糾明の糸口《3》

 今日はよく走る日だ、と考えている余裕などない。花街への道程とは比較にならないくらい義侑の足は速く、明麗独りでは瞬く間に見失っていただろう。義侑と明麗の間を行く文徳に、どうにか喰らいついていた。

 文徳がときおり振り返り、後続の明麗を確認する。ここで自分が脱落すれば、彼は義侑を追うことを止めてしまうかもしれないと思うと、限界を無視して走り続けるしかなかった。

 明麗が足を休めることができたのは、人の多い大きな道まで出てからだ。空箱を積んだ荷車の陰に身を潜めた義侑の姿を隠すように、文徳が通りに背中を向けて立っていた。

 笑う膝を労い肩で荒い息をする明麗を、道端に座る義侑は不思議そうに見上げる。


「なんでおばさんがいるんだよ。変な格好までしてさ。あの、ヒラヒラしてるほうが似合ってたのに」

「あなたを、捜して、いたんじゃない……って、どうして、すぐ、わたしだって、わかってしまう、の?」

「だって、ますます英世と同じ顔に見えるもん」


 息絶え絶えに言葉を繋ぐ明麗に対して、義侑はいまにも再び逃げ出しそうだ。ふたりの隙間から辺りを伺い、追手を警戒している。

 

「なにをしでかしたの? まさか盗みなんて……」

「してないよ!」


 義侑は自分の出した大声に焦り、口を押さえて周囲を見回した。変わらぬ人の流れに安心すると、ゆっくり口から離した手で膝を抱える。


「あそこに子来がいるかもしれないって聞いたんだ」

「みつかったの? 良かったじゃない」


 そのうえ落ち着き先が紙舖の下女ならば、妓楼で再会するよりはるかにいい。ところが義侑の表情は、硬く曇ったままだ。しきりに追捕を気にする様子からして、塀の内でよほど怖い目に遭ったのだろう。明麗は義侑の柔らかい髪の上にため息を落とす。


「次からは、彼女の仕事の邪魔をしないよう、先方の事情も考えて訪ねることね。まあ、あんな騒動を起こしたら、会わせてもらえるかわからないけれど」

「……仕事? あんなのが仕事なわけない!」


 義侑が勢いよく顎を上向ける。睨むように見つめ返された瞳の奥には、怒りの灯が揺らいでいた。


「奉公だもの。お父君と暮らしていたときのようにはいかないでしょう。でもそれは、しかたのないことよ」

「文字を書かされることが?」

「読み書きを習わせるなんて、良心的な主人ね」


 紙を商うためであろうが、殊勝な心掛けではないか。明麗は店の外観をけなしたことを心の中で詫び、書道の時間を抜け出してきた義侑のおでこを指で小突く。


「自分が嫌いだからって――」

「ちがう!」


 義侑は明麗の手を弾き、千切れるかと思うほど激しく首を左右に振りって眦を釣り上げた。


「だって、外も見えない房に閉じ込められて、一日中書かされているんだ。あれが書の練習のはずがない」

「閉じ込めて? どういう意味」


 義侑は懐から丸められた紙を取り出し、明麗たちに突きつける。受け取った薄紙を慎重に広げると、そこには『永』がいくつも書かれていた。書の基本となる技法が全て含まれる文字を、延々と練習していたのだろうか。

 だが、その拙い字をひと目見て顔色を変えた文徳は、明麗の手から紙を奪って裏表をくまなく調べたあと、丁寧に折りたたんで自分の衿元に差しこんでしまった。


「とにかく、劉家に帰らないと。話は歩きながら聞きます」


 義侑に背中を向けてしゃがむ。


「自分で歩けるよ」

「紙舗からの追手が捜しているのは、高い塀を軽々と乗り越えられる少年でしょう? 背負われている幼子とは思わないはずです。でも、念のため顔は伏せていてくださいね」


 明麗は、渋々ながら従った義侑を背中に乗せた文徳と並んで、劉邸を目指して歩き始めた。


「あの店は、月に何度か、西下の子どもたちを集めて文字を教えているらしいんだ」


 額を文徳の肩にくっつけたまま、義侑がぽつぽつと話す。その声は、文徳と袖が擦り合うほど近づかなければ聴き取れない。


「それに通っているヤツから、子来っぽい女の子を後園うらにわでみかけたって聞いて」

「忍び込んだのね?」


 無謀を呆れながらも、警吏の詰所での対応を体験したばかりの明麗には、義侑が大人を頼らなかった理由が身に染みてわかってしまう。


「奥の方でみつけた棟の中から泣き声みたいのが聞こえてさ。屋根に登って、上の方にあった小さな窓から覗いたら――本当に子来だった」


 連子の隙間から小石を投げ入れると、彼女は泣きはらした顔をあげて、逆さまに覗く義侑に気づいた。横になるのがやっとという房内には小さな机があり、その上に書道具が用意されていたそうだ。


「うわあ。なんだか、採試のときの号舎みたいだなあ」


 過酷さで有名な試験会場を思い出したのか、文徳が苦い顔をする。暗く狭い空間で孤独と重圧に負け、発狂する者が出る年もあるという。そのような場所に、童女が堪えられるはずもない。

 

「字を覚えたいっていう子来のおねがいを聞いてやればよかった。おれがちゃんと勉強して、教えてあげていたら……。そうしたら、あんな店に行ったりしなかったかもしれない」


 まだいとけない手が悔恨に震え、すがるように文徳の肩を強く掴む。


「信じてもらうには子来がいる証拠が必要だと思って、なんとかあの一枚だけ持ってきたんだけど。使えるかな?」


 狭い房の床にはたくさんの紙が散乱していたが、書いていた文字はただ一種類。顔も入らない小窓から枝を落とし、身振り手振りでその書を渡すよう伝えた。紙を枝にくくりつけた子来が机にのって腕を目一杯伸ばし、ようやく枝先が届く。「必ず助ける」と口の動きだけで約束し、塀を越えようとしたところをみつかってしまったのだ。


「お手柄です。あとは劉将軍がなんとかしてくれるでしょう。だから、もう危ないことをしちゃいけませんよ」


 義侑は返事をせず、文徳の背中に顔を埋めてしまった。ほどなくして力の抜けた腕が垂れ、静かな寝息を立てはじめる。

 寝た子を起こさないよう、明麗は小声で尋ねた。


「義侑が嘘をついているとは思わないけど、すべてを鵜呑みにはできないわ」


 使用人の扱いは、その家の主の采配次第で大きく変わるものだ。実際のところ、子来がどのくらいの期間拘束されているかは定かでない。不始末を犯した者への懲罰として、一時的にその房へ入れたという可能性も十分考えられる。それでも文徳は、義侑の話の中になにかの確信を得たようだった。

 そして、思い当たるものは明麗にもある。


「ねえ、文徳。あの書は、なに?」

「あれは双鉤填墨そうこうてんぼくで書かれたものです」


 書に薄い紙をのせ、輪郭をなぞって形を写し取る手法は古くからあり、名筆などの複製を作る際によく用いられる。高い技術をもつ職人の手にかかると、真筆と見紛うばかりのできになるというが、しょせんは謄写。文徳の目はごまかせないだろう。それでなくとも秋子来の書は、あまりに稚拙なものだった。


「字形を学ぶ方法のひとつとして間違ってはいないし、双鉤填墨自体は違法でもありません。でも……」


 雑踏の中、声をさらに低くする。


「子来という子どもが複写した文字は、おそらく宸筆。皇帝陛下の御手蹟です」


 北を目指し歩いていた明麗の足が止まった。その場に膝をつきそうになるのを堪えるだけで精一杯だ。

 皇帝の手蹟を偽造するは大罪。たとえ臨書用の手本だろうと、その筆蹟が市井に出回るなどあり得ない。


「それは間違いないの? 文徳は陛下の御手蹟を知っているの?」


 皇后に仕える明麗とて、苑輝の直筆を間近で目にした機会は数えるほどである。それは、秘書省に属するとはいえ下位の一文官にすぎない文徳も、さほど変わらないはずだった。


「恐れ多くも、陛下に氏名を書いていただいたんです。戦火で焼けた命名書の代わりに宝物にして、穴があくほど眺めていますから」


 さらりと言ってのけ、夢心地でほんのりと耳の縁を赤くする様に、明麗は既視感を覚える。皇后が夫から手本を受け取ったときとよく似ていた。


「……ずるい」

「はい?」

「でも、読み書きもままならない子どもが書いた字よ。それを陛下のものだというのは、ちょっと早計ではなくて?」


 悔し紛れに顎をあげて指摘してみるが、文徳はゆるんでいた顔を引き締め断言する。


「だから、ですよ。文字を知らない、文字が持つ意味のわからない子どもだからこそ、陛下の御心を再現できたんです」

「あんな下手な字で?」


 極細の筆でなぞった輪郭は頼りなくよろめき、塗り方も筆脈など無視された雑なものだ。双鉤填墨の仕上がりとしては、目も当てられない。それでも文徳は、元となった書は皇帝のものだと言い張る。


「たぶん陛下は、『永』に格別な想いをお持ちなのでしょう」

「永菻の永だもの、当然だわ」


 葆の宮処を置くとともに琥氏一族の家郷でもある永菻という土地に、国主として、氏族の長として、深い思い入れがあることは疑いようがない。そして、その名を示す一字にも……。

 明麗が同意すると、文徳は嬉しそうに大きく肯き、揺れた背中で義侑が身じろいだ。寝入っていることを確かめると、文徳は大路の先――皇城よりもさらに北を見晴るかす。


「陛下の永は、ここ、永菻そのものなんです」


 一画目のは、雷珠山に建つ宗廟の如く厳かに置かれている。横画は、琥氏に加護を授けるという龍の頭。そこから伸びる縦画はその龍の体躯とも、南北を貫く大路とも取れた。力強い跳ねが外敵を退け、五画目のサクと七画目のタクは、各地から宮処に集う人や物資を表す。左払い右払いなど、雷珠山の裾野の広がりとしか見えない。

 あの双鉤填墨で書かれた『永』のどの一点一画をとっても、皇帝がこの地のとこしえの安寧を願う気持ちに溢れていた。自分が住んでいる場所が『永菻』と記されることも知らぬ流民の子どもに、それを表現できるとは考え難い。むしろ、永という文字になんの先入観も持たないからこそ、形ではなく、皇帝の想いをそのまま写し取ってしまったのだろう。


「人と物が集まる地……」


 明麗があらためて沿道に目を向ければ、東の海で捕れた海産物や北の大地に棲む獣の皮などが店頭に並んでいる。路地に敷物を広げ、鮮やかな色彩の鳥の羽を使った装飾品を売るのは、片言の葆語を話す明るい髪色をした異国の商人だ。


「技術のいる臨書では、とうてい彼女には無理。だからといって、書に通じた大人の双鉤填墨でも不可能。陛下の強い想いを写し取れたのは、秋子来が書に対して真っさらな状態で筆を執ったからです」


 皇帝の筆蹟が、なにも知らない子どもの手によって作り出されるという事態に、明麗は恐怖を覚えた。


「誰が、なんのために、なんて、ここで考えていてもしかたがないわね」


 どう転んでも、良からぬ思惑が絡んでいるのは間違いない。まずは義侑を無事に邸まで送り届けることが先決だ。追跡の手が迫ってはいないか、明麗は背後を気にして振り返る。


「おっ! みつけた。あそこにいたぞ」


 人波をかき分け近づいてくる濁声や足音はかなりの数だ。それも一方向からだけではなかった。


「文徳、どうしよう」


 義侑をしっかり背負い直した文徳が、あけた右手で明麗の手を握る。


「逃げるしかありませんね。詰所まで辿り着ければ、さすがになんとかなります」


 一目散に駆け出すが、すぐに行く手を塞がれた。複数の人の気配が四方八方から迫り身動きが取れない。


「捜しましたよ、お嬢さん。おや、劉の坊ちゃんもご一緒でしたか。こりゃ、好都合」


 額に大汗を流して立ちはだかり、文徳の背中で眠る少年を見留めた男の顔には見覚えがある。戸惑う明麗に男は背を向け、手を大きく振った。


「おおーい、こっち! ここですぜ、将軍!」


 砂煙を伴う蹄の音がやってくる。義侑の瞼は、いつの間にかぱっちりと見開かれていた。


「こちらのお嬢さんと坊ちゃんで合ってますかね?」

「ああ、手数をかけたな。が、そもそもお前たちが親身になっておれば、これほど面倒にはならずにすんだものを」

「そうおっしゃいますが、自分らの素性も迷い子の名もはっきり告げないんじゃ、怪しすぎるってもんでさあ」


 文徳から銀子を根こそぎ巻きあげた警吏は漆黒の馬の騎手に向け、いけしゃあしゃあとうそぶく。劉剛燕と天河が揃って、鼻を鳴らした。


「不審者を確保するのも、そなたたちの勤めではないか。職務怠慢を問いたいところだが――」


 取り巻く警吏たちの息を呑む音が聞こえる。剛燕は、馬上から男装の女官と愚息の姿を見下ろし、顎ヒゲをしごいて太い眉を寄せた。


「その成りじゃあ、ちょいと無理か」

「父さん! 子来を助けて」


 義侑が叫ぶ。勢い余って、細い腕が文徳の首を締め、蛙を踏み潰したような呻きが聞えた。


「助けろとは穏やかではないな。どこぞの屋敷で、古株の女中にでも苛められているのか」


 真剣な息子の訴えを茶化す。明麗は思わず剛燕に詰め寄った。


「そんな単純な理由ではないわ! 陛下の……」


 いったいなんの捕物だと物見が集まりだした街中で、大逆に繋がる可能性を含む問題を放言しそうになり、慌てて口をつぐむ。しかし剛燕は、耳聡く単語を拾った。


「陛下?」


 とたんに剛燕の声色と表情に険しさが増す。巨躯を感じさせない軽やかな身ごなしで馬から降りると、義侑を猫の仔のを掴むように文徳の背から剥がし、馬上の従者に引き渡す。次いで、明麗を高々と持ち上げ天河に乗せてしまった。


「いろいろ訊きたいことは山ほどあるが、まずは邸に戻らねば。おまえさんの友人の心臓が停まりかねんからな」

「孫恵の!?」

「届けられた衣裳一式を見て、白目をむき卒倒しかけたらしい」


 気を利かせた雪晏の厚意だろうが、事情を知らぬ孫恵からすれば、明麗が拐かされたと勘違いしてもおかしくはなかった。


「当家のもてなしが退屈だったのなら申し開きもできないが、せめて行き先くらいは伝えておいてやれ」


 剛燕は再び自らも愛馬に跨がり、萎れる明麗の後ろから手綱を握った。


「劉将軍」


 文徳が地上からもの言いたげに呼びかけると、剛燕は目線をおろし首肯する。


を送り届けたら、今宵伺おう。そのツラでは、どうやら酒がまずくなるような話らしいな。せめて旨い肴を用意しておいてくれんか」

「え? ああ、はい。……善処します」


 尻すぼみの語尾が、馬首をめぐらせた天河のいななきにかき消された。

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