夫婦の確執《1》

 が決行されたのは、五日後のことだ。

 告げられた時刻は夕餉のあと。皇帝の政務が終了してから、ということは納得できる。だが、皇后の元から案内の女官がやってきたのは、それより一時辰(約二時間)近くも前のことだった。

 夕食直後でまだなにも用意もしていなかった明麗と孫恵は、慌てて謁見に備えての身支度を整えようとしたが、それを制される。


「そのままで構いません。孫恵の供も不要です」


 急かされた明麗は、不安顔の孫恵をへやに残して女官の後に続く。そのまま皇帝の居所である丞明殿じょうめいでんに向かうものと思っていたが、昇陽殿の別の房へと誘われた。


 房の中心に立たされた明麗は数人の宮女に取り囲まれ、抵抗する間も与えられずに衣類を剥ぎ取られる。そのまま湯浴みをさせられ爪の先まで洗われたかと思えば、今度は磨かれた肌や髪に、白粉や香油を控えめに塗られた。

 袖を通すように広げられた衣に、明麗は目を見開く。

 牡丹の如く鮮やかな朱の襦裙。襟と袖口には金糸の刺繍が施されている豪奢な衣装は、どことなく花嫁衣装を連想させる。


「これをわたしに着ろと?」


 絹の下衣したぎのまま立ち尽くす明麗の疑問は、完全に無視されたまま着付けは進む。丁寧に梳られた漆黒の髪のすべては結い上げず、紅玉が飾るかんざしで留めた小ぶりの髷以外は背に流された。


「準備は終わったのかしら?」


 聞き慣れた声に安堵と戸惑いを抱きながら振り返った明麗からは、花の香りが立つ。


「百合后さま。この衣装ははいったい……」

「今夜は、わたくしたちと陛下とで催す小さな宴ですもの。目一杯おめかしするのは当然でしょう?」


 皇帝に、林文徳から書の教えを請うことを許可してもらえるよう願い出るだけだと思っていた明麗にとっては、寝耳に水の話だった。しかも、そう告げる皇后の姿は普段とさほど変わらないとくれば、自分だけがこのように飾り立てられるのは居心地が悪い。

 だが、小首を傾げつつ「耳環はやっぱり右のものに」などと指示を出す様子に、いつもの着せ替えごっこの延長かとそれ以上の追求は諦めた。

 最後に、皇后手ずから口唇に紅をひかれる。一歩離れた位置から明麗を眺めた皇后は、目を細めて小さく頷いていた。



 皇后に従って辿り着いたのは、昇陽殿からも丞明殿からも少し離れた庭園の中に建つ堂だった。

 広大な庭の散策中に休憩を取るためか、はたまた今宵のように夜風や虫の音を肴に杯を傾けるためなのか、宿泊も可能なほど調度は整えられている。三脚の椅子が添えられた円卓を見て、明麗は再び目を瞠ることとなった。

 小宴とはいえ、あくまでも自分は皇帝夫妻に侍り、給仕に徹するものとばかり思っていたからだ。まさか皇帝と同席し飲食をともにしろと命じられるとは。


「あの、方颯璉ほうそうれんさまはどちらに」


 いつもは影のように皇后に付き従っている奥女官長の姿が、こんなときに限って見あたらない。今回ばかりは一も二もなく彼女の言に従うつもりだというのに、後宮において、皇帝以外で皇后に苦言を呈することができる唯一の者は、肝心のこの場に不在だった。

 明麗は、常日頃から天敵のようにしているはずのその人を懸命に探す。


「颯璉には暇を与えたのよ」


 侍女の引いた椅子に腰掛けながら、皇后は深いため息をつき、決まりが悪そうな微苦笑を作った。


 「少しね、喧嘩をしたの。わたくしの命がきけないのだったら出て行きなさい、と言ってしまって」


 その程度であの方颯璉が皇后の傍を離れるとは思えない。暇といっても、まさか解雇を申し渡したりはしないはずだ。ではどこにいるのだろう。

 所在なげに首を巡らせていた明麗は、再度着席を命じられてしまった。


「陛下はまだおいでにならないみたいね。失礼して、先に少しいただいてしまいましょう。明麗、あなたお酒は?」

「呑めます。たぶん、ですが」


 祝いの席などで、祝杯を舐めた程度の経験から導いた答えだ。それに、父も兄も酒豪と呼ばれる類いの人間で、その血は自分にも流れているはずである。

 明麗の返答を聞いた皇后が嬉しそうに肯くと、すぐさま酒肴が卓上に用意された。瑠璃杯にとろりとした黄金色の酒が注がれる。鼻を近づけると、明麗の知っている酒のものとはまったく異なる、甘い香りが届く。


「蜜酒よ。故郷くにでよく呑まれているものを作らせてみたのだけれど、どうかしら」


 興味津々で水面を覗く明麗の前で、皇后は酒杯を呷ってみせた。紅を薄く刷いた唇がしっとりと湿り艶を増す。満足げに微笑むと明麗にも勧める。


「よくできている。これは、呑み過ぎないよう気をつけなくてはね」


 皇后がほんのりと頬を赤らめ、とろんと目を潤ませたのにつられて、明麗も口を付けた。少しずつのつもりが、初めての飲酒に高揚した手は杯を急角度に傾けてしまう。

 見た目に反して喉越しのよい液体が、甘さを残して喉を通っていく。そのあとを初めて覚える熱が追いかけた。


「……おいしい」


 明麗は空になった杯へと、蜜酒よりも甘い吐息を落とす。その感想に気をよくしたのか、皇后は間を置くことなく酒を勧めた。

 皇后が一度杯を空ける間にも明麗は三度注がれる、という速さにもかかわらず、彼女の視線も口調も乱れることはない。飲酒が初体験とは思えぬ明麗の呑みっぷりに、ついに皇后は自分の杯から手を離した。


「まだ陛下はいらっしゃらないようだから、少し昔話をさせてね」


 胸の前で両手の指を組み目を閉じた皇后は、明麗が杯を置いた際にたてた小さな音が合図だったかのように瞼を上げた。


「わたくしが生まれた国はこのほうに比べたら本当に小さな国で、東西を挟む国々との危うい均衡を保つのに精一杯だったの」


 大陸の東と西を繋ぐ山間を抜ける細い街道を通る際、旅人や商人たちが落としていくものと、山の恵みを主な収入源としていたアザロフ王国が、彼女の祖国である。葆より遥か西に位置する、明麗にとっては自国の皇后の故郷として、辛うじてその名を知る程度の小国だ。


「いまから十五年ほど前になるかしら。アザロフが西と東、両側からそれぞれ別の国に攻め入られたのは」

「十五年前……」


 まだ先帝の時代。苑輝えんきが皇太子として、国軍を率いていたころの話である。明麗は、兄から借りてこっそり読んだ史書の比較的新しい記述を思い出し、小さく息を呑む。


「そう。東から侵攻してきたのは、苑輝さまが率いる葆国の軍だったの」


 西征を進めていた望界帝が晩年に辿り着いた、『西の地域』の国のひとつがアザロフだった。


「先に攻めてきた西側の国を防ぐので手一杯だったアザロフは、東からきた葆に、ほとんど手も足も出せず降伏を受け入れた。そのあとは本当にあっという間だったわ。苑輝さまの軍がアザロフから西国を叩き出し、戦で混乱した国内を治めてしまうまで」


 まだ十にも満たなかったはずの百合后の手が、当時を思い出したのか小刻みに震える。蜜酒で朱が差していた頬も、心なしか青みが増していた。

 そのころの明麗はまだ生まれたばかり。宮処みやこから遠く離れた場所で起きている戦況も届かない李家の邸の奥で大切に育てられ、そのまま大きくなった。戦など、書物やときおり父の重い口から溢れた片鱗で知るくらいである。それだけでも十分身震いするものだというのに、実際に戦場にいた者たちの心痛など、おこがましくて推し量ることさえできない。


「敗者であるアザロフは、よくて属国。父王は併合と自分の首も覚悟の上だったでしょうね。それでも国の民を守れるのなら、と葆を受け入れた」


 硬く口を結んだ明麗の目の前で、皇后の手から震えが止まる。口元には薄い笑みさえ浮かんだ。


「だけど苑輝さまは、そのどちらもアザロフに科さなかったの。もちろん、同盟を結ぶ条件としていくつかのものを提示されたけれど、どれも無理難題とはほど遠いもので。その上、葆軍の兵士たちは、戦禍で破壊された王都の復興にまで手を貸してくれたわ」


 今度こそ見間違えようもなく、皇后の目元や口元は柔らかな笑みを湛え、うっとりとした口調で話を続ける。


「そのあとすぐに先帝陛下がお亡くなりになって。苑輝さまが葆の帝位に就かれてからあの方がなされたことは、わたくしよりも、この国で生まれ育ったあなたのほうが詳しいのではないかしら」


 苑輝は即位と同時に他国への侵攻を中止させ、武力で従わせていた国々をその支配下から事実上開放したのだ。国の外へと伸ばされていた破壊の触手は、長い戦で疲弊していた国内に向けた、再興を導く手に変わる。

 多少の小競り合いはなくならないが、大陸の長い歴史の中でも類を見ぬほど穏やかな日々が送られているのは、葆皇の手腕によるものが大きいとの見解には、多くの者が同意するだろう。

 それでも明麗は皇后に確かめずにはいられなかった。


「恐れながらお尋ねします。百合后さまは、葆を……陛下をお恨みにはならないのですか?」


 つまり彼女は、祖国を攻めた敵国の将に嫁いできたのだ。あれほど夫婦仲が良くみえても、内心では複雑な想いを抱えているのではないのだろうか。戦が生んだ複雑な縁を想うと、明麗の胸が苦しくなる。

 だが皇后は毅然と首を横に振り、明麗の懸念を頭から否定した。


「苑輝さまはね、わたくしにとっての英雄なの。この世から無益な争いを遠ざけてくれた、神にも等しい方。ねえ、明麗。あなたもそうは思わない?」


 弾む声音と乙女のように紅潮させた顔を向けられ、明麗は唖然としてしまう。もちろん葆の民である明麗にとって、荒れていた国内を平穏に導いた名君としての琥苑輝は尊敬し、憧れる存在だ。だが、敵であった苑輝を憎み責めるどころか、崇拝するように恍惚の表情を浮かべる皇后には、かえって薄ら寒いものを覚えてしまった。


「あの方の尊い志が、この葆でずっと生き続けてくれることが、わたくしの望みなの」


 ふいに、皇后の翠緑の瞳に睫毛の影が下りる。深まりをみせていたはずの口元の笑みが、正反対に泣いているように感じられ、明麗は瞬きを繰り返す。


「百合后さま?」

「ごめんなさい。久しぶりのお酒だったから、酔ってしまったみたい。少し外の風に当たってくるわ」


 立ち上がった皇后の細い身体がゆらりと傾ぐ。手を貸そうと思わず腰を浮かせた明麗に、白い掌がかざされた。


「大丈夫。あなたはそこにいてちょうだい。すぐに戻ってくるから、絶対に動いてはだめよ」


 儚げな笑みとは裏腹に強い口調で言い残し、皇后は侍女らに付き添われて堂を出て行ってしまう。残された明麗には、酔い覚ましの効果があると熱い茶が供されたが、それを用意した宮女たちも皆、堂から出ていってしまった。

 いつ皇帝が現れるともしれないというのに、ひとりきりで置いていかれてしまったようで、明麗はどうにも落ち着かない。どこからともなく届く虫の声に耳を傾けながら、少し苦みのある茶で気持ちをなだめていた。

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