師弟の関係《4》

 棟を出ると、地面に小さな点が作られている。怪しかった空からとうとう雨粒が落ちてきたようだ。いっそう暗くなった空を見上げた明麗の白い頬でも、ぽつりと大粒の雫が弾けた。

 次の瞬間、上空に現れた光の龍に目が眩み、続いて襲った鋭い轟が耳をつんざく。葆の宮処みやこ永菻えいりんに本格的な夏の訪れを告げる雷だった。これからしばらくは、三日と置かずに雷雨に見舞われる日々が続くだろう。


「もうそんな季節なのね」


 雷雲立ちこめる空を引き裂く稲光が幾筋も走る頭上に向け明麗は独りごち、借り物の書を胸にかき抱いた。


 来た時とは逆――とはいっても今度はきちんと敷かれた通路を歩き、兄のいる中書省を訪れた明麗は、ちょうど回廊を真向かいからやってくる博全と行き会った。


「ずいぶんと時がかかったな。また余計なことをしていたのではないか?」


 出会い頭に小言が降りかかる。

 雨に濡れないよう抱えていた書物を突き出し、明麗はふん、とそっぽを向いた。


「それより、とっくに戸部から異動したはずの兄さまが、こんな何年も前の記録が必要だなんておかしいわ。それこそご自分のお仕事以外のことに首を突っ込まれているのではありませんか?」


 ここぞとばかりに知った風な口を利けば、博全は眉間のシワを深くした。


「部署をまたぐ仕事など珍しくもない。頼まれ事ひとつ、まともにこなせぬようなおまえと一緒にするな」


 形の良い顎を反らし高い位置から見下ろされ、明麗の小さな口はますます尖っていく。いまの自分と同じ十六歳という異例の若さで官吏登用試験である採試に高位合格し、高級官吏への道を一直線に駆け上る兄は誇らしくもあるが、いまの明麗にとっては妬ましさのほうが勝る。

 書物を受け取ろうと伸ばしてきた博全の手を寸前でかわして、再び胸に抱いた。


「言われたこと以外に口出しするなとおっしゃるのなら、この書について聞いた奇妙な話も余計なことですわね」


 思わせぶりにめくってみせれば、そこからひったくるように博全が書物を取り上げた。


「どういう意味だ」


 兄の怪訝な声を聞き、明麗は密やかに笑みを深める。強まってきた雨が吹き込まない軒下の隅まで移動し、揃えた指で博全を手招きした。

 踵を上げ博全の耳に手を添えた口を寄せる。


「この書の中にある数字が、書き換えられているらしいのです」

「……なぜ、おまえがそれを知っている」


 さも重大な秘密を告げたつもりで声を潜めた明麗の得意顔を、博全の剣呑な眼つきと口調が曇らせた。


「わかっていた……の?」

「答えなさい。訊いているのはこちらだ」


 実の妹にも容赦なく疑わしげな視線を向けてきた。

 手柄を立て、褒められるとばかり思っていた明麗には、それが些かおもしろくない。ふい、と顔を背けだんまりを決めこもうとした。

 しかし兄がそれを許すはずはなく、膨らませた白い頬は片手でグイッと挟まれ、険しい顔と正対させられる。


「どうやら官吏になりたいというのは本気ではなかったようだな」


 呆れとも失望ともとれる眼差しが注がれ、明麗は喉の奥を締められたように感じた。


「万一おまえの知ったことが不正に関わっているとしたら? 国に害なす事実を隠し立てするような者に、公人たる資格などありはしない。おまえにはその心構えがないということになる」

「そんなつもりでは……」


 もし明麗が官吏として国に勤める立場だったのなら、政に関することで知り得た情報は、速やかに上に報告し指示を仰ぐのは当然の行為であり義務である。一個人の意地や見栄でどうこう判断してよいものではない。

 博全の説く正論に、明麗はぐうの音も出ず眉尻を下げた。公より私を前に出した明麗の態度では、心掛けを疑われても仕方がなかった。どんなに背伸びしてみても、博全が、国の中枢であるこの皇宮に、皇帝の傍に身を置き、国家安寧のために尽力してきた年月に敵うはずもないのだ。

 裙を両手で握りしめることで悔しさを逃し、ようよう口を開く。


「林文徳殿に、教えてもらいました」

「林? 例の書記部の文官だというあの者か?」


 頷いた明麗は兄の手から一冊抜き取った書を開き、そこにあった『五』を指し示す。


「ここの数字が改ざんされているそうです。元は『三』だったはずだと。これ以外にも、あちこちにあるとも言っていました」


 文徳の主張が真実ならば、おそらくは後からかくが書き足されたのだろう。しかしながら、他人の手で加えられた墨線にはどうしても不自然さが残る。書に長けたの者の多い葆でそれを行ったところで、よほどの技術がなければたちまちのうちに見破られてしまうため、不正の手段としてはあまり現実的ではない。

 そしてその指定の文字を一見しただけでは、あからさまに不審な点は見受けられない。それでも文徳は、改ざんだと譲らなかった。


「紙を無駄にしないために書き違えを訂正した、ということは考えられないのか」


 今度は首を横に振る。明麗もその可能性は彼に問いていた。


「それが、その……。筆跡に『間違えてしまった!』という想いが感じられない、と文徳殿が」


 この記録は、いうなれば一地方で集計されたものをさらにまとめた覚え書きだ。

 朝廷に報告するための正式な文書では、一は壹、十は拾といったように大写の使用が義務づけられている。しかし、清書前の段階で不正が行われていては元も子もない。


 博全は思案顔で指摘された文字をしばらく注視していたが、やがて静かに嘆息を漏らした。


「彼は、このほかにもみつけたというのだな」


 正直なところ、明麗には改ざんと訂正の判別はつかない。文徳の書に対する見解は信頼に足るものだと考えるが、一方で感覚という危うげなものを根拠にして、不正を糾弾することができないのもわかる。

 それでも兄が頭ごなしに否定しないことを嬉しく思い、明麗は力強く首肯した。


「わかった。おまえは早く戻りなさい。先ほど、孫恵が慌てた様子で所在を訊ねにきていたぞ」

「孫恵が!?」


 なんとなく嫌な予感がする。

 昇陽殿へ急ぎ帰ろうと走り出した明麗は、ふと足を止めて振り返り、すでに背中を向け回廊を進み始めていた博全を呼び止めた。


「兄さま!」

「まだなにか?」


 首だけをこちらへ向けた兄に、両手を胸に前で重ねて深々と腰を折る。


「今日はありがとうございました」

「もう一度言っておく。二度はない。そら、早く行け」


 追い払うように手を振る博全の常に刻まれている眉間の深いシワが、こころなしか緩んだように見えた。


 あと数歩で自房の扉、というところで明麗は動けなくなってしまう。扉の前で、なにやら額を掲げようと指示を出している者がいるのだ。


「方颯璉、さま……」


 極々小声で呟いたつもりだったが、戸口の上部を見上げていた颯璉の首が直角に回る。すっと眇められた鋭い眼と合った途端、目の前が真っ白になる稲光と耳の奥が痛くなるほど大きな轟に襲われた。

 生まれた時から永菻に住まう明麗は、滅多なことでは雷になど驚かない。だが、いまばかりは堪えきれずに首をすくめてしまった。


「ようやく戻りましたか」


 抑揚のない静かな声音が逆に明麗の肝を冷やす。凍り付くような視線から目を逸らすと、今度は角角しい文字で書かれた額が目に入る。


「宮女の……心得?」


 十項目ほどが、定規を添えて書かれたように大きさの揃った文字で並ぶ。


「廊は走らない。挨拶は丁寧に。諍いを起こさない。……子ども向けの注意書き?」


 あまりにも当たり前のことばかりで、明麗は首をひねってしまった。颯璉は、なぜこんなものをわざわざ額にまでして掲示しようとしているのか。


「……それさえも守れないような者が、この皇宮にいるからこうしているのです!」


 雷鳴よりも鋭い叱責が、明麗の上に落ちた。

 表の騒ぎが届いたようで、遠慮がちに開いた扉から孫恵が恐る恐る顔を覗かせた。明麗の姿をみつけると、謝るように手を合わせるので、小さく首を横に振る。謝罪しなければいけないのは自分のほうだ。


「たとえ休日とはいえ、所在は明らかにしておかなければなりません。ましてや、なんの報告もなく皇宮の門の外に出るなどあってはならないこと」

「ですが、ちゃんと許可はとりました」

「李明麗。あなたの主はだれですか? 李次官ではありますまい。それとも皇后陛下では不満だということですか」


 大仰な嘆息のあと、颯璉は疲れた顔でゆるりとかぶりを振った。


「それほどまでに後宮ここを窮屈と思うのならば、李家に戻ってもよいのですよ」


 明麗は目を見開いた。職を解かれて邸に帰ったりしたら、今度こそ本当にどこかの家に嫁がされてしまう。前よりも、いまよりも、もっと狭くて退屈な世界に閉じこめられるに違いない。

 なによりも、中途半端な状態で皇后の元を去ることなどしたくはなかった。


「そんなのは嫌ですっ! 絶対に帰りません!」


 雨や木の葉が吹き込み汚れている廊の床に、衣が濡れるのも構わず跪く。


「この度の勝手な振る舞い、大変申し訳ございません。報告を怠りました罰はお受けします。ですが、お言葉を返すことをお許しください。中書省次官の許可はいただきました。法は犯してはいないはずです」


 低い位置から真っ直ぐに颯璉を見上げる。兄から許可をもぎり取った経緯は褒められたものではないが、内容自体に違法性はない。

 決して逸らされない視線を向けられた颯璉は、ピクリと細い眉を片方だけ動かすと、もったいぶりつつ顎を引く。


「そうですか。ならば、三日間の謹慎を申しつけます。しっかり反省なさい」


 首の皮が繋がった明麗は、立ち去る方颯璉に深く深く頭を下げた。


 ◇


「いっ、たあい!」


 ぷくりと紅い玉が盛り上がる指先を含む。口の中に鉄錆のような味が広がり、明麗は顔をいっそうしかめた。


「針を布に通すより、指に刺している回数のほうが多いんじゃないの?」


 隣で手際よく針を動かす孫恵の声音からは、すでに呆れを通り越して憐憫さえ感じる。


「いっそのこと、宮中の回廊を全部磨けといわれたほうが楽だったわ」

へやから出てしまったら、謹慎にはならないでしょう?」


 上官に無断で皇宮から出た罰として、明麗は自房での謹慎と大量の繕い物、そして『宮女の心得』を百枚書き写すことを命じられていた。同室の連帯責任でともに処分を受けてしまった孫恵だが、実際はお目付役も兼ねており、房のこもって繕い物を手伝っているのだ。

 嫌いな食べ物は後回しにするという明麗の性分は与えられた仕事でも遺憾なく発揮され、書き写しの方は丸一日かけ初日に終わらせてしまっている。確認した颯璉に数枚の書き直しを申し渡されたが、それも昨日のうちに提出して承認済みだ。

 残すは大半を孫恵が引き受けた繕い物なのだが、そろそろ謹慎最終日の夕刻だというのに、割り当てられた数枚さえ仕上がっていない。どうにか針を通したものもひどい縫い目で、とてもではないが、颯璉の厳しい目を合格するとは思えなかった。


「こんなことをしている場合ではないのに……」


 指を傷だらけにした針先に向けて恨み言を零す。ままにならない針を見つめるたびに、先日の林文徳の話が思い浮かんでくるのだ。

 早く皇后の書の授業を再開したい。

 その想いが募りすぎて焦りを呼び、余計に明麗の手元を狂わせていた。


「皇后陛下のお加減はどうなのかしら。あなたは聞いている?」


 すっかり手が止まってしまった明麗は、孫恵に訊ねる。彼女が食事を取りに行くなどで房から出た際、宮女仲間から耳にしているのではないかと思ったからだ。


「今朝はいつも通りのお食事を召し上がったそうだから、良くはなられたのだと思うけど」


 孫恵はまったく手の動きの速度を落とさず口を動かす。

 朗報にほっとした明麗は再び針を手に取ったが、またもや盛大に親指の腹を突き刺した。

 

 ◇


 結局、翌日の明け方までかかって課題を終わらせたふたりは、通常の勤めに戻ることを許された。


「本当に、孫恵には申し訳ないことをしたわ」


 あくびをかみ殺しながら皇后のもとへ向かう明麗は、自分が繕ったもののやり直しまで引き受けてくれた同朋に、心からの謝辞を述べる。彼女がいなかったら、明麗はまだ懲罰から解放されていなかったことだろう。


 久しぶりに皇后の私室を訪れた明麗は、墨の匂いと明るい笑い声に出迎えられ安堵した。


「聞きましたよ。またお転婆をして、颯璉に叱られたのですって?」


 思わず侍していた方颯璉を睨み付けるが、涼しい顔で受け流されてしまう。どうあっても相容れない親子ほども年の違うふたりは、同時に顔を背け合った。


「何日も練習を怠けてしまったから、また一からやり直しかしら」


 眉尻を下げた皇后の顔色にはまだ若干の青白さが残る。筆を取ろうと延ばした際に袖口から覗いた腕が、一段と細くなったような気がして、撫で下ろしたはずの明麗の胸がチクリと痛んだ。

 それを隠し、席に着いた明麗は、とっておきの話をするように「実は」と切り出す。興味を示し身を乗り出した皇后の頬に、ほんのりと赤みが戻った。


「そちらの本を書いた人物のところへ行ってきたのです」

「陛下がくださった、この葆国民譚の? でも筆者の署名はなかったはずだわ」


 百合后はいまも傍らに置いている本の表紙に掌をのせる。すでに何度も繰り返し読まれたらしい。


「兄に調べてもらって訪ねました。それでその……」


 ちらりと方颯璉に視線を投げてから口ごもる。くすり、と皇后から忍び笑いがもれた。


「お仕置きを受けた理由はそれだったのね。それで、どのような者でした? さぞや、優秀な官吏なのでしょう?」

「仕事ぶりはどうかわかりませんが、書に関しては確かな腕と知識をお持ちのようです」


 明麗は卓の上に先日もらってきた書を広げ、書庫で林文徳から教えられたことを、皇后にかいつまんで話す。皇后は真剣な眼差しを、交互に明麗の唇と紙の文字に注いで聴き入っていたが、説明が「画を描くように」との段に及ぶと僅かに表情を曇らせた。


「画が上手ではないと、字も上達しないということなのかしら」

「そのようなことはないと思います」


 明麗自身、特別画が上手いという自覚はないが、文字はそれなりに書けるつもりでいるから、必ずしも強く関連するわけでもないだろう。だが、あからさまに肩を落とした皇后に、どう言えば伝わるのかがわからずもどかしい。


「百聞は一見に如かず。彼の筆遣いを間近でお見せできればよいのですが」


 文徳自身が言っていたように、後宮の奥にまで彼を連れてくるのは至難の業だ。ましてや師事を仰ぐなど、到底叶うはずもない。

 考えが行き詰まってしまった明麗とは打って変わって、彼女の呟きになぜか皇后が喜色を表す。


「でしたら、陛下にお願いしてみましょう! 苑輝さまのお許しがあれば、その者をこちらへ呼び寄せることもできるわよね、颯璉?」

「それは、そうでございますが」


 皇宮の主である皇帝が命じれば、不可能なことなどない。だがその力を無闇に行使しては、皇宮の秩序が乱れる。颯璉が渋面になるのは当然のことだった。

 ところが皇后に引く様子はなく、勝手に話を進めようとする。


「わたくしがお願いするよりも、実際に目にしたことがある明麗が苑輝さまを説得したほうが効果があるかもしれないわ」

「わたしが、皇帝陛下に直接ですか!?」

「ええ、そうよ。あなたがしっかり、わたくしの代わりに苑輝様とお話をしてちょうだい」


 明麗の右手をしっかり両手で握って、翠緑の瞳を潤ませた。


「皇后陛下!」

「もう、これ以上、刻を無駄にしたくはありません!」


 堪りかねた颯璉の非難が房に響くが、珍しく皇后は声を荒らげ制止する。大きく息を吐くと、凜と背筋を伸ばして声を張った。


「よろしいですね。近日中に、李明麗が陛下とお会いする場を設けることにします。これは皇后であるわたくしからの命です」


 房にいた者が皆、一同に気圧され押し黙る。その中で届いた、悲痛な面持ちの方颯璉からもれた小さな、だが深い嘆息が、やけに明麗の耳に残った。

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