師弟の関係《1》

 机上にある大量の料紙を前に、明麗めいれいは頬杖をついて本日何度目かのため息を吐き出していた。桃の香でもしそうな愁いを帯びた吐息が、薄い紙を揺らす。僅かに移動した紙を気怠げに伸ばした片手で引き寄せ、そこに引かれた墨の線を人差し指の腹でなぞった。まだ文字とは呼べないそれは、もちろん皇后の手によるものだ。

 ただ横に一本線を引くだけで「一」になり、そこに縦線を加えれば「十」になる。ただの線でも書として筆を執れば、それは立派な「文字」となるはずだった。それなのに、例え紙を逆さにしても裏から透かし見ても、いっこうに文字と思えないのはなぜなのだろうか。

 皇后は生徒としては優秀だ。学者でも書の大家でもなく、年下の女官にすぎない明麗の指示にも素直に耳を傾けるし、言われたことは忘れない。なにより熱心に学ぶ姿勢は、身分云々はさておき、教える立場として好感が持てる。心許なかった筆致も初めの頃に比べれば、幾分か安定してきたようにも思えるのだが。


「なんで文字にみえないのかしら。孫恵そんけいはどう?」


 また李家から送られてきた山ほどの衣類や装飾品をより分けていた手を止め、孫恵は皇后の書いた字にちらりと視線を送る。


「そうね。たしかに『感字』ではないし『看字』にもみえないわ。強いて言えば『記号』とでも。だけどそれも仕方がないのでは? あの方は異国の人なんだもの」

「……記号! そうよ、それだわ」


 明麗が違和感を覚えていたのは、皇后の手蹟からそれが持つ意味を感じ取ることができなかったからだ。ただ形を真似て書き写しただけの記号。それでは葆の「文字」にはなれない。

 だが、彼女にはその違いをどう説明すれば伝わるのかがわからなかった。幼いころから様々な書に触れ、自ずと身についてきた感覚である。きっと葆で生まれ育った者たちの大半はそうだろう。

 文字に『意味』を持たせる方法とは?

 ふと、明麗の脳裏に先日皇帝が后に贈った冊子が思い出される。文章を読んであれだけ明瞭に情景が思い浮かんだことは初めてだ。書き手は若い文官だと言っていた。

 机の上の紙をすべて払い落とし、空いた場所に真っ新な料紙を置くと、明麗は筆先を墨壷に浸す。


「ちょっと! なんてことをするの」


 せっかく片付けたばかりの床に散らばった紙を一枚一枚拾いながら、頬を膨らませた孫恵が目くじらを立てる。彼女がいなかったらこのへやはきっと、一日も保たず足の踏み場もなくなるほど物が散乱するに違いない。


「ごめんなさい。ありがとう。申し訳ないのだけれど、これを書き上げたら兄さまのところへ届けてもらえる?」


 幸か不幸か小言に耳が慣れてしまっている明麗は、紙から視線も上げずに文字を綴り続ける。呆れた孫恵の嘆息も届いていないようだ。


博全はくぜんさまへ? それは構わないけれど」


 実家から届く十通の書状に対し、明麗が返すのは一にも満たなかった。大概が明麗の失態をどこからともなく伝え聞いた、父や兄からの説教などだからだ。稀に自発的に書簡を出したかと思えば、それは皇帝の元まで届いてしまう始末。


 李明麗が動くとなにかが起こる。それがここ最近の皇宮の常識になりつつあった。


 ◇


 慣れない環境で彼女が奮闘を続けているうちに季節は移ろい、緑豊かな雷珠らいじゅ山のふもとに広がる葆の宮処みやこは夏を迎えようとしている。やしきを出たときはまだ花の咲き始めだったスモモの枝もたわわに実り、ほんのりと赤みを増した果実はあともう少しで食べ頃になりそうだ。


 孫恵に書状を託した数日後、明麗は内宮と外宮との境にある庭にいた。直接会って話す、という兄からの返事が届いたためである。

 皇后の体調が優れないとの理由で本日の授業は休止。そのことを伝えたところ、博全は折り返しで時刻と場所を知らせてきた。

 朝から伝言に奔走してくれた孫恵には「たまには自分のことをしたいだろう」と休みをやり、同行を断って独りで待ち合わせ場所へと急ぐ。

 ふと明麗は足を止め、灰色で覆われた鬱陶しい空を見上げた。華奢な身体に、生温い湿り気を多く含んだ重たい空気がまとわり付いてくる。

 皇后の不調も、近頃のすっきりしない天気が関係しているのかもしれない。この時期になっても氷に触れたように冷たい百合后の指先を思い出し、明麗は眉を曇らせた。


 兄から指定された場所はすぐにみつかった。瓦葺きの屋根と柱だけの、風通しも見通しもよい四阿あずまやにはすでに博全はくぜんが到着しており、こんなところに来てまでなにやら難しい面持ちで書き物をしている。


「兄さま」


 水色の衿がついた白い上衣と群青色の裙という官衣に身を包み、髪もうなじでひとつにまとめただけの明麗が姿をみせると、博全はあからさまに眉をひそめた。


「なんだ、その格好は。家から届けた衣装はどうした。それに今日は孫恵を伴っていないのか?独りで出歩くなどして、なにかあったらどうするつもりだ」

「彼女にはお休みしてもらっています。皇帝陛下がおわす皇宮内でどんな事が起こるというの? それからあんな衣、動き難くて仕方がないわ。もうこれ以上は不要ですから!」


 着いたそうそう小言が始まった兄の向かい側にどすんと腰を下ろし、広げられていた料紙を盗み見る。父、宜珀ぎはくに似て、形の揃った文字が規則正しく並ぶそれは妻に宛てたものだ。脇には丸みのある柔らかな手蹟で、博全の名が宛名書きされた書状が置かれていた。

 妻に送る書簡にまでこんな堅苦しい文字を連ねるのかと、明麗は義姉に少しばかり同情の念が湧く。


「本当に義姉ねえさまは筆まめね」


 李家のやしきは皇城からそう離れていない場所にある。にも関わらず日に一度、時には二度三度と陽媛ようえんから文が届く。内容は「さっき知人の何某なにがしが訪ねてきた」や「英世えいせいが転んだが泣かなかった」など日常の些細なことがほとんどだ。

 それに対し博全は忙しい合間を縫って、いちいち返事をしたためる。というのも、結婚当初に無視し続けていたら、機嫌を損ねた陽媛が生家へと帰ってしまったのだ。妻を説得して連れ戻す手間を考えれば、ほんの一言でも満足する返事を届けたほうが楽。いまではそう割り切り、一児の母である妻とのままごとのようなやりとりに付き合っていた。


「おまえにもあるぞ」


 目の前に二通の書簡が差し出される。そのうちの一通は今目にしたばかりのものと同じ陽媛の手蹟によるもの。だがもう片方の宛名をみて、明麗は小首を傾げ念のために確認をした。


「これはわたし宛、でよいのですよね?」

「そのように書いてあるだろう」


 書状を手に取り顔の近くにまで持ってくると、まだ新しい墨の匂いがする。

『明』はなんとか読めた。となれば、その下の大きな墨の染みはたぶん『麗』なのだろう。画数が多いこの字は、筆を持つのもやっとの幼子には難しすぎた。とても文字としての形を成しているとはいえないのだが、それでも叔母を想う一生懸命さだけは十分に伝わってくる。


「英世でもこれだけ書けるのに」


 明麗は小さなため息のあと独り言ち、受け取った書簡を静かに置いて兄に本題を切り出す。


「それで――」

「陛下にお目にかかったそうだな」


 筆を筆置きに戻し言葉を被せてきた博全が、顔の前で組んだ手に顎をのせ妹を見据えた。向けられた視線の険しさに思わず姿勢を正す。

 皇后の殿舎でまみえた際の態度は、いくらお許しがあったとはいえ皇帝相手に馴れ馴れし過ぎただろうか。続くであろう叱責に身構える。


「で?」


 短く発せられた言葉の意図が掴めず、明麗は耳に手を添え兄に傾けた。


「兄さま。『問いは端的に』とはいえ、それでは簡潔すぎます」


 家訓のように聞かされてきた文言でも時と場合を選ぶ。眉間にシワを刻みつつ睨むと、博全は咳払いをして声を潜める。


「だから。陛下にお会いして、おまえはあの方をどう思ったと訊いている」

「どうって言われても……」


 自分などより兄のほうがよく知っているだろう。一旦は訝しんだが、建国前から琥家ともに歩んできた李一族が主君として戴くに値する人物であるか、という意見を求められたのかもしれない。思い直した明麗は、ただ一度会い少ない言葉を交わしただけの苑輝えんきから得た印象を、言葉を選びながら慎重に伝えた。


「誠に恐れながら。とても立派なお人柄とお見受けしました。筆遣いも深い思慮と公明さ、温かさが感じられる素晴らしいもので、兄さまたちがいつもわたしに聞かせてくださったお話から想像していたとおり……いえ、それ以上のお方だと」

「筆? ああ、いやそういうことではなくて。もっとこう、年頃の娘らしい感想はないのか?」


 今度こそ兄の質問を怪訝に思い、明麗は不審感を露わにする。言伝や書状で済む要件でわざわざ呼び出された挙げ句もったいつけられ、明麗は俄然不機嫌になっていた。貴重な休みを、兄の戯れ言に付き合って無駄にするわけにはいかないのだ。

 

「それで、あの葆国民譚を書いた文官というのは、どこのどなたなのですか?」


 強い口調で白い額を詰め寄せれば、博全は小さく舌打ちをして渋々紙に文字を書き付けた。


『秘書省書記部記録係 りん文徳ぶんとく


 記された聞き覚えのある姓名が、明麗の記憶の端から引きずり出される。守衛門で文徳と交わした、些か奇妙なやりとりは細かいところまで覚えているのに、肝心の彼の顔が思い浮かばない。それに所属が違う。同姓同名の別人だろうか。


「兄さまはこの方にはお会いになりました?」

「いや。その者の筆跡も見たことがない。――そんなに見事なのか?」


 葆に生まれた者としては、やはり興味を抱かずにはいられないのだろう。博全の喉が生唾を飲み込みゴクリと動く。


「ええ、それは……」


 だからなんの知識も持たない兄の文字からは、の者の情報が何ひとつとして感じられないのか。明麗は身を乗り出してきた博全に生返事を返し、林文徳という男の名を口の中で呟いた。 


「とにかく訪ねてみます。その記録係とやらが入る建物はどこにあるのですか?」


 耳にしたことのない部署の在処ありかを訊ねつつ博全の手元から紙片を奪うと、勢いよく立ち上がる。


「待て! 直接行くつもりか? まずは書簡を届けて……」

「そんなことをするのは時の無駄遣いというもの。では自分で探しますから結構です。義姉さまたちによろしくお伝えくださいませ」


 おざなりな礼をして去ろうとした明麗を、博全が慌てて引き止めた。


「待ちなさいと言っているだろう。奥仕えの女官が、簡単に皇宮の外へ出られると思っているのか」


 ということは、件の場所は皇城にあるらしい。後宮に勤める女官が門の外に出るには、事前の届け出に許可が下りるか公的な要件がある場合に限られる。そして今の明麗にはそのどちらもない。だが幸いなことに、ここには『公的な理由』をいくらでも作れる人物がいた。


「兄さま」


 これが赤の他人なら甘く蕩けさせられそうな声で兄を呼ぶ。満開の牡丹のような微笑みを浮かべ、黒曜石を思わせる瞳を輝かせて博全をみつめれば、兄は上体を反らせて視線から逃れようとした。だがしかし、明麗が溢れんばかりの好奇心に満ちた目を向けてした頼みごとは、この十六年間彼に断られた覚えがない。

 案の定博全は諦念の嘆息をひとつ零すと、おもむろに新しい紙を用意し筆に墨を含ませ文字を綴り始める。最後に署名と官印を印し、墨を乾かすように料紙でひらひらと数回宙を扇いでから明麗に手渡した。しかしながらその端正な顔には、公私混同ともとれる所業に対しての不本意がまざまざと表れている。


「いいか、今回だけだ。二度目はない。要件が終わったら直ちに帰れ。済まなくてもすぐ戻ってこい。余計なことはしないと約束しろ」


 時間が許すなら自分も監視役としてついて行きたいくらいなのだろう。博全は未練がましく紙の端から手を離さず言い含めてくる。

 指先から引き抜くようにして紙を受け取った明麗は、幼子のように薄紅の唇を尖らせた。


「そんなこと、言われなくても心得ています。この本を借りてくればいいのですね?」


 数冊分の書名に目を通す。どれも過去の租税の記録のようだ。


「記録係が入っている棟にある書庫に保管されているはずだ」


 明麗は頷き、二枚の紙を折たたみ二通の書簡とともに襟の合わせ目に挟む。それを落とさないよう重ねた両手で胸を押さえ、今度は丁寧に膝を折って辞去の礼をとる。

 その流れるような所作に控えていた従者が思わず熱いため息を漏らすが、その吐息が消えないうちに明麗は背を向けて走り出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る