戦禍の燐光《1》

「やはり、竹の針は使っているうちに糸が引っかかってきますね」

「漆を塗ってみたらどうかしら。見栄えもいいし」

「いっそ、銀で作らせてみましょうよ!」

「それでは、市井にも広めたいという皇后陛下のご意向に添えませんわ」


 夕餉がすみ、消灯までのひととき。後宮にある宮女たちの寝所は賑やかだった。

 孫恵が、ふわふわとした毛糸の塊を両手の上で転がす。


「針もだけど、糸の調達の目処はつきそうなのでしょうか?」


 ささくれた手製の竹針を矯めつ眇めつ観察していた沈桃嘉が、「それが」と眉尻を下げた。一同は手を休め、話に耳を傾ける。


「家に文を出してみたのですが、羊の毛ならどれでもいいというわけではないそうなのです」


 商家を営む桃嘉の実家からの返信によると、葆に多くいる羊の毛は硬く、衣類とするには適さないそうだ。皇后が祖国から持参した毛糸のような質にするのは難しいだろう、とあった。

 すっかり乗り気でいる皇后のことを思い、目に見えて皆が落胆する。非難じみた視線を送る宮女までいた。


「ですがっ! 至急、西国から取り寄せてもらっておりますし、試しに紡ぐ葆産の羊毛も頼んであります。なにか良い手立てがみつかるかもしれません」


 桃嘉が編み針をへし折りそうな勢いで強く握って力説し、孫恵もそれに同調する。


「急ぐ話ではないもの。皇后さまとごいっしょに、あれこれと試行錯誤していくのもよろしいではありませんか。ねえ、明麗もそう思うでしょう? ……明麗?」

「え? ええ、そうね」


 重ねて呼ばれ、明麗はようやく顔をあげた。気づけば手元では草色の毛糸が絡まり、どうしようもない状態だ。

 それを取り上げて、丁寧に解きはじめた孫恵は、心ここにあらずな明麗の様子に眉をひそめた。


「劉将軍のお邸に行ってから、なんだかおかしいわ。……そんなに恐ろしい目に遭ったの?」

「違うのよ。ちょっと……ね」


 最後は声を潜めて耳打ちをしてきた孫恵に、明麗は曖昧な笑みを返す。

 浮かない面持ちの明麗に気づいた別の娘が、思い出したように声をあげた。


「劉将軍といえば! 街で大々的な捕物があったそうですわね」

「私も内侍省へお遣いに行ったとき、小耳に挟みました。なんでも、偽書屋が捕らえられたとか」


 話題はあっという間に、毛糸から皇宮内にまで侵食していた偽筆問題へと移る。伝え聞いたものや憶測などが飛び交い、信憑性は当てにできないが、彼女たちにとってそこは重要ではないのだ。


「明麗さまは、博全さまから詳しいお話を聞いていらっしゃいませんの?」


 一斉に輝かせた瞳を向けられ、明麗は困り顔で小首を傾げる。捜査の手が入ったという偽書屋は、十中八九、宗紙舗だ。顛末を知りたがっているのは、ここにいるだれよりも彼女自身であった。


「ごめんなさい、なにも。まだお調べの最中のようだし、詳細はこれからなのではないかしら」


 事実と嘘をないまぜにした答えは、場の熱気を急速に冷ましてしまった。それぞれが、我に返ったように止めていた手を動かしはじめる。

 ここにいるのは、皇后から西方の編み物の技術を学び、徐々にそれを広めようと集められた、手先の器用な者や紡績に明るい者たちだ。明麗も発起人のひとりとして参加しているが、いまのところ貴重な毛糸を無駄にすることしかできていない。


「少し外に出てくるわ」


 目頭を揉んでおもむろに立ちあがり、扉を開けた。


 年末も押し迫った永菻では、うっすらと積雪がみられる日もある。冷たい風が刺す剥き出しの頬や耳を、思わず明麗は両手で覆った。こらえられずに吐き出した白いため息が、夜闇に溶けて混ざっていく。自分も同じように夜陰にまぎれ、後宮を……皇城を囲む塀を越えていけたらなどと、詮もないことを考えてしまうのは、やたらと軽く感じる腰回りのせいだ。

 失くしたものの重さがのしかかり、明麗はくちびるを噛みしめ裙を握る。


 天河に乗せられて劉邸に戻った明麗が、あらためた衣の帯に翡翠の佩玉がさがっていないと気づいたのは、刻限間際に大門をくぐったあとだ。当然、探しに引き返すことなどできなかった。

 あれから幾度も一日の行動を思い返してみたものの、玉に関する記憶は西下で立ち寄った薬屋で途絶えてしまう。

 孫恵に急き立てられながら着替えた際、劉邸に忘れてきたのだろうか。しかし、それならば届けられるはずだが、いまだなんの音沙汰もない。となると、街中で落とした可能性が濃厚だ。

 事が公になり、それみたことかと父兄に罵られるだけならいい。ややもすれば、特例を行使した皇帝の裁量を問われることにもなりかねないのだ。

 さらには、皇宮への出入を許された官吏の証を、拾った何者かに悪用された場合を考えると、生きた心地がしない。早急に届け出ることが肝要と重々承知しているが、どうしても明麗にはそれができずにいた。

 

 まだ十分な太さのある月が照らす庭で何度めかのため息をついた明麗の視界の端を、人影がかすめる。月明かりに浮かんだ、不自然な動きが気にかかり、明麗はあとを追った。


「こんなところでなにをしているの?」


 灯籠の足もとに腰をおろしていた少女が肩を跳ね上げる。拍子に彼女が手にしていた紙は、折り目からもろくも破れてしまった。


「もっ、申し訳ございません!」


 呷頭した少女が放り出した紙片が、地面に散らばる。火の中から取りだしたのか、焦げ目から四片に分かれたそれを拾うため、明麗も膝をついた。


「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら。――こんなところでなにを読んでいたの?」


 ちらりと盗み見た文字は、筆でではなく炭のような物で書かれており、幼さは残るがしっかりしたものだった。おそらくは男の手蹟。


「まさか、恋ぶ――」

「兄からです!」


 全力で否定してあげられた顔に見覚えがある。


「あなた、あのときの……」


 大量の洗濯物を抱えていた娘だ。相手も気づいたらしく、再び額が地につくほど頭を垂れた。


「すみません! 李宰相のご息女とは存ぜず、先日は失礼を……」

「あなたはなにもしていないじゃない。むしろ、仕事の邪魔をしたのはわたしのほうよ」


 砂埃のついた手に紙片を返すと、少女は消え入りそうな声で礼を言う。膝の上に並べて確かめた文は、文章のあちこちが失われていた。


「どうしてそんなことに?」


 眉をひそめた明麗の疑問に、少女は焦げ跡の端を爪で引っ掻き、微苦笑を浮かべた。


「私どものような婢女はしためのほとんどには、家からの便りなど届きませんから」


 宮城内で働く奴婢の多くは、各地から税の代わりに納められ者たちだ。貧しい農村部の民では、書簡の代筆を頼み、宮処まで送ることさえままならない。おそらくは、繰り返し大切に家族からの文を読んでいた少女を妬んだ者の仕業だろう。


「あなたは読み書きができるのね?」

「……私の父は工部の官吏でした」


 目を伏せくちびるを結ぶ少女に、ここにいる理由を問うのは酷だ。娯楽もなく辛い労働の憂さ晴らしとばかりに、目の敵にされるのは想像に難くない。

 明麗は立ち上がり、ことさら勢いよく裙の膝の汚れを払う。


「来て」


 腕をとって立ちあがらせると、戸惑う少女を連れ自房へ戻った。



 まだ孫恵が戻っていない房は種火がひとつ灯るだけ。明麗は戸口で入室を拒む少女を押し込んだ。蝋燭に火を移そうとする危うげな手つきをみかねた少女が、代わりを買ってでる。


「ここに座って」


 不自由ない灯りに照らされた座卓に着くように促すと、明麗は腰の落ち着かない彼女の前に紙を広げた。


「お兄さまに文を書きなさい。届けてあげる」

「ですが……」

「怪我をさせたお詫びがしたいの。それにもうすぐ新年よ。あちらもきっと便りを待っていると思うわ」


 さあ、と勧めるが、少女はいっこうに筆を執る気配がない。次第に苛立ちが募り、つい語調を強めてしまう。


「字が書けないわけではないのでしょう?」


 ますます身を縮めた少女は、卓上にある紙に眩しげな目を向けた。波紋様の透かしが入った花箋紙は、李家から送られきたものだ。繊細な細筆を用いた草書が映えそうな上等品である。

 尻込みする彼女の対面に坐し、明麗はいささか乱暴に筆を掴んだ。押しつけるように筆先を紙の隅に置き、居丈高に訊ねる。


「あなた、名前は?」


 その間にも墨はじわじわと広がっていく。


「え? あ、はい。しゅくと申します」

つつしむ、ね」


 粛正の『粛』、厳粛の粛。いまの明麗には耳の痛い文字だ。眉間にシワを刻みながら筆を動かした。丸く滲んだ墨の蹟は、そのまま一画目となる。しかめ面で書きあげた文字は本来の意味からずいぶんと外れ、やさぐれたものになった。

 それを、たっぷりと墨を含ませた筆先で塗りつぶす。宇粛の口から小さな悲鳴が聞えた。


「失敗。この紙はもう使えないわ」


 ほんの片隅の一ヶ所だけが黒い紙を、破り捨てようと手をかける。明麗が指先に力を入れると、中心の上部に裂け目が入った。そのまま右左の手を前後、逆の方向へ動かせば、一枚の紙は真っ二つだ。そこで明麗は、ちらりと目線を宇肅に送ってみせた。


「お、お願いいたします! ご不要ならば、その紙を私にくださいませ」


 言わされたのだと、宇粛も気づいているのだろう。明麗も芝居がかった仕草でくちびるの両端をもちあげた。


「そうね、もらってくれると助かるわ。古紙に出すのも面倒だもの。また紙に生まれ変わろうが、文となってだれかの手に渡ろうが、たいした違いはないし」


 わずかにできた破れ目を指で整え、卓上に戻す。

 宇粛は深々と頭を下げ礼を言ってから小筆を執り、硯の縁で乱れた穂先を調える。背筋を伸ばして向き合った紙の上で、垂直に立てた筆先がかすかに震えていた。


「……あの」


 ため息を吐きいったん筆を引いた宇粛が、彼女の手元を眺めていた明麗を遠慮がちに上目で見つめる。


「なあに? 字がわからないの?」

「いえ、その……。筆を持つのは数年ぶりですし、下手なので恥ずかしくて」

「でも、後宮の外へ出す書簡は、どのみち検閲があるのよ?」


 抜け道はあると聞くが、その手を使うつもりはない。


「それは、そうなのですが」


 耳まで赤くして肩をすぼめられ、他人が見守る中で私信をしたためる気まずさにようやく思い至った。

 席を移動した明麗は、打ちかけの碁盤の前に座り、取り寄せた棋譜を頼りに碁石を並べる。独り寂しく、黒と白の石で盤面を埋めるのに飽きて宇粛をうかがうと、ときおり手を止め筆の尻で顎を突き言葉を選びながら、兄への文を綴っている様子が見てとれた。


「よろしくお願いします」


 宇粛は繰り返し頭を下げたのち、夜の闇の中を帰って行った。

 明麗の手には、拙いながらも兄への思慕が精一杯にこめられた書状が残る。さぞや遠方にいるのだろうと居場所を訊ねれば、この皇城で使役させられているという。厚く高い壁と通ることの叶わぬ門が、兄妹を遠く隔てていた。

 消灯まであとわずか。明麗は卓に新たな紙を用意し、静かに墨を磨りはじめた。

 


 数日後。皇后は丞明殿から、日が高くなるころに戻ってきた。硯の海を満たした墨の、底がみえない深い黒に心を沈めていた明麗は、主の命を訊き返してしまい、方颯璉から凍えるような視線を向けられる。


「皇后陛下、やはり私は反対いたします。このような有り様では、取り返しのつかぬ粗相をしでかしかねません」


 明麗の注意力散漫を懸念し、颯璉が異を唱える。皇后は苦笑だけを返して、再度命じた。


「いいわね。明日の朝議には、明麗もわたくしとともに出席なさい」


 どこか心細げな声音で告げた皇后の瞳に、睫毛の影がおりる。ここしばらくの間に健康的な血色を取り戻しつつあった顔色が、今日はややくすんで見えた。


「それは願ってもいないことですが。明日は特に節日でもありませんのに、ですか」


 文武の高官が集い、皇帝のもとでこの国の政を議論する場に立ち会える日を、幾度夢にみたことかわからない。たとえ皇后の背後から垣間見るだけだとしても、十分に胸が躍る。

 しかし、肘掛けにもたれる皇后の体調が気にかかった。これまで滅多なことでは表に顔を出していない皇后が、無理をおしてでも臨席すべき、重要な事柄がとりあげられるのだろうか。


「いやなら、無理にとは――」

「そうではありません! ただ、お疲れのようにお見受けしたので」


 不安を口にすれば、皇后が目を細めて儚い笑いをもらす。


「心配なのは、あなたのほうだわ。なにか悩みを抱えているのではなくて?」

「……そのようなことは」

「わたくしでは頼りにならない?」


 正面から翠の瞳に見据えられ、明麗は言葉を詰まらせる。

 宇肅の文は、正規の手続きをとり内侍省に託した。だが、何回も書き直した博全への書簡は出せずじまいで、いまだ手元にある。これほど情けない性根だとは、明麗自身も思っていなかった。


「もったいお心遣い、感謝いたします。ですが、いまはまだ、わたしの問題なのです。どうかもう少しの間、お見守りくださいませ」

「万が一にも、陛下にご迷惑をかけるようなことあれぱ、そのときは覚悟なさい」


 険しい顔を崩さずにいる颯璉に、明麗はしかと肯く。


「もちろんです。すべての責はわたし独りが負わねばならぬと心得ております」


 いつまでも、珮玉の紛失をごまかし続けられるわけがない。ごまかしてよいものではない。

 覚悟を決めなければいけなかった。


 皆を欺いている時点で、すでに不当なのだ。己は手段を選べる立場ではない。辞去した足で自房に向かう。

 途中、あどけなさの残る顔を紅潮させた宇肅に呼び止められた。周囲の目を気にしながら、木立の陰まで誘導されるという念の入りようだ。

 まずは文の礼を、明麗が呆れて止めるまで述べられる。


「本当にありがとうございました。私にはなにもお返しできることがなくて、申し訳ありません」

「そんなものは期待していないわ」


 それは本心だったが、ふと思いつく。


「でも、そうね。もし、あなたの周りで文字を覚えたいという人がいたら、教えてあげて。ただし、仕事を終わらせてからよ」

「私のような者に務まるでしょうか」


 宇肅の年齢を考えれば、学べた期間はここへ来るまでの数年にすぎないだろう。先日の手蹟をみても、良家の女子としての基本がかろうじて身についている程度だ。それでも、知ると知らぬでは大きく違う。


「数字や身近なものの名前を読み書きできるだけでも、ずっと世の中が広がるわ。宇粛はお兄さまに文を出すことができるのよ。自分の想いを文字にこめられるの。それってすばらしいことじゃない」


 見開かれた宇粛の瞳に、不安の中にも己の存在意義を見出しかけている光を見留め、明麗はその場を去ろうとした。


「待ってください! お引き留めしたのは……」


 宇粛は慎重に懐から紙を取り出し、数枚が重なる中から一枚を引き抜く。


「兄から返事がきたのです」

「もう?」


 いくら目と鼻の先にいるとはいえ、想像以上の早さだ。


「私の文で、明麗さまからいただいたご恩を知らせたのです。そうしたら、これがいっしょに届けられて」

「あなた宛の文を、わたしが読んでもいいのかしら」


 ぜひにと首を縦にふられ、訝しみながらも、明麗は受け取ったふたつ折りの紙を広げた。

 そこに墨で書かれていたのは、文字ではない。


「牡丹だわ」


 ほのかな甘い香りが立ちのぼりそうなほど瑞々しい、一輪の牡丹が描かれている。まだ咲き初めらしく、重なる花びらが花芯を隠している様が初々しくもある。それなのになぜか、根本には幾枚もの葉や花びらが散り落ちていた。


「とても美しくて気品のある、牡丹の花のようなお方だと伝えたので、きっと明麗さまへ渡してほしいということなのでしょう。兄にこんな画は描けません。だれかに頼んだのだと思います」

「こんなに見事な牡丹の墨画は初めてよ」


 本物に勝るとも劣らず鮮やかな花に吐息をもらした明麗は、ふと指をずらす。するとそこに、小さなカエルが現われた。地に積もる葉や花びらの上から、もの言いたげな目が牡丹を見上げる。


「ご迷惑でしたでしょうか。誓って、兄に下心など……」


 不意に明麗が顔色を変えたので、両手を胸の前で握り必死に弁解しようとする宇粛を制し、明麗は牡丹の画から視線をあげた。


「わかっているわ。お兄さまになにかお礼をしなければいけないわね」

「お礼などとんでもない! お互いの息災を確認できただけで十分です。安心して新しい年を迎えることができます。ありがとうございました!」


 宇粛は勢いよく頭を下げて、逃げるように仕事に戻っていく。

 再び明麗が目を落とした紙の余白に、乾いていない水滴のあとができていた。


「雨?」


 鈍色の空から落ちてきていたのは、綿ぼこりのような雪だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る