戦禍の燐光《2》

 官服で身を包んだ文官武官が整然と並ぶ朝堂にて、ひとりの男が引き出された。高位を示す紫の袍に、さざなみのようなざわめきが広がる。


「いま、御史が報告した内容に相違ないか。異論があるならこの場で申すがよい」


 玉座から発せられる声色は、あくまでも淡々としたものだったが、場を静まらせるには十分だった。しかし男は「恐れながら」と不遜に声をあげる。


「その、偽筆を用いて市井のみならず、官までも欺いていたという宗なにがしとか申す紙屋と、私めが繋がっていたという証拠は何処に? 聞けば、件の店は火を出し焼失、店主も死んでしまったというではありませぬか」


 悪びれた様子もなく、奏上した御史を睨め付けた。


「宋惺の供をして幾度も曹逸殿の邸宅を訪れたと、捕らえた者の複数が証言しているそうです」


 臆することなく声を張った年若い御史を、曹逸は鼻で笑う。


「おおかた、偽の書画でも売りつけに来たのであろう。あいにく、そのような輩にいちいち対応してはいられぬ。家人が追い返したはずだ」

「では、冱州へ向かう文官を襲わせたというのは、貴殿ではないのですか」

「田舎官吏の替玉に改ざんをさせ小銭を稼いだという話なら、見当違いも甚だしい」

「なれど尋問では……!」


 狭き門である採試の合否発表後の宮処には、一族や集落の期待を一身に背負いながらも夢破れ、帰るに帰れなくなり街を彷徨う者が現われる。宋惺はそこに目を付けたのだ。偽筆の技術を身につけさせた彼らに偽書を作らせ、文盲の民を陥れる片棒を担がせた。また、眼識を持たぬ貴族や富豪に贋作の書画を売り、暴利をむさぼっていたという。

 一方、苑輝の母、曹皇后の外戚として権力をほしいままにしていた曹家は、先帝亡きあと、没落の一途を辿った。苑輝の即位後間もなく、政の中心から外された曹逸は、朝廷に返り咲くため、宋惺がもつ人材を利用することを思いついたのだろう。手始めに、彼が育てた駒と僻地にある州府の官吏の入れ替えを持ちかけた。

 ほぼ全焼した紙舖からは、出入りのあった官吏や、偽書の請負先などを記した資料は持ち出せていない。代わりに焼け跡で、主に宋惺の手足となり働いていた使用人らしき遺骸が発見されている。

 決定的な証拠が挙げられない中でも、慎重に聴き取りを重ねた結果浮上した名が曹逸なのだ。

 これらの調べ上げたことをもとに問い詰めようとする御史を無視して、曹逸は皇帝に向かい拱手する。


「しょせんは世の中から弾き出された者たちの讒言にすぎません。それなる輩と、恐れ多くも陛下と縁をもち、代々皇家にお仕えする曹一族の当主たる私の言、どちらをご信用なされる」


 現時点で曹逸の関与を疑わせるものは、紙舗で捕らえられた者たちから得られた供述のみ。高官が集うこの場で糾弾する種としては、いささか弱い。奥歯を噛みしめる音がしそうなほどに、御史が顔を歪めた。


「そんなもの、直接身体に訊いたほうに決まっているだろう」

「劉将軍!」


 曹逸が眉を吊り上げるが、大きな独り言を放った剛燕はどこ吹く風だ。片側の口角をあげ、組んだ両手の指を鳴らす。


「なんでしたら、曹逸殿も場所を変えてお話の続きを伺いましょうか」


 殿内にいる官吏の多くが、黴と血の臭いに満ちた薄暗い牢房を思い浮かべて身をすくめる。曹逸も眉をひそめるが、一瞬怯んだように引いた顎をすぐに上向けた。


「左様に粗暴な方法により得た自供など、ますますもって信用に値せぬわ。件の火災とて、そなたや李次官が強引に押し入ったからではないのか? そうか。もしや、自分たちの罪を隠滅するために火をつけたのではなかろうな」


 矛先をほかへ逸らそうと言い募る曹逸に、剛燕は呆れて目を丸くする。


「は? おっさん、寝惚けたこと言ってんじゃねえよ」

「劉将軍。陛下の御前では、口を慎まれよ」


 すかさず渋面の李宜珀から指導が入り、あらぬ疑いをかけられた御史も毅然と抗議する。


「我々は不法な取り調べなど行っておりません。これらの供述は正当なものです。劉将軍も、誤解を招くような発言はご遠慮願います」


 左右から窘められ、剛燕は渋々引き下がった。入れ替わるように博全が進み出て、発言の許しを乞う。


「私どもが職務を越えた部分についてはお詫びいたします。しかしながら、情報を知った葆国の官として、すべてを他者に任せるようなまねはできませんでした。なぜなら、ことは、単に私利私欲からなる文書偽装や贋作制作に留まらず、この葆に混乱を招く可能性が考えられたからです」


 博全はいったん言葉を句切り、騒然とする殿内の顔ぶれに目を向ける。巡らせた視線は、江霞州より帰京した劉陶利を通過したのち、曹逸に定められた。


「先だっての梛国による江霞州侵攻の危機は、巧妙に造られた偽書によっても仕組まれたものでした。もしやこちらも、曹逸殿の計画だったのではありませんか?」


 どよめきがいっそう激しくなる朝堂で、場違いに高らかな笑い声が響いた。曹逸のまるまるとふくらんだ腹から発せられたものだ。


「これはこれは。寝言を申しているのは貴殿であったか。李次官ともあろう優秀な若者が、朝議の場で居眠りしているとは思わなんだ。どのような根拠をもって私に嫌疑をかける? よもやそれまでも、無頼の者たちが口にした虚言のみと申すのではあるまいな」


 よほど逃げおおす自信があるのか、長口上は用意された文章を読みあげるがごとく滑らかだ。


「ことは、謀叛にも通ずる一大事。憶測だけで審議してよい内容ではごさいません。十分なお調べののちにご判断を」

 

 挙げ句、宜珀までもが慎重を唱える。現時点で確固たる証拠をもたない博全は、返答に詰まってしまった。


「たしかに、己の身を守るためならば、いかようにも言葉を偽る者がいるであろうな」


 それまで静観していた皇帝がおもむろに口を開く。まさしく舞い降りた天の声に、曹逸は勝ち誇ったように目を細めた。 

 と、皇帝は近侍のひとりを玉座に呼び寄せ、何事かを耳打ちする。その者が何処かに姿を消すと、今一度問いを投げた。


「ならば曹逸。そなたもまた、偽りを申しておるにすぎぬのではないか」

「そ、それはどのような……」


 高みから見据えられ臆する曹逸の言を、扉の開く音が遮る。昨日から断続的に降り続く雪の欠片とともに、扉口からひとりの文官が通された。いっせいに振り向いた目が、本来ならこの場に加わることを許されていない若草色の袍に集まる。文箱を抱えた文官は至極恐縮した様子で背中を丸めながらも、左右に整列した高官らが作る道を進んだ。


「林……文徳」


 殿内の片隅で皇后の傍らに控えていた明麗は、思わずその名をつぶやいた。驚いたのは博全たちも同様で、おずおずと眼前を通過していく文徳を声もなく目で追ってしまう。

 やがて文徳は、辿り着いた皇帝の御前で跪拝する。許しを得て面をあげると、螺鈿の施された箱から一枚の書を取り出した。


「お預かりしたこちらの書簡は、曹逸殿ご本人の手蹟によるものに間違いございませんでした」

 

 両手を添え玉座に向かって掲げられた書の正体に気づいた曹逸の顔からは、おもしろいように血の気が引いていく。内容を確認しようと、背後からはこぞって首が伸ばされた。慌てた曹逸は、文徳から書を取り上げようとする。だがその鼻先で、紙は蝶のごとくひらめいた。


「校尉荀寛にすべての罪を被せたうえで秘密裏に葬るように、とあります。これは江霞州都督夫人、曹氏に宛てられたものですね」


 手中の書に目を通した博全が、どことなく皇帝と似た面差しに視線を移す。厳しい表情の博全とは対照的に、琥淘利のくちびるは薄い笑みを掃いていた。


「そのようなものは知らん! それこそ、私を陥れるための偽書であろう」

「そのつもりなら、わざわざ「読み終えたら処分しろ」なんて書き添えないのではないでしょうか」

「下官の分際で! おまえのような若造になにがわかる」


 激昂した曹逸の口端から飛ばされ降りかかる唾を、口を曲げた文徳は身体を傾けて避けた。

 玉座からは、深い嘆息が落ちてくる。


「余がその才を認めて任じた者の見立てさえ信じられぬと申す。そなたはまだ、これ以上の証拠を自ら望むのか」


 文徳がだした鑑定結果は、この国で至高の位にある皇帝の言葉に等しい。無頼の輩の証言ではあてにならぬと言ったばかりの口が、口惜しげに震える。


「お疑いならほかの方にご依頼されてもかまいません。ですが、皇宮にいる鑑定官のだれが観たって結果は覆りませんよ。筆先が割れたままぞんざいに入れられる起筆も、あちこちを向いてまとまりのない終筆も、まねしたくたってできやしない。そのくせの文字だけはやけに尊大でふてぶてしい。字形は悪くないのに、とにかく雑な印象を受ける。身上札にある曹逸殿と同じ筆蹟です」


 一切の面識などないはずの文徳が、彼の為人をものの見事に言い当ててみせる。どこからともなく忍び笑いが聞えてくると、曹逸はますます頭に血を上らせた。

 怒りで真っ赤に染まるその顔に、陶利は氷水の如く冷ややかな声を浴びせかける。 


義兄上あにうえは、永菻に帰りたがっていた曹旻つまをこう唆したそうですね。「皇帝にはいまだ世継ぎとなる子がおられぬ。梛との戦を起こし健尚に初陣を飾らせれば、後継にとの声が高まるに違いない。宮処へ呼び戻される日も近づくだろう」と」


 さらに笑みを深めて妻と義兄の間で取り交わされた秘事を暴露すれば、曹逸の口から呻きがもれた。剛燕が袍の胸ぐらを捕まえ締め上げたからだ。


「梛軍がそのまま北上を続けたらどうするつもりだった!?」

「それは、おまえがさせぬだろう?」


 片側の口角を上げていう博全に、剛燕は「当然だ」と荒くした鼻息がヒゲを揺らす。乱暴に手を放された曹逸が床に転がった。

 たとえ敵が大河を渡ってきたところで、辺境における葆の守りは堅い。頼りの内通が偽の情報だったとなれば、梛軍が江霞州を堕とし皇都永菻を目指せた可能性は、限りなく低かったはずだ。

 実際には、兵を動かすどころか劉剛燕の名を出しただけで梛国は引き下がり、曹逸の計画は頓挫している。しかし、戦乱が過去となりはじめていた葆国内に、外敵の存在を思い出させただけでも実はあっただろう。成朋の代が恒久ではなく、永きにわたる皇太子不在に危機感を抱く者も増える。そこで琥健尚の存在を知らしめることができれば、曹家は次期皇帝の外戚としての権勢を取り戻せるという算段がたつ。

 むしろ貴重な駒を、勝ち戦とはいえ戦場に立たせずにすんだのは、好都合だったともいえるのではないか。どう転んでも、なにひとつ曹逸に不利益がもたらされる事態にはならなずにすむ。

 だがそれも、友人の死に疑念を抱いた剛燕が持ち帰った書を、文徳に偽筆だと見破られなかったときの話だ。加えてこの人物の言動は、曹逸にとって寝耳に水のできごとに違いない。冷たい床の上から、ぎりぎりと歯の根を鳴らす。


「曹逸が江霞に送ってきた書簡は、これだけではありません。そうですね?」


 淘利が文徳に同意を求めた。

 引き寄せた文箱を抱えた文徳が、皇帝に伺いを立てるように顔をあげると、小さな肯きが確認できた。その視界の端には、皇后と明麗が不安げに成り行きを見守る姿も映りこむ。

 姿勢を正した文徳は、深く吸った息を吐き出す勢いに任せて陳述する。


「この中には、曹逸殿が宸筆を求めて淘利様へ出した書状も入っています。偽筆の技術を使って、遺勅を偽造しようとしていたんです」

「遺勅だと!?」


 これまでとは比べものにならないほどの動揺がおきた。武官はにわかに殺気立ち、文官は曹逸から距離をおこうと足を退いて列が乱れる。

 ひとり、皇后だけはただならぬ雰囲気を察し顔を曇らせながらも、馴染みのない単語に首を傾げる。


「い、ちょ……く?」


 俯く方颯璉から逸らされた緑の瞳が、明麗を映した。真っ直ぐな眼差しは、ごまかすことを許さない。


「『みことのりを遺す』と書きます。ご自身が身罷られる前、後世に託すお言葉を文章にしておかれるのです。たとえば……次の帝位をどなたに譲るか、など」

「では、その命が実行されるのは、陛下が亡くなったあと……」


 皇后から小さな悲鳴があがった。口元を隠す袖口が震えていたのは、己の発言がもつ意味に思い至ったからだ。

 もう一方の手がなにかを探すようにさまよう。明麗は目の前に伸ばされた白く冷たい手を、両の手のひらで包んだ。それを握り返す皇后の顔は青ざめていたがしっかりとあげられ、翠玉の瞳ですべてを見届けようとしていた。


「曹逸殿が集めた宸筆を手本にして、宋惺はあの紙舗に閉じこめ子どもに、陛下の御手蹟を習得させようとしていました」

「秋子来! そうよ、あの子は無事なの!?」


 突然明麗が身を乗り出したので、腕ごと引っ張られた皇后の腰が椅子から持ちあがる。わずかに後れて、刺繍で描かれた鸞鳳が羽ばたくように大袖の袂が広がった。


「お下がりなさい!」


 眉を吊り上げる颯璉の叱責で我に返った明麗は、慌てて皇后の手を放し、跪いて不作法を詫びる。

 足下で乱れた袖を直す彼女に、皇后は訝しげに訊ねた。


「どうしてあなたがその子を知っているの?」

「ええっと、後宮にも偽筆屋の噂が回ってきていて。その……弟の友人の……知り合い? らしいのです」

「息子の遊び仲間だったその娘は、救出の際にひどい火傷を負い、いまは当家で預かっています。義侑がつきっきりで看病しておりますので、じき回復するでしょう」


 苦しい説明で言い逃れようとした明麗に、剛燕から助け船が出される。安堵したところへ「火傷を……」と皇后の悲痛な呟きが届き、明麗は表情を引き締めた。

  

「ご即位以降空席だった皇后の座がついに埋まり、さらには李宰相のご息女も後宮入りを果たした。いつ皇子がご誕生なさってもおかしくはないという焦りが生じたのであろう」


 老臣の推測に、後宮の事情など知る由もない皆が納得して同意を示す。

 まんまと外甥を皇太子の座に就かせたとしても、皇帝に皇子が産まれればその立場は容易に奪われかねない。一刻も早く確実に帝位を掌握する方法が、偽筆による遺勅の作成であり、さらにその効力をすみやかに遂行させるためには、皇帝の急逝が不可欠だ。

 つまりは、皇帝の暗殺までもを企てていたのではあるまいか。

 遠巻きに曹逸を囲む官吏たちの眼差しは、すっかり大罪人に対するものになっていた。


「――何故」


 床に爪を立て琥淘利を睨め付ける曹逸から発せられた怨嗟の声が低く響く。

 守るように前に出た剛燕を制し、淘利は義兄を見下ろした。


「息子を皇帝にしてやると申したのだぞ。この期におよんで裏切るとは、己だけ助かろうという魂胆か!?」

「裏切る? とんでもない。もとより、あなたの思惑に賛同した覚えはありません」

「そなたが『千里一里』まで差し出したのは、私の信を得ようとしたからではないか」

「曹家を潰すためならば、この身が堕ちようと本望というものです。その前では、書仙の書など紙くずにも等しい」


 なぜそこまで妹婿に一族滅亡を望まれるのか。心底曹逸に思い当たるふしはないようで、愕然と陶利を見上げる。

 それを冷淡な笑いで一蹴すると、陶利は文徳へと目を移した。


「どうせなら、弑逆を実行して返り討ちにあった曹家一門の首を城門に並べて曝したかったのですが、ずいぶんと早い段階で尻尾を掴まれてしまいました」


 あたかも「余計なまねをしてくれた」というような苦笑を向けられた文徳は、首を縮めて小声で謝る。


「……陶利」


 壇上から咎めるように呼ばれた彼は、玉座の前で跪き叩頭する。


「校尉の名と筆を騙り梛国と通じていたこと、並びに遺勅の偽造を企み、陛下のお命までも脅かそうという曹家の動きを知っていたにもかかわらず、ご報告を怠ったばかりか、一時的とはいえ手を貸したのは、紛れもなく私の罪。いかような処分も覚悟しております。どうか、公明正大なお裁きを」


 弑逆は重罪。計画、準備したた時点で極刑に値し、一族にも類が及ぶ。偶然発覚した数字の改ざんという小さな不正は、あわや皇帝暗殺という大事件にまで発展した。

 報せを受け朝堂に踏み込んだ禁軍が、曹逸と陶利を取り囲んだ。促されすっと立ちあがった陶利がおとなしくし従う一方で、曹逸は無駄な抵抗を試みる。いちおうはまだ容疑をかけられた貴人だ。衛兵らは慎重に包囲を狭めていく。

 いっこうに立つ気配をみせない曹逸に業を煮やしたひとりが、彼の腕へと手を伸ばす。


「ええい、触れるな!」


 やみくもに両腕を振り回す様は、幼子が駄々をこねているようにしかみえない。堪りかねた剛燕が、衛兵の間を割って囲みに入る。容赦なく腕を捕まえ吊るし上げた。


「見苦しいぞ、おっさん。うちの小孩子ガキどものほうが、よっぽど聞き分けがいい」

「無礼な! そもそも、皇帝の従兄である私が墓守なんぞに追いやられ、おまえのように出自の怪しい者が将軍などと持ち上げられていること自体が狂っておるのだ」


 憤怒と羞恥、痛みで脂汗の滲む顔が、玉座を睨む。


「曹家の血に怨みがあるというならば、あの首も同じではな――っ‼」


 暴言が途中で絶叫に変わった。剛燕が腕を後ろ手に捻り上げたのだ。


「チィチィと雛鳥か。名が書いてあるわけでなし、血なんぞ、皆同じく赤いだけだろう」

「わからないぞ。もしや、青いのかもしれん」


 興味深げに真顔で顎を撫でる博全に、剛燕が人の悪い笑みを返し、握力をさらに強めた。武骨な指が厚い肉に食い込み、瞬く間に曹逸の手先から血の気が引いていく。


「なるほどそれは珍しい。試しに、この腕でももいでみるか」


 激痛で抗議の声も出せない。曹逸の真っ赤だった顔色までもが、蒼白に変わった。


「劉将軍、それは最終手段です。我々の仕事を取らないでいただきたい」

「相すまぬ」


 ぱっと手を放すと、曹逸はその場でくずおれる。すかさず御史は捕縛の指示を出した。


「不敬罪の現行犯です。ここにいるすべての者が証人ですから、言い逃れはできません」


 高貴な身に縄を打たれるという屈辱に項垂れる曹逸を、陶利が振り返った。


「私が憎いのは、曹の血ではありません。生まれ落ちたときから無条件で与えられたものの上であぐらをかき、他を見下し虐げ、奪う。その気質があなたがたに、脈々と受け継がれていることが許せないのです」


 感情を殺した静かな語りには、くつくつとした笑いが応えた。冠はずれ衿元が乱れたうえに、両手を縛められた姿でなお、曹逸は鼻を鳴らす。


「それのなにが悪い。己とて皇統譜に名を連ね、安穏と生きてきたのではないか」

「私は皇籍など欲したわけではないっ!」


 はじめて激しい感情を灯した陶利の瞳は、しかしすぐにまた昏く澱む。混乱が収まる気配のない朝堂を――複雑な面持ちで見送る皇帝が坐す玉座をも越えた遠くを見遣るように、眼差しが細められた。


きょう……沅岳げんがく公主を覚えていますか」

「さて? 伊姓の公主などおっただろうか」


 さして思案もせず即答した曹逸同様、その名に心当たりがある官吏は少ないようで、隣同士で首を振り合う。ただ、皇帝と宜珀、剛燕などのごく数名が眉を曇らせた。その結果を見届け肯くと、淘利は自ら禁軍兵を促し朝堂を出ていった。

 彼らのあとを、縄を引かれた曹逸が重い足取りで続く。

 すると突然、その前に皇后が飛び出した。


「待って!」

 

 両腕を左右に広げて行く手を塞ぐ。縄の先をもつ衛兵が、とっさの判断で曹逸を引き寄せる。目を瞠った皇帝は腰を浮かせ、明麗や颯璉、剛燕たちも駆け寄ろうと足を踏み出す。しかしその動きは、曹逸から目を逸らすことなく凜と張られた声で制された。


「大丈夫。この者に、ひとつ訊ねたいことがあるだけです」


 縁に雪を模した紋様をあしらった袖で鉄壁を作り、跪きもせず立ち尽くす曹逸を見据える。


「呪詛もそなたの仕業ですか」


 皇后を真正面から胡乱げにみつめる曹逸からの返答はない。大きく息を吸って、皇后はさらに問いを重ねた。

 

「答えなさい! わたくしの――陛下の御子が流れるよう、鴛鴦の画に呪詛の文字を潜めたのはそなたなのか、と訊いているのです」


 一瞬、水を打ったように朝堂が静まりかえる。

 曹逸が眼を眇め、醜悪な形に片側の口角を吊り上げた。


「ほう、そのようなことがございましたか。しかしながら、存じませんな。それに、私なら呪詛などと不確かなものには頼りません。確実な手段は、ほかにいくらでもありますゆえ」

「ではいったい、だれが……」


 ともすれば腕が下がりそうになるのをこらえ、両手で拳を作った皇后の袂が揺れる。


「さて? ですが、御子が流れたのは呪いなどではなく、天意なのではございませんか。異国の血が貴き皇統に混ざらぬようにとの、思し召しやもしれませぬ」

「この、無礼者っ!」


 甲高い声がした。皇后が俯きかけた顔を起こすと、なにかが扉口を目がけて飛んでくる。それは見事、曹逸の後頭部に命中して床に落ちた。

 唐突に襲った鈍い衝撃に振り返った彼を、ぴんと伸びた人差し指が指す。


「それこそ、なんの根拠もない中傷ではありませんか。謀反人の分際でこれ以上皇后陛下を侮辱するならば、わたしがその失礼極まりない口を綴じてさしあげます!」


 頭に手をやり釵を抜いた明麗の片足からは、くつが消えている。もう片方も脱ぎ左手で盾のように構えると、まっすぐ曹逸を目指した。

 その、ぱたぱたと軽い足音が不意に止まる。


「放して、兄さま!」

「黙れ、愚昧。縫いつけるのはおまえの口だ」 


 仔猫のように襟首を捕まえられた明麗は、その場で手を振り回す。凶器をもっている分だけ、曹逸よりも始末が悪い。鞋も放り投げられ、どこからか悲鳴があがる。


「おい! いまのうちにそいつを朝堂ここから出せ」


 呆気にとられていた衛兵たちは剛燕に命じられ、曹逸を引きずるように連れていった。

 それでもまだ憤慨が収まらない明麗は、博全たちに食ってかかる。


「兄さまは腹がたたないのですか!? 劉将軍も! どうせ極刑は免れないのだもの。あんな首、いまこの場で切り落としてやればよかったのよ」

「あのなあ、嬢ちゃん。物事には順序ってものがあってな」


 釵は呆気なく奪われ、口を尖らせた明麗は恨めしげに剛燕を睨む。


「将軍だって、さんざん悪様に言っていたではありませんか」

「いや、それはそうだが……」

「自国の皇后が辱めを受けるのを黙って聞いているほうが、はるかに道義に適いません」

「うん。まあ、それもそうだよなあ」

「剛燕、おまえはいくつだ? 小娘に言いくるめられるでない!」


 そう叱責する博全もまた、彼より年下である。剛燕は気まずげに釵首でこめかみを掻いた。


「百合!」


 場を弁えぬ言い争いの最中さなか、皇帝が朝堂の中央を走り抜けていく。それを目で追えば、床にうずくまる皇后の姿があった。

 駆けつけた皇帝に抱き起こされた皇后は、腕の中で薄く目を開け微笑で応える。


「なんでもありません。ただちょっと寝不足なだけ。苑輝さまこそ……おつらかったでしょう?」


 血の気の失せた手を夫の頬に添えると、胸に顔を埋める。


「申し訳ありませんが、少し、眠らせてくださいませ」


 力が抜けた身体を軽々と抱き上げた皇帝は、太医を呼ぶ傍ら、事後処理を宜珀らに託す。その間も妻を他人に預けることはせず、退朝を宣言した。

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