陰謀の発露《1》

 塗りが剥げたみすぼらしい門をくぐった先は、思いのほか小綺麗な店舗だった。


「わざわざおいでいただかなくとも、こちらからお邸まで参りましたものを」


 紙舗の店主を名乗ったそうせいという五十がらみの男が、腰を低くして挨拶をする。飛び込みの客にもかかわらず追い返されなかったのは、さすがに李家の次期当主を門前払いするわけにはいかなかったのか。


「なに、近くまできたついでに足を伸ばしたまで。それに、高値の品ばかり持ってこられてもつまらん」

「結局は書き手や文字との相性ですからねえ。高ければ良いとは限りませんし」


 通された間で、文徳は次から次に出てくる幾種類もの紙の色合いや手触りを確かめていく。博全が出された茶に口を付けたまま、視線で目当の品の有無を尋ねた。それに文徳は、首を横に振って応える。

 ふむ、と博全は茶杯を置いた。


「店主。いまこの店にあるものは、これですべてか? 手習いを始めたばかりの童子にはどれも向かぬようだ……と、息子の師が申しているのだが」

「おや。こちらのお方がご子息の……」


 それまで従者だと思っていた見映えのしない若者が名門李家で書を教えていると聞き、宋惺は少なからず驚いたようだ。それは文徳も初耳で、思わず手を止める。


「聞いた話では、こちらでは子どもたちを集めて、読み書きを教えているそうだな。ならば、適した紙をよく知っているのではないか?」


 いきなり本題に斬り込む博全に、文徳は動きを止めたどころか目玉を剥いた。一方、宋惺は内心の読めない薄ら笑いを浮かべる。


「宮処の外れで、近所の悪童を集めて私塾のまねごとをしておるだけでございます。――どちらでその話を?」

「主上は、この国のすべての民に文字を識る権利を、とのお考えをお持ちでな。その一環で、公による学舎の設立や私塾への補助をご検討なのだ。ゆえに、市井の情報を集めていらっしゃる」


 皇帝の御意を、博全が宋惺以上に涼しい顔で告げる。それが、探りを入れるための方便だという可能性も忘れて、文徳が思わず訊き返した。


「本当ですか!?」

「偽りを申して、どのような得がある?」


 じろりと睨み返され首を縮める。


「読み書きできる者が増えれば、紙は言うまでもなく、筆や墨の需要も高まるだろう。官でも工房を抱えてはいるが、いずれは宮城で使用する分にも事欠くようになるやもしれん。――この店は、紙以外の取り扱いはないようだな」


 室内を見渡した博全は、狡猾な笑みをたたえて、宋惺を甘言で誘う。店主の耳には、「は口利きをしてやってもよい」と聞こえたはずだ。宋惺の警戒心がわずかながら緩んだようにみえた。


「あいにくといまは、紙と――少々の書画を扱うのみですが、墨も筆も仕入れ先に心当たりがございます。お任せくだされば、必ずやご満足いただけるお品をご用意できるかと」


 博全は鷹揚に肯く。


「ときに店主。あれは本物か? ぼくかいの書のようだが」


 壁にある軸を指して尋ねると、宋惺は大仰に相好を崩し、恭しい手つきで外した書を博全の前に広げた。

 卜海の筆致は、その名のように雄大で、ときに荒々しい。それが最大限に活かされた、大自然の美しさや厳しさを描いた書を得意としていた。


「おわかりになられましたか。もちろん真筆にございます。こちらは卜海が赴任した東の地で、新年の宴の余興の際書かれたものだと伝わっております」


 文徳も身を乗り出し、大河が注ぐ海から太陽が昇る元旦を言祝ぐ詩の一節を凝視する。

 

「凪いだ大海の水平線から顔を出す初日。私は未だ海というのもを見たことがないが、この感字にはどこか懐かしささえ覚える」


 細めた目で眩しげに書をみつめる博全の傍らで、文徳が奇声を上げた。


「うわっ! こんな、に――」

「に?」

「あ、そうそう! こんなふうににじみを使うなんてさすがだなあ、と。ええ、本当に。これは高度な技巧です」


 海面に映る朝日を表したかのように、輪郭を曖昧にした墨蹟をなぞる。

 その手元ではなく引きつる文徳の頬を認めたは博全は、鋭角的な顎を撫でる手の下で人の悪い笑みを作った。


「ふむ。なるほど、これは良いものをみつけた」


 懐から取り出した錦の銭袋が、重たげな音とともに卓子に置かれた。


「手付けだ。ほかにも見せてくれ。気に入る書があれば、いくつか持ち帰りたい」

「これはこれは、ありがとうございます。少々お待ちを」


 扉口に控える小間使いの娘を残し、店主は自ら厳選するため退席していった。

 博全が卓面を人差し指で叩いて文徳の気を引き、卜海の書を示す。それに文徳は眉根を寄せ、苦虫を噛みつぶしたように表情を歪めてみせた。


「そこの娘」

「は、はいっ!」


 博全に声をかけられた娘が弾かれたように俯けていた顔をあげると、尊大な口調とは裏腹に極上の笑みを魅せる。年頃の娘には、明麗の顔から愛敬を抜き、涼やかな落ち着きを足した美貌は、十分な効果をもたらした。


「茶が冷めてしまった。すまないが、新しくしてはもらえぬだろうか? 私は火傷するほどに熱い茶が好みだ」

「ただいまお持ちいたします!」


 不作法な願いにもかかわらず、彼女が頬を染めながら房から出ていくと、客であるふたりだけが残された。

 文徳は長い息を吐き出して、肩から力を抜く。


「まさか、いきなり卜海の偽物が出てくるなんて思いませんでした」

「文書だけでなく、書画の贋作まで手がけていたとは」


 身勝手なもので、卓上の書が偽物だといわれたとたん、神々しささえ感じた初日の出が、子どもの落書きにみえてしまう己の目が信じられなくなり、博全は冷めきった茶を苦々しげに飲み干した。


「まさか、当家の家宝は大丈夫だろうな」

「それは間違いなく」


 文徳は断言する。つい数日前、李家で博全に屏風から引き剥がされるまで卜海の手蹟を堪能したばかりなのだ。二百年の昔に生きた書聖の数少ない肉筆を間近で見た衝撃は、そう簡単には消えそうもない。今、この瞬間にも瞼を閉じれば、大胆かつ荘厳な筆致がまざまざと眼裏によみがえってくる。

 ここにある書とは、圧倒的にが違う。


「どうしてこれが偽筆だとわかった?」


 当然ともいえる素朴な疑問に、文徳は頭を掻く。左右の壁や天井に視線を動かしながら、言葉を探した。


「これを書いたのはきっと、海の近くに住んだことがある若い人なんだと思います。こちらの筆勢は、良くも悪くもまだ若い。たとえばこの『光』の終筆。過剰な力みにより筆がいます。卜海の手蹟がもつ芯のある力強さと、若さゆえの勢いの違いなのでしょう」


 李家にある卜海の書は、彼が皇宮で官吏をしていた壮年期ものだ。どちらかといえばまだそちらに近いが、そうなると書かれた年代が変わってきてしまうことを指摘する。


「卜海が政争に巻き込まれて東に行ったのって、晩年近く――六十を過ぎてからでしたよね」

「ああ。そのまま彼の地で没したはずだ」

「だからかな。博全さまがこの書から感じとったのは、同じ望郷の念でも、遠く離れた海辺から馳せる宮処への想いではなく、筆者が抱く故郷の海へのものではないでしょうか」


 最後は自信なげに首を傾げる。訊いた博全も納得したようで、まだどこかに不満が残るような、複雑な面持ちだ。単純に字の形だけなら、筆を入れる角度や横画の上がり具合など、卜海の特徴を捉えて非常によく書けているのだから無理もない。

 つまるところ、文字にこめられたの違いというしかないのだが、それの感じ方は十人十色。直感を他人に理解してもらうのは至難の業だった。

 

「けど、ここまでそっくりに模写できるなら、潔く複製として売ればいいのに。紙を加工してまで……」


 経年による紙の劣化や色の変化、虫喰いまで再現しているのだ。本物に見せかけるためにどれだけの手間暇をかけたか、文徳には想像もつかない。


「それは仕方がなかろう。売値が天と地ほど変わってくる」


 どれほど精巧でも、しょせんは模造品。もし本当に卜海の手蹟によるものならば、金塊でいっぱいにしたあの巾着が十袋あっても足りない。利を求める商人としては、禁断の誘惑に抗えなくとも無理はない出来だった。


「この技術をもってしたら、一文官の筆蹟をまねることなんて造作もないんでしょうね」


 博全の命を受け、偽のよう祟啓すいけいの署名を使って休暇を取った文官の郷里を訪ねた李家の手の者が、先日戻ってきていた。

 初めは知らぬ存ぜぬを通していた文官だったが、この訪問は非公式であり、ありのままを話せば、李家がその身を保証すると言いくるめ、ようやく重い口を開かせることに成功したという。博全は、仕事を成し遂げて戻った家僕を「口先だけは達者なのだ」と評した。


「それにしても、返すあてのない借り入れをして、その皇宮しょくばから書蹟を持ち出すなど、不届き極まりない」


 報告を思い出した博全が憤慨する。

 借金が膨らみ首が回らなくなった官吏は、宋惺の求めに応じて手に入れた書を渡していたのだ。そのうえ腕に覚えのある者に至っては、偽書作成にも関わっているようだとの情報も得ている。

 父親の病の知らせが届いた件の文官は、いつまで経っても休暇の許可をもらえず痺れを切らし、楊祟啓の筆蹟と引き換えに届書の偽造を依頼した。しかし結局死に目にはあえず、永菻に戻っても偽書の発覚を恐れて気が休まらない。独り残された母親の面倒をみるという理由をつけ、帰郷を願い出たのだった。

 徐々に明らかになっていく事柄があれば、新たな謎も生まれる。


「偽物が作れるということは、ここに本物があるのでしょうか」


 希少な卜海の書だけではない。泥酔したかく惟信いしんが、この紙舗でいくつもの名だたる書家の作品を目にしたと、自慢げに話していたのだ。もしそれらがすべて真作だとしたら、莫大な価値になる。一介の紙舗が私有しているとは考えにくかった。


「それもついでに確かめればいい。呼子は持っているな?」

「ここに」


 文徳は首にかけた紐を引っ張り、胸元から小さな笛を取り出す。今日、李家を出立する前に、剛燕から渡されたものだ。


「では打ち合わせどおりに、秋子来という童女を発見次第、思い切り吹け」


 それを合図に、剛燕が店の外で待機させている警吏たちが突入する手筈となっていた。


「――なんで僕なんですか」

「私が徘徊していたら、いかにも不自然ではないか。ほら、早くしないと見張りが戻ってきてしまう」


 不安顔の文徳を追い払うように、博全が手を振る。


「でも商家って、護衛の衆とか雇っていますよね? まったく影も形も見えませんでしたけど、本当に劉将軍たちはいるんですよね?」

「心配無用。ヤツは父親の威信にかけても、この件を片付けるはずだ。早く捜しに行かぬか」


 なおも文徳は渋るが、急かされたうえに義侑の顔がちらつき、ようやく腹を決めて戸口へ向かう。ところが、肩を落とした丸い背中を、「そういえば」と博全が呼び止めた。


明麗いもうとには、今日のことを話したのか?」

「いいえ。あの日以来、会っていませんから。書の練習にも来てませんよ」


 文徳も、てっきりあれやこれやを聞きに来るものだと身構えていたので、少々拍子抜けしたくらいだ。

 文徳の返答を聞いた博全は、不審に満ちた顔で眉間に深いシワを寄せる。


「なんの音沙汰もなく、後宮からも出てこない。……妙だな」

「新年の準備で忙しいのでは?」

「あれになにができるという」

「……すみません」


 八つ当たりじみた口調で睨まれ、文徳は反射的に謝ってしまう。


「籠の外がどれだけ危険なのかがわかったというだけならいいのだが、おそらくそうではないのだろうな」


 ため息混じりに独りごち、頭を抱えてしまった博全を独り残して、文徳は廊へ出た。


 日光が劣化を促す紙を商うのだからおかしなことではないが、どこも締め切られていて、通りすがりに内部を覗くのは困難だ。それでもどうにか手がかりを探そうとする文徳の挙動は、いかにも不審だった。


「お客人。どちらへ行かれます?」


 案の定、いくらも進まないうちに、屈強な男に止められてしまう。文徳は、あらかじめ用意していた言い訳で切り抜けようとした。


「あの……小用を足しに……」

「それならあちらで。案内しましょう」 


 男は無頼の徒というよりも武人といった足取りで、先導を切って歩きはじめる。


「あ、大丈夫です。場所さえ教えてもらえれば」

「口で説明するには難しい場所でして」

「……お手数をおかけします」


 やはり、使い古された手は通用しなかった。腕力も脚力もとうてい敵いそうもない相手にあっさり観念して、文徳は男の後ろをついていく。

 主人用の軒車や荷車から農具などまでが雑多に置かれた後園うらにわに出ると、うまやくりやなどのほかに、蔵のような閉鎖的な建物がいくつか見受けられた。義侑が聞いたという、少女の泣き声でもすれば話は早いのだがと、文徳は耳を澄ませる。すると表のほうから、幼い声とはほど遠い、耳障りなだみ声なら聞こえてきた。

 それにどことなく既視感を覚え、文徳は足を止める。案内の男も気づいたようで、声のする方向へ険しい顔を向けた。


「どうしたんでしょうね」


 言い争っているような気配は、止むことなく続く。


「喧嘩かな。なにか揉めているみたいじゃないですか? 気になるなら、どうぞ行ってください」

「いや、しかし……」

「この先ですよね? わからなったら、どなたかに尋ねますから」


 男は束の間逡巡していたが、見た目も喋りもどことなく間が抜けた感じを醸す文徳よりも、すでに起きている騒動の収拾を優先することにしたようだ。胸の前で両手を重ねる。


「賊に間違われかねません。くれぐれも不用な場所には立ち入られませんよう、お気をつけを」


 脅しともとれる注意を残して、男は足早に去っていった。

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