師弟の関係《2》

 幾度も折れ曲がる回廊を通るのは面倒だ。踵を上げ細首を伸ばした明麗は守衛門の方角を見遣り、己の向かう先を定めた。

 裙の裾から白い膝褲が覗くのも気にしない。時には木々の間や殿舎の陰から飛び出し、運悪く居合わせた官吏たちを驚かせながら、可能な限りの直線距離を突き進む。

 良家の子女らしくやしきの奥に閉じ込められていた明麗だったが、入宮して以降広い皇宮の敷地を駆け回ったおかげか、ずいぶんと体力がついたように感じていた。それでも、内宮から皇宮の出口までほぼ休まず走り続けるのはなかなかに疲れる。

 身上札の提出に訪れて以来となる門まで辿り着くころには、すっかり息が上がっていた。


 紅潮した顔でうっすらと汗ばんだ額にほつれ髪を数本張り付かせた少女に声をかけられた若い門衛は、通行証ともいえる博全の書付を差し出されても微動だにせず目を見開いている。


「あの。通ってもよろしいですか?」


 急いでいるというのに対応してくれない門衛に向けそうになる苛立ちを押し殺し、彼の顔の前で紙をひらめかせた。可憐な顔を凝視していた視線をそれが邪魔したことで、ようやく彼は我に返る。受け取った紙に目を通してから、再び明麗を確認した。ただし、吸い寄せられそうになる目を必死で顔からは逸らしながら。


「なぜ後宮の宮女が李次官殿のお遣いを?」


 門衛の疑問に明麗は密かに柳眉を動かす。彼はただ彼女の姿に見とれていただけではなかったのだ。内心で舌打ちをしつつ、明麗は彼の手の中から書付を取り上げにこりと微笑んでみせた。


「本日はお休みをいただいたので、後学のために兄の手伝いをしているのです」


 咄嗟に思いついた言い訳をもっともらしく口にしたが、門衛の疑いは増すだけ。つい今し方まで伸ばしていた鼻の下にシワを寄せ、明麗の手首を取り詰所まで引きずるように連れて行く。書道具が用意された机の前で手を離され、広げられた帳面に氏名を書くよう命じられた。

 宮女の衣を着て中書省次官の署名と印のある書付を持っているにも関わらず、彼女の身元を確かめようというのだ。

 博全の依頼書は本物だが、当然直の主人である皇后の許可は取っていない。ここで下手に渋って万一後宮に確認されたら、時間の浪費となるばかりか、ほう颯璉そうれんあたりに連れ戻され、大目玉を食らうことになるだろう。それは是が非でも回避しなくては。

 乱暴に掴まれた不快さが残る手で、明麗はおとなしく筆を執った。

 若干の後ろ暗さを抱えた明麗の運ぶ筆が一画ずつ書き加えられるにつれ、彼の顔から血の気が引いていく。小娘相手になにをもめているのか、と詰めていた歳かさの文官もやって来て明麗の肩越しに手元を覗き、ちょうど書き終えた名を読み上げた。


「……李、明麗?」

「はい。これでよろしいですか」


 返事とともに振り向いた明麗の顔に目をしばたたかせ、呆然と立ち尽くす同僚の袖を引く。


「おい、おまえ。李宰相のご息女にいったいなにをしている?」


 若い門衛の頭の中でようやく、近頃皇宮内を賑やかせていると噂の秀麗な顔と名前、李博全の署名と『兄』という単語が関連付けられる。どうやら彼女の顔と名は、身分を証明する佩玉にも匹敵するほど知れ渡っているらしい。ふたり揃って一介の女官に拱手する。


「大変失礼をいたしました。どうぞお通りください」


 彼らは身上札で筆跡を確認することもなく道を空けた。


「では、行って参ります」


 事なきを得たことへの安堵は綺麗に隠し、明麗は悠然と歩を進める。が、二、三歩先まで行ってから、突如として踵を返す。

 目の前まで戻ってきた明麗の眉間に不審げなシワが刻まれているのを見て、難癖をつけようとしていた門衛が引きつらせた笑みで問う。


「な、なにか?」

「以前そこの詰所にいらした林文徳りんぶんとくという方は、今どちらに?」

「林……? 知ってますか?」


 彼はまだここに配属されて日が浅いのか、助けを求めるように隣にいた文官にそのまま質問を投げる。受け取った方は額に拳をあて暫し考えてから、あっと小さく声を上げた。


「あの新人ですか。彼なら、ここへ来ていくらもしないうちに異動になりましたが」

「そうでしたか。ありがとうございます。それと、もうひとつ……」


 ということは、やはり『彼』なのかもしれない。明麗は文徳の名の記された紙片を衣の上から押さえた。


「書記部の記録係がある棟へはどう行けばいいのでしょう?」


 ◇


 建物まで案内するという申し出を断り、教えられた方角へ向かう。その棟は、皇宮を囲む塀を回り込んだ北西にあると聞いた。

 明麗はふと足を止め、高い塀をうんざりと見上げる。

 この塀を越えるだけでもあれだけ面倒なのだ。さらに皇城から出るとなれば、もっと大事になるのだろう。邸を出てなお、明麗はまだ籠の鳥なのだと思い知らされる。

 自分が佩玉を賜った官人であったら……。いや、せめて男子だったのなら。

 世の半数は女だというのに、学ぶ機会も行動範囲も男の半分もない現状が恨めしい。

 憤然たる思いを胸に抱えたまま足を動かしているうちに、それらしき建物の前に辿り着いていた。

 蔵庫と呼んだほうが的確な様相に一瞬不安になるが、入り口の隅に控えめに掲示された板切れには『秘書省 書記部 記録係』とある。その看字かんじに嘘はなさそうだ。みすぼらしい額にありながら堂々と主張する文字は、閑散とした周囲とはあまりに不釣り合いに思える。これだけの筆勢ならば、皇宮の殿舎に掲げる額にしてもおかしくはないだろう。

 もったいない。品格ある文字に気を残しつつ明麗は人気のない廊を進み、ほどなくして扉を大きく開け放っているへやをみつけた。


「どなたかいらっしゃいませんか」


 戸口から首を覗かせ、物音ひとつしない室内に声をかける。すると書類や巻子本などが乱雑に積み上げられ、今にも崩れそうな山の陰からひょっこりと白髯に覆われた顔が現れた。


「はてさて、このような辺鄙な場所になにかご用ですかな?」


 もごもごと綿雲のような髭と眉が動き、糸のように細くした目が向けられ、明麗は無意識に姿勢を正す。仙人じみた老爺へ挨拶の礼をとってから要件に入った。


「李明麗と申します。記録係というのはこちらでよろしいでしょうか」

「如何にも。ここを任されております、しゅう楽文がくぶんですが、後宮のお方が何用でいらっしゃった?」


 のんびりとした口調で訊ねられている間も明麗は房の中を探るが、紙の山の向こうにちんまりと座す周の姿以外は見当たらない。


「資料となる書物をお借りしてくるように言いつかりました。それから、林文徳という文官がこちらにいると伺ったのですが」 

「それならいま、奥の書庫で整理をさせています。書もそちらでしょう。案内しましょうか」

「いえ、お仕事中に手間をおかけするわけにはいきません。この先にあるのですね」


 枯れ枝のように細い腕を卓子について立ち上がろうとする老爺をとどめ、廊下の奥を見遣る。それほど大きな建物ではない。行けばわかりそうだ。明麗は一礼して記録係を辞した。

 歩きながら、あの表に掲げてある額の看字は楽文の手跡によるものでなはいかという考えが、明麗の胸にわき上がる。流麗でいながら芯の通った文字と、飄々とした老爺の印象がなぜか重なったのだ。


「周……楽文?」


 小さく復唱した名が記憶の片隅にあるような気がして思い出そうとするが、それを拾い上げる前に書庫らしき房の前に着いてしまった。

 閉じられた扉越しに声をかけてみるが返答はない。中を覗こうにも、蔵書を守るためか通路側には小窓のひとつも見当たらず、明麗は途方に暮れる。だがそれもほんの僅かな間だった。


「失礼します」


 一応断りを入れて扉を開ける。途端、古い紙と墨の香りが明麗に向かって流れてきた。

 北側の壁上部に通風と明かり取りのための小窓があるだけの薄暗い房内へ目をこらす。整然と並べられた棚には、綴本や折本、巻子だけでなく、いつの時代のものかもわからない木簡や竹簡までもが所狭しと並べられている。

 ぐるりと巡らせた視線が房の片隅で揺らぐ灯りを捉え、続いて机に着いているらしい男の背中も確認できた。どことなく頼りない背中はきっと彼のものだ。明麗は疑うことなく近づいていく。


「林殿」


 広げた巻物に見入っている背中へ呼びかけるが、ぴくりとも反応しない。


「林文徳殿」


 もう少し大きめの声を出してみるが結果は同じ。明麗は両手で拳を握って息を吸う。


「林!文、徳っ!!」

「うわっ!」


 耳元で張り上げられ、文徳の身体が大きく跳ねる。ガタンと大きな音を立てて揺れた椅子から転げ落ちそうになるところを、机にしがみついて必死で堪えていた。


「なっ、なんなんですか!? 突然驚かせないでください」


 ようやく他人の存在に気づいた文徳が垂れがちの目を見張る。声の主が若い娘だとわかると、さらに驚いたようでぽかんと口まで大きく開いた。

 明麗は拳を作ったままの手を腰に当て胸を反らせる。


「突然ではありません。何度も声をおかけしました。気がつかないそちらがいけないのだわ」

「ええっと、それは申し訳ありません……」


 いくつも年下の娘に窘められ座り直した椅子の上で縮こまる文徳と、あの本を書いた者が同一人物にはどうしても思えない。文字はその人柄を表すものではなかったのか。


「あなたが林文徳?」

「はい」

「陛下が皇后様に贈った葆国民譚を書いた?」

「……なぜそれを知っているのです? あなたはどちらの宮女殿ですか」


 文徳の瞳に若干訝しげな色が差す。どうやら彼は、大抵の男なら一度目にしたら忘れようのない明麗の顔を覚えていないらしい。


「わたしは後宮の女官で李明麗。……本当に覚えていないの?」


 知らない者に名指しされたことはあるが、一度会ったことのある者にまた名を訊ねられたのは初めてだ。些か不機嫌に名乗ると、文徳は首を捻りつつ人差し指で宙に明麗の名を書き始めた。それを三度ほど繰り返して、ぽんと手を打つ。


「李宰相の!」


 先に父親のほうを認識されたことがさらに腹立たしい。明麗は机の天板を両の掌で勢いよく叩き付けた。

 硯の海に湛えられていた墨の水面が揺れ、筆置きから筆が転がり落ちる。穂先が積み上げられていた巻物の端に触れ、じわりと黒い染みを作った。


「ああっ!墨が」


 文徳がすぐに筆を離すが、染みは親指大にまで広がっている。慌てて広げた中を確認した文徳は、ほっと息を吐いた。

 彼の手元を明麗は不安げに覗き込む。


「ごめんなさい。大丈夫かしら」

「平気ですよ。ちょうど空白の場所だったようです。文字に影響はありません」


 そう言いながらも念入りに点検している彼の目は真剣そのものだ。


「もしかして、貴重なものだった?」


 明麗は恐る恐る訊ね、文徳は眉間にシワを寄せる。険しい表情に、ひやりと冷たい汗が明麗の背中を流れた。


「三代前の皇帝の食譜です。当時の食生活がわかるので、貴重と言えば貴重ですかね」

「なんだ。ただの献立表」


 正体を知った途端に肩から力が抜けていく。今上帝の最近のものならまだ保管しておく価値はあるが、百年以上前のものならたとえ燃やしたところで問題ないくらいだ。


「そうおっしゃいますけど、それなりに貴重な資料ですよ。内容からその年の作物の収穫状況なんかもある程度推し量れますし、手蹟からは担当した調理人の腕もわかる」

「まさか! そんなことまでは」


 鼻で笑う明麗の前に、文徳が巻物を広げて見せた。


「この食譜を書いた人物は、魚料理が得意だったみたいです。文字がとても活き活きしている。その反面、汁物はいまいちのようですね。自信のなさが滲み出ています」


 説明しながら該当する部分を指で示すが、明麗には違いがわからない。どれも美味しそうな料理の名ばかりだった。


「ところで、明麗殿のご用件はなんでしょう? ここには後宮で必要な記録などほとんどないと思いますが」


 ついてしまった墨が乾いたことを確認し慎重に紙を巻き取っている文徳に問われ、明麗は正当なほうの理由を思い出した。懐から博全の書き記した紙を取り出し、広げてみせる。


「この本をお借りしたいの。どちらにありますか?」


 これだけ大量にある蔵書の中から見つけ出すのは一苦労だと思ったが、文徳はそこに書かれた文字をちらりと覗いただけで立ち上がり、迷いなく書棚の一画に近づいていく。手を伸ばし、高い位置にある冊子を三冊選んで戻ってきた。


「これですね。お兄様のお手伝いですか?」


 お遣いを頼まれた子どもを褒めるような笑顔を向けられる。紙にある書名と見比べれば、相違ないことが確認できた。


「……ありがとうございます」


 早業に呆気にとられつつ礼を言った明麗の胸元から、兄から受け取った書状が抜け落ちた。それを拾った文徳の顔つきがほころぶ。


「しっかりした字ですね。先が楽しみだ」

「これがっ!?」


 文徳がした英世から届いた書状にある表書への批評に、明麗は思わず驚きの声を上げてしまった。


「まだ三つにもなっていない子どもが書いたものよ?」

「へえ。それはますますもって興味深い。僕はてっきり五、六歳の男の子の手蹟かと思いました」


 甥に対する高評価を喜ぶべきか、彼の予想が外れたことに驚くべきか。


「あなたが彼のせんせいなのでしょうか。筆遣いがよく似ています」

「甥――兄の子なので、よく教えてはいましたけど。わたしもそうして兄に教わってきたので」


 この難解な筆跡と似ていると言われてもあまり嬉しくはない。明麗は、返された書状の文字を複雑な思いで眺めた。


「なるほど! それでですか。やっぱりどうしたって教えてくれる人に似てしまいますよね」


 文徳は頷き、ひとり納得している。


「あなたは? 文徳殿は、どなたに師事されたのですか」


 あれだけの腕の持ち主だ。さぞ高名な書家に教授されたのであろう。明麗の期待は高まる。


「師ですか? 初めに教えてくれたのは、酒屋で使用人をしていたときの兄貴分になるのかな。でも師匠となるとやはり、養父ちちですね」

「お養父上?」

「はい。周楽文です。こちらにいらっしゃる際に、会われませんでしたか?」


 記録係にいた仙人が、すぐさま明麗の脳裏に思い浮かぶ。次いでずっと引っかかっていた彼の名前が、書の師匠という言葉と結びついた。


「周楽文! あの、生ける伝説と言われている御仁!?」

「伝説……。でもたぶん、その『周楽文』です」


 ここで初めて文徳は、自分のことのように自信に満ちた誇らしげな顔をした。

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