこもうとした明麗の企みは、ものの見事に阻止される。だが、あらためて確認した自分の格好にもっともだと肯き、「ついてこい」という颯璉のあとに、素直に従った。

 無言で回廊を歩くうちに、身体はどんどん冷えていく。脱いだ笠を抱える両手ばかりか、歯の根も合わなくなってきたころ、ようやく颯璉は足を止めた。


「こちらへ」


 案内されたのは、以前皇后が明麗を皇帝と引き合わせた堂だった。壁がある分だけ冷気はしのげるが、堂内には人気ひとけも火の気もない。不審に思いながらも中に進むと、背後で扉が閉められる。


「颯璉さま?」


 外へ問えば、錠前の閉められる硬い音が返ってきた。慌てて飛び付いた扉は、もう押しても引いても開かない。


「なにをなさいます!?」

「今朝の自分の行いを省みるのです。現状では陛下のご意向がうかがえないゆえ、冷宮送りとしないだけでもありがたいと思いなさい」


 扉越しに届く颯璉の声はあくまでも冷静で、当然ながら冗談でも戯れでもないとわかる。


「これからしばらくの間、皇宮は蜂の巣をつついたような騒ぎに見舞われるでしょう。あなたが口や手を出さずにいられないことは、火を見るよりも明らか。両陛下のご負担を少しでも減らしたいと思う心掛けがわずかでもあるのなら、そこでおとなしくしていることです」


 ただでさえ、周辺諸国から大使の来訪も受ける新年の準備で多忙なところに、偽書屋の摘発から皇帝暗殺計画までの審理が加わる。皇宮の内も外も、上を下への大騒ぎとなるのは間違いない。その余波は後宮にも訪れるだろう。


「そんな! ご迷惑をかけるつもりなど……」


 語尾が弱まる。果たして自分は、孟志範の減刑を請わずにいられるのか。己の子を殺した者を赦せと迫り、いたずらに皇后を苦しめるだけではないか。

 思い至ったのは、そればかりではない。

 遠ざかる人の気配を感じながら、明麗は扉に背を預けて座りこむ。

 志範が百合后の流産を強く望んだ動機は、自分という存在にあった。そしてそれを、彼女に知られたくない、知られてはいけないと考える己がいる。

 ――いったい、どのような顔で皇后にまみえろというのか。

 腰に戻った佩玉を手で探る。自分には、これを受け取る資格も覚悟もないと思い知らされた。

 床下から伝わる寒気が、心身を芯まで凍えさせる。明麗は膝を抱え、濡れて汚れた裙に顔を埋めた。

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