師弟の関係《3》

 葆には皇帝が即位する際に行われる『奉元の儀』というものがある。

 新帝自らが定めた元号を書にしたため、雷珠山山中にある琥氏の宗廟に奉じ、国家の安寧を祈る。その書の出来具合が治世の行く末を左右するとまでいわれている、重要な儀式だ。

 多くの皇帝たちは、己の手蹟に全身全霊を込め一世一代の筆を揮う。だが、長い葆の歴史の中でも数名の皇帝が、その時代に名を馳せた書家に代筆させたという記録が残っていた。

 そして琥苑輝の父、望界帝が奉元の儀を執り行うときに代筆を命じたのが、文徳の養父である周楽文だといわれている。

 ところが結果として、望界帝は自身で筆を執った。当事者たちと当時の側近数名のみが知る詳細は様々な臆測を呼んだが、公には明らかにされていない。

 ただ、勅命をはね退けた周楽文の首は、身体から離れて跳ぶことはなかった。そして、皇城の端とはいえ未だ官職に籍を置いていられるのは、先帝が楽文の腕を惜しんだからだというのが通説だ。

 冷酷無情と評された望界帝さえ反意を許すほどの名筆。それが、周楽文が『生ける伝説』と呼ばれている所以である。


養父ちちは見様見真似で書いていた僕に、筆の持ち方から文字の意味や成り立ちまで教えてくれました」

「文字の、成り立ち?」

「そう。ただ形を写すだけでも内容は伝わるかも知れませんが、その文字がどうしてこの形になったのかということを理解すれば、自然と意味や使い方も覚えられます。そしてより、文字に伝えたい想いを込めることができるのです。たとえば、わかりやすい例で『山』という字は見たそのまま連なる山々の形を表しています。さらにその下に『石』をつけると山にある大きな石を指す『岩』という文字になり、この『石』は……」


 急に文徳が熱弁をふるいだしてしまう。初めのうちはその勢いに戸惑っていた明麗だったが、いつしか空いている椅子を引いて腰を落ち着け、彼の話に聴き入っていた。

 川の水が流れるように澱むことなく続いていた文徳の講義が、さすがに疲れたのか一旦途切れる。その僅かな隙をみて、明麗は先日皇后が書いた文字の件を尋ねてみることにした。

 筆筒から二本の筆を取り、まず一本を机の上に横たえる。


「数字の『一』はこういうことよね?」


 そして、その筆にもう一本を直角に交差させた。


「これが『十』。ということではないの?」


 新たな知識を吸収しようと教えを請う弟子のようだ。文徳は小さく笑って、筆筒からごっそりと残りの筆を抜き取った。


「『一』はたしかに一本線を表したものですが、『十』はそれに縦棒を加えたものではないのです。いくつか説があるのですが……」


 ありったけの筆をひとまとめにしたものが、明麗の目の前にかざされる。


「例えば。この筆を針だと思ってください。縫い針って、糸を通す頭のほうが少し大きくて、先に向かって細くなっているでしょう? こうしてたくさん……つまり十本まとめるとそれが顕著になる。その頭の部分が縦棒を飛び出して、線が交差したような形になったんです」


 裁縫や刺繍といったものから全力で逃げていた明麗は、いやいやながらに持たされた針の姿をおぼろげに思い出す。言われてみれば、針という字には『十』が使われている。


「だから、ただ『一』に縦線を足しただけでは、感字や看字としての『十』にはなりません。『十』を書こうと思わなければ……」


 また活き活きと講釈を始めた文徳だったが、明麗は両の掌を向け慌ててそれを遮った。いくらなんでも矢継ぎ早にたたみかけられては、理解が追いついていかない。

 困惑した面持ちの明麗に気づいた文徳が、自分の前に一枚の紙を置いた。筆を一本手にすると、丁寧に墨を含ませる。

 何気ない一連の動作は、いままでの愚鈍な印象の文徳からは想像できないほど滑らかで、余分な動きがない。

 筆先が紙の上に移動し、文徳の背筋がぴんと伸びる。軽い瞬きをしたかと思うと、ひと息にふたつの文字を書き上げた。


『一』と『十』


 明麗が瞬きもせずたった三画分筆が動くのを見守っていたその間、知らず止めていた息を静かに吐き出す。それは感嘆の色が濃くこもるため息となった。

 その様子を横目に、続いて文徳は『一』のほうへ躊躇いなくすうっと縦線を入れる。紙の上の文字がふたつの『十』に変わったかのようにみえた。だが――


「違う」


 同じ形のはずの文字が、明麗にはまったく別のものに感じられるのだ。とくに後から書き加えられたほうの『十』には、どうにも言い表せない違和感がある。心地悪さに眉をひそめれば、文徳は満足げに筆を置いた。


「わかりましたか? さすがですね。こちらは僕が『一』を意識して書いたものです。だから、あとから線を足しても『十』としては成り立ちません。これがなのです」


 一度文字として完成してしまったものに付け足しても、ちぐはぐな印象を与えてしまうのだ。明麗がこのふたつの『十』に覚えた相違の理由が解かれ、腑に落ちる。


「でも、皇后さまはちゃんと『一』や『十』を書こうとなさってるのに」

「こ、皇后陛下?」


 唐突に持ち出された貴人の名に面食らう文徳へ、明麗はここを訪れたわけをあらためて説明した。

 自分が皇后に書を教えていることや、その字が『文字』には思えないこと。あの葆国民譚の筆者なら、その理由がわかるのではないかと思ったこと。どうしても明麗の主観的なものが中心になってしまう話にも、文徳はときおり相づちを交えながら聴き入ってくれてる。

 文徳は、明麗が年若い娘だからといって体よくあしらうようなことはしない。その真摯な態度が、彼は年上の官人だということを明麗の意識から遠ざけていた。


 話し終えた明麗が、解決策を求めてすがるような視線を送る。文徳は自分の書いた字に目を落としてしばらく思案するような様子をみせてから、彼女にいくつかの質問を投げかけてきた。


「皇后陛下は、葆の言葉にご不便はないのですよね?」

「ええ。とてもお上手よ」


 少なくとも、いままで彼女との会話を不自由に思ったことはない。


「では、夢はお国と葆、どちらの言葉でみられるのでしょう」


 そんな話はしたことがない、と明麗は首を横に振って応える。話がみえずに困惑する明麗を、彼はさらに混乱させた。


「明麗殿は異国の言葉をしゃべれますか?」

「……ええ。隣接する国のものなら少し」


 邸に出入りする商人たちと直接話がしたくて、父母の目を盗み兄から教わった。だから簡単な日常会話程度なら可能だ。


「それはすごい! ええっと、僕はできないので想像でしかないのですが。他の国の言葉を理解するときって、その言葉を自分の国のものに置き換えませんか?」


 文徳が筆を持って左右に振ってみせる。


「異国の人がこれを指して『でーふー』と言ったとします。そうしたら『ああ、筆のことだな』というように、一度頭の中で変換してから理解する。それが、皇后陛下の中でも起きていらっしゃるのではないかと思うんです。だから文字にみえない」

「じゃあ、百合后さまは意識的にしろ無意識にしろ、葆のではなく祖国の言葉を思い浮かべているから、ということ?」


 心に浮かんだ言葉と書いた文字との隔たりによって生じたものが、明麗に伝わったのだ。孫恵も「異国人だから仕方がない」と言っていたことを思い出す。もしそれが原因ならば、皇后はこの先もずっと感字や看字を書くことができないということになってしまう。


「……百合后さまは、陛下のお名前を書きたいっておっしゃってるのに、無理なのかしら」


 皇后は、先日書いてもらった自分の名のお返しに、苑輝の名を書にして贈ることを日々の練習の励みにしているのだ。


「そんなことはありません。数カ国語を母国語並みにに操れる人がいるように、皇后様も文字とこの国の言葉とが自然と結びつけられるようになれば、きっとを書けるようになられますよ。技術や理屈などよりも、そこに込める想いが一番大切なんですから」


 決して力強い語調ではなく、あくまでのんびりと穏やかなものだった。だが彼の筆運び同様に迷いも曇りもない言葉の中に欺瞞は感じられず、明麗の心に素直にしみる。祖国を離れ必死にこの国に溶け込もうとしている皇后の希望を奪わなくて済むのだと、明麗自身が安心させられた。


「ねえ。あなたが皇后さまの書のせんせいになってはもらえないかしら?」


 カタン、と筆が落ちる小さな音がした。机上を片付けていた文徳が驚いて取り落としたものだ。


「そ、そ、そんなこと、無理に決まってるじゃないですか!?」

「どうして? あなたほどの腕前なら、なんの問題もないと思うのだけれど。だいたい、なんでこんなところにいるのよ。採試の合格者なんでしょう?」


 文徳の腰に下がる璧が狭き門を通ってきたことを証明している。通例なら皇宮内で将来要職に就くために、それ相応の部署に配属されるはずだ。いくら考えてみても、薄暗い書庫で本に埋もれている理由がわからない。


「ああ、それはまあ。いろいろとありまして……」


 眉と肩を下げた様子は筆を握っていたときとは大違いで、なんとも頼りなくみえる。


「皇后陛下の師匠になれば、今後の出世にも有利になるはずよ」

「そんなものは別に望んでいません。なにより、男の僕が後宮に出入りできるわけがないじゃないですか」

「あっ……」


 重要なことを失念していた。女官が外に出るのが面倒なのと同様に、皇宮の奥に一般の官吏が足を踏み入れるためには様々な制限が伴う。皇帝の妻の元を訪れるとなれば、なおさらだ。今度は明麗ががっくりと肩を落とした。


「大丈夫ですよ。甥御殿を、あれだけ叔母君を想う気持ちのこもる感字を書けるようにしたあなたなら、十分にお役目が務まるはずです」

「でも、どうお教えしたらいいのか」


 生まれたときから慣れ親しんできた母国の言葉より葆の言葉が自然に浮かぶようになるには、ここで同じだけの年月を過ごす必要があるようにも思える。それではあと、十五年以上もかかってしまう。そんなに気の長いことでいいのだろうか。

 明麗は考えに行き詰まる。すると再び、文徳は筆を執った。


「さっきもお話ししましたが、文字にはその形を模したものが多くあります。そういったものから始めるのはどうでしょう?」


 そう言うと、十がふたつ書かれた紙の余白に文字を書く。今度は三画だ。それをふたつ。


「山?」


 同じ文字なのに、またしても受ける印象はまったく異なる。文徳が問いを解いてみせろと挑戦的な笑みを向けた。

 それを受け、食い入るように『山』を見比べていた明麗の目の前に、あるふたつの風景が広がる。


「こっちはなだらかな、山というより小高い丘のような低いもの。そしてこれは、ごつごつとした険しい岩山。違うかしら?」


 文字を指差したまま、上目で文徳の反応を探る。


「やっぱりすごいなあ」


 パチパチと無邪気に手を叩くので正解したらしい。だが、明麗の面持ちは複雑だ。


「すごいのはあなたのほうよ。同じ文字でこれだけ書き分けられるなんて。まるで絵を見ているみたい……」


 はっと気づいて明麗は文字から顔を上げ文徳をみると、笑みを深めて頷く。


「そう。絵を描くつもりで文字を書いてみるのです。たとえば目の前に小石を置いて、それを見ながら『石』という文字を練習してみる。文字と表すものが一致すれば、自然とそこにがこもる」 


 文徳はさらに『山』をいくつも書く。若葉に萌える春の山。真っ白な雪に覆われた冬山。子どもが作った砂山のように脆いもの。そして――。


「雷珠山……」


 小さな紙の一画には、頂に万年雪を冠し、北壁として宮処を守る霊峰が現れた。


「こんなふうに、身近なものを表す文字から始めてみてください」


 明麗は「さすがにこれは無理よ」と苦笑するが、文字に想いを込めるためののようなものが少し理解できた気がした。

 もののついでに、もうひとつ質問してみる。


「どうして、全部を一枚の紙に書いたの?」


 机の脇にはまだたくさんの紙が置かれている。せっかくなので、手本としてもらい受けて皇后に見せようと思うのだが、なんとなく体裁が悪い。比べるため、というわけでもなさそうだ。


「え? だって、場所が空いているのにもったいないじゃないですか」


 彼の口調に本気が感じられ、まさか皇后は『十』ひとつに料紙を一枚使っていたとは言えなくなってしまう。


「そ、そう。どうもありがとう。とても参考になりました。じゃあ、これはいただいていくわ」


 隙間なく文徳の文字で埋められた紙を手にして立ち上がった明麗を、「あっ」と文徳が声を上げて引き止める。


「こちらをお忘れですよ」


 名目上の目的である博全に頼まれた書物を、すっかりそのまま置いて帰ろうとしていたのだ。

 顔を紅くする明麗に、文徳はぱらぱらと中身に目を通してから手渡す。


「これって、中書省の李博全様がお使いになるんですか?」


 不審げに訊ねられる。たしかに、納税の記録などは尚書省のそれも戸部の管轄だ。明麗がここへ来る理由を作るために、適当に選んだものなのかもしれないが、それはいま、彼女にはわからない。

 曖昧な返事を返すと、「じゃあ関係ないのかな」と話を終わらせようとする。


「ちょっと! 気になるでしょう。これがどうかしたの?」


 中途半端は気持ちが悪いと詰め寄る明麗の強い口調に恐れをなした文徳は、さっきまでの饒舌が嘘のようにぼそぼそと話し始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る