陰謀の発露《3》

「子来は大丈夫でしょうか」

「さて? オレたちは、人のもつ生きる力を信じるしかあるまい。それに命拾いできたとしても、あの娘には助けたことを恨まれるかもしれんしな」


 思案げに剛燕がひげをしごくと、焼かれた毛が千切れてはらはらと落ちる。


「なぜです?」

「ただでさえ耳が聞こえぬ不自由があるうえ、あの顔は痕が残る。女子の身では、さぞ生きづらくなるだろうよ」

 

 一命を取り留めたとしても、この先も子来は、己の力だけで生きていかければならないのだ。あかの他人である自分が彼女のためにしてやれることなどない。

 それでも文徳は、子来に助かってほしい、生きてほしいと願う。


「きっとあのは、劉将軍と義侑に「ありがとう」ってと思いますよ」

 

 ふたりの背後で、耐えきれなくなった建物が音を立てて崩れた。中身を燃え尽くした火は、ようやく鎮火に向かう。


「陛下の偽書を作らせていたかもしれない証拠が焼けてしまいました」

「ほかにもみつかるだろう。火が収まったら、ゆっくり探せばいい。火災は予想外だったが、それにしても呆気ない」


 剛燕は大捕物が収束した後園を見渡す。紙舖で雇われていたのは、ならず者ばかりの烏合の衆だったらしい。曲がりなりにも公を名乗り、数でも圧倒した警吏に、たいした抵抗もできずに捕縛されていた。


「あれ? でも、ひとり武官みたいな人がいましたけど」


 言葉遣いといい所作といい、義侑を追いかけていた衆とは、あきらかに雰囲気が異なっていた。あのような者ばかりだったら、もう少し手こずっていたのではないだろうか。

 それを教えると、剛燕は不審な顔をする。


「オレは表から入ったが、そのような奴はみかけなかったな」


 店にいた者たちも身柄を拘束されているはずだ。調べてみよう、と焦げ臭い匂いが漂うその場を離れた。


「火事だ! また燃えているぞ!」


 監禁棟とはまったく別方向からの出火の知らせが耳に入り、ふたりは駆け出す。だが、すぐに足が止まってしまった。そこかしこから、煙が立ちのぼっていたのだ。


「飛び火か」


 店舗や蔵からも、つぎつぎと火の手が上がる。人力ではまさに焼け石に水。塀の外への延焼を食い止めるだけで精一杯だ。


「無理はするな! 危険だと感じたらすぐに逃げろ。こんなところで焼け死ぬことはない」


 剛燕が消火にあたる者たちに声をかけながら、状況を確認して廻る。

 これ以上、物的証拠を失うわけにはいかない。文徳は、宋惺が出てきた蔵へと急いだ。

 ところが、目の前に突きつけられた状況は厳しかった。


「やっぱり、ここも」


 蔵の屋根や壁の僅かな隙間から漏れ出す煙を見て、ふと文徳は訝しむ。もらい火にしては、火の広がり方が少し奇妙に思えた。


「退けっ!」


 鍵のかかる扉の前でなすすべもなく立ち尽くしていた文徳は、突然体当たりをされ倒れこんだ。見上げれば、宋惺が手首をまとめて縛りあげられた両手を使い、堅く閉じた扉を相手に奮闘している。しかし、素手で解錠するのはとうてい不可能だ。


「燃えてしまう。早く出さなければ、書画が……しょうの書が、燃えてしまう」


 錠前をガタガタと鳴らし、うわ言のように発した姓名に、文徳は目を見開いた。跳ね起きて宋惺の腕を掴む。


「杜昇って、あの杜昇ですか!?」

「ほかにどの杜昇がいる! おぬしも書を嗜むならば、どれほど貴重か知らぬわけではないだろう。その手を離せ。離さんか!」


 邪魔をされた宋惺が苛立たしげに答えて、文徳の手を振り解く。

 文徳が知る杜昇といえば、四書仙のひとり。皇城の東大門に掲げられた扁額を揮毫した伝説の書家である。


「だって、そんな……。本物の杜昇の書がこんな場所にあるはずない!」

からお預かりしたのだ。偽物であってたまるか! ああ、『千里一里』だけでもいい。頼む……焼かないでくれ」


 宋惺が扉にすがりつくが、鉄扉が猛火の熱気を伝えるだけ。葆の建国に尽力した人物の名筆の無事は、絶望的だった。


「そいつを捕まえろ!」


 長衣の裾を乱して走ってきた博全が叫ぶ。荒い息の割には進みが遅い。


「博全さま! この蔵の鍵をお持ちではありませんか?」


 扉から離れそうもない宋惺はそのままに、一縷の望みをかけて、文徳は博全のもとへと駆け寄った。 


「鍵? 私は持っていないが」


 火のついた蔵にいまさら何用かと問いたげに、衿を正しながら眉根を寄せる。


「あそこにを置いていたようなんです。卜海だけじゃなく、杜昇の書もあると言っています」


 唐突に出された伝説の書家の名に、博全が目を瞠った。


「杜昇だと!? バカな……。そんなものをどうして彼奴あやつが持っている?」

「それが、だれかからの預かりもの――」

「おい! 杜昇の書をどのようにして手に入れた。だれから受け取ったのだ」


 顔色を変え詰め寄ろうとした博全の目の前で、宋惺がくずおれた。その背には深々と矢が刺さり、周囲が紅く染まり出す。


「え?」


 放たれたと思われる方向を振り返った瞬間、矢は文徳へも飛んできて、右肩をかすめる。痛みよりも火がついたような熱を感じてうずくまったところへ、再び射掛けられた。が、その矢は白刃によって叩き落とされる。


「そこかっ!」


 続く矢に警戒して剣を構える剛燕の怒号に、土塀の上で人影が動いた。同時に剛燕が駆ける。消火作業中の警吏の背中を踏み台にして、あっという間に塀を乗り越えていった。


「だれなんだ! 名を答えろ!」


 博全は力なく横たわる宋惺の胸ぐらを掴みあげて問い質すが、矢は胸まで貫通しており、すでに事切れている。舌打ちして手を放すと、負傷した文徳を見て顔をしかめた。


「新しいのなんて返せません」

「その必要はない」


 遠慮する文徳を無視して博全が傷口を縛った絹の手巾には、すぐに血が滲んでくる。


「右、か」

「たいしたことありませんよ。ほら、ちゃんと動きますし」


 右手を閉じたり開いたりしてみせた。多少傷に響くが、毒など塗られていなかったことは、不幸中の幸いだった。


「それより、ここもそろそろ危ないですね」


 蔵の屋根からも明かり取りの窓からも炎が覗き、倒壊は免れそうもない。蔵の中身も消火も断念し、離れたほうがいいとの結論を出す。

 文徳はできるだけ矢傷に障らぬよう、骸となった宋惺を背負った。上背はないが、目方は文徳よりもかなり多い。一歩足を出すごとに、痛みと重みでよろけてしまう。


「それも連れていくのか」

「このまま黒焦げになるのは、さすがに可哀想ですから」

「……貸せ! そなたに任せていたら、こちらまで丸焼けになる」


 苦々しげにぼやきながらも、博全が遺体を引き受けた。

 火の回っていない場所の塀を壊して設けた脱出口へ向かう。途中で、博全を捜しにきた李家の従僕が、宋惺を押しつけられていた。



「証拠だけじゃなく、証人まで亡くなっちゃいました」


 火消しに奔走する者。延焼を恐れ、ありったけの家財を抱えて逃げ惑う一家。他人事と冷やかす、薄ら笑いの見物人。ごった返す塀の外からは、無数に昇る煙が確認できた。これでは、回収できる証拠の品がどのくらい焼け残るかも不明だ。


「宋惺の言がまことで、杜昇の真蹟までもが消失したとなれば、この国にとっては大損害だ」

「そうですねえ。焼けちゃう前に、ひと目でも見てみたかったです」


 混乱から少し距離をおいた場所で、とりあえずの手当を受けた右腕をさする。

 杜昇だけではない、卜海の真筆もそのほかの書も、すべてが灰と化してしまったとしたら、その価値は計り知れない。

 あまりの非現実感に、文徳は呆然と煙で霞む空を見上げた。


「ダメだ、逃げられた。引き続き捜させてはいるが、あの騒ぎでは難しいな」


 悔しさを滲ませ、剛燕が戻ってくる。彼もまた、文徳の怪我の具合を気にした。


「かすっただけです。また命を助けていただいてしまいましたね。ありがとうございました」

「間に合って良かった。宋惺は殺られたようだな。調べが進まないと断言できんが、初めの出火以外はおそらく付け火だろう」


 剛燕の報告は、文徳が感じた引っかかりを裏付ける。無関係な人々の命を巻き込む危険性を厭わず、何者かが火を放ち、証拠隠滅を謀ったのだ。

 もしあの場に剛燕が現われなかったらと思うと、あらためて文徳の背筋に悪寒が走る。宋惺は『あの方』に口封じされたと考えるのが妥当だろう。言い方からして、相手の身分の高さが伺えた。なにか、その人物に繋がる情報はなかったかと記憶を辿るが、人名らしき言葉はみつからない。


「だいたい、なぜ捕らえられたはずの宋惺があんな所にいたんだ。博全たちが見張っていたのではなかったのか?」


 金で傭われただけの破落戸らが、どこまで事情に通じているのかは疑わしい。重要参考人を死なせてしまった責任を問われ、博全は不機嫌に鼻を鳴らした。


「店内で火災が起きたとの知らせがあり外へ出したら、突然狂ったように叫んで、あろうことか私を突き飛ばし、走って行ってしまったのだ。勝手にも保護下から逃げたのだから、彼奴が死んだのは自業自得ともいえる」

「あんな年寄りひとり、抑えられなかったとは情けない。だから日頃から、もっと体術なり剣術なりで鍛えろと言っていたではないか」

「思いつめた者の捨身の力は、剛燕のほうがよく知っているだろう」


 同じく吹き飛ばされた文徳も、その凄まじさを身をもって知った。


「よっぽど書画が心配だったのでしょうね」


 もし鍵が外れていたら、火の海にも飛び込んで行きかねない形相だった。無我夢中で扉を開けようとしていた宋惺の姿は、文徳の脳裏にまだ鮮明に残っている。彼にとっては、命に替えても守りたい書画があったのだ。


「……千里一里。そうだ! 千里一里だけでも助けたいって言っていました。杜昇の書の詩題でしょうか」

「千里一里。たしかにそう言ったのか?」


 文徳が肯くと、博全は瞑目して長嘆息をもらした。

 現在確認がとれている四書仙の肉筆は、書き付けの紙片に至るまで皇家の管理下に置かれ、その大多数は皇宮内で厳重に保管されている。滅多なことでは表に出てこないため、数や形態、内容などでさえ、市井では霧に包まれた存在だった。

 この国の民の大半が、大門の扁額で書仙の手蹟を知るのみなのである。

 だが、建国以前から琥家の傍らにある李家は、その限りではなかった。


「当家の家史を紐解いた際、目にした覚えがある。杜昇が、遠地から郷里にいる婚約者を想い送った書簡が発見された、と」


 ――たとえ千里離れていようとも、自分の気持ちは君と一里の距離もないところにある。


 一途で熱い恋情を、気品あふれる流麗な感字で綴ったふみは、時の皇帝の感涙を誘ったという。のちにその書簡は『千里一里』と銘され、納屋の奥から見つけだして献上した農民は、異例にも官位を賜った、と記載されていた。


「でも、一里ってけっこうありますよね」

「書いた恋文が、死んだあとになって世間に曝されるとは。字が巧いのも考えものだな」


 気の毒そうに言う剛燕に、文徳も全力で同意する。


「日記とかも! 僕だったら、ちょっと遠慮したいです。……他の人のは観たいけど」


 ずれていく話を、こほんと博全が咳払いで制止させた。


「いまは、杜昇の文才や人権侵害を問う場ではない。『千里一里』の入手先だ」

「皇宮から盗み出したか」


 偽筆のための文書をかすめたように、共犯者に官吏がいるとすれば、保管場所へ忍び込み持ち出したとも考えられる。しかしその可能性は低いと、博全は推察した。

 荒ぶる龍をも封じたと伝わる四書仙の書蹟は、国宝同然。閲覧や貸与のみならず、保管庫のある殿舎への立ち入りにまで勅旨が必要となる。管理者への規制も厳しく、万が一紛失した事実があれば、とうに大騒ぎとなっているはずだった。

 李家史にあったように、『千里一里』の存在は皇家に把握されているため、新たに発見されたというものでもない。

 それらを踏まえると、考えられることは少なかった。


「ごくわずかだが、書仙の筆は皇宮の外にも存在する。君恩により徴集を免ぜられた所有者だったり、稀に下賜されることもあったらしい。各作品の行方は、逐一に記録が残っているはずだ」

「じゃあそれを追えば、いまの持ち主に辿り着けますね!」

「これだけ大事になってしまっては、陛下にご助力を仰がねばならんな」


 失ったものも多いが、憂いのない新年を迎えるための手がかりは掴めた。

 剛燕のもとへ、警吏が鎮火の報を携え走り寄る。

 細い白煙がたなびく空は、薄暮の色に染まっていた。

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