夫婦の確執《2》

「なぜここにいる」


 突然耳になだれ込んできた低い声に驚いて跳ね起きた明麗の右腕が、卓上をなぎ払ってしまう。あっと思う間もなく、その名の通り青金石を溶かしこんで作られたかのように深みのある碧い瑠璃杯は、床に落ちて粉々に砕けた。その大きな音に、いっそう意識が覚醒して目を瞠る。

 明麗は椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がると、青ざめた顔を伏せ拝礼した。


「陛下っ! お怪我はございませんか?」

「大事ない。そなたこそ無事か」

「お気遣い痛み入ります。わたしはなんとも……。大変失礼いたしました」


 幸い器の中身は空で、蜜酒が皇帝の衣服を汚すこともなかった。明麗は胸を撫で下ろす。ついで、これほどの音が立ったというのに、誰ひとり姿を現さない状況に違和感を覚えた。


「皇后陛下はどちらに」


 辺りを見渡し目に入った蝋燭の減り具合からも、明麗はそれほど長時間居眠りをしていたわけではなさそうだが、苑輝を待っていたはずの皇后が席を外すには長すぎる。


「それは余が問いたい。百合はどこにいる。あれに乞われてきたというのに、そなたしかいないとはどういうことだ」


 困惑と不審をこめた声音で訊かれたところで、明麗にも答えはわからない。己の知る限りを伝えることしかできなかった。


「こちらで皇后さまと、陛下のお越しをお待ちしていたのです。その……少し御酒が過ぎたから夜風に当たりたいとおっしゃられて、表へ行かれたきり、戻られま……せん」


 一瞬目の前が揺らいだ明麗は、 こめかみに手をあてた。いくら寝起きとはいえ、皇帝の御前で眠気に襲われるなどあり得ない。必死に瞼を持ちあげる。


「どうした?」

「いえ。わたしも、少しいただいてしまったので」

「……酒か」


 呆れたようなため息と視線を、床で割れている酒杯に落とした苑輝が、明麗に寝椅子を勧めた。しかし、おいそれと従うわけにはいかない。明麗は瞬きを繰り返し、あくびをかみ殺す。


「これほどになるまで子どもに呑ませるとは。百合はなにを考えているのだ」


 苦々しげに独りごちた苑輝に、辛うじて立っていた足が掬われる。軽々と抱き上げられた明麗は、そのまま寝椅子の上に降ろされてしまった。


「しばらくここで休んでからへやへ戻るがいい。皇后には余から伝えておく」


 苛立ちが感じられる物言いで立ち去ろうとする皇帝の様子に、明麗から睡魔が束の間遠退く。


「お待ちください、陛下!」


 後先考えず、ひるがえった長衣の袖を掴んでいた。引き留められた苑輝は眉間にシワを寄せ、険しい表情を作る。だがいまのぼやけた明麗の思考には、それに構っていられるだけの余裕がない。


「百合后さまに非はございません! わたしが勧められるまま、勝手に呑んでしまっただけです。ちゃんと酔い覚ましの薬茶までいただいたというのに、それを飲んだら……」


 こんな緊迫した場面にもかかわらず、思い出したようにふわあと漏れそうになるあくびを飲み込んだ。


「薬茶だと?」


 訝しげに言葉を鋭く訊き返され、ようやく明麗は自分が握りしめているものに気づき、焦って手を離す。自由になったその足で卓に近づいた苑輝は、白磁の底に残っていた僅かな茶を舌にのせ眉をひそめると、袖口で舌を拭った。

 その仕草と面持ちから、供された茶がただの酔い覚ましでなかったことを悟る。


「李明麗。そなたに確認したい。へはなにをしに参った? 皇后からなにを言われている?」


 床に直接腰を下ろした苑輝に正面から見据えられ、明麗は椅子の上で身を硬くした。本来なら皇帝を見下ろすなどあってはならないこと。すぐさま平伏するべきなのだろうが、すべてを映し出す鏡のような漆黒の瞳に射すくめられ、明麗の身体はそれ以上の動きを拒む。

 冷酷と伝え聞いたことしか知らない先帝は、あるいはこのような眼をしていたのではないか。そう思わせる、冷ややかな視線を注がれていた。


 明麗にはこの短い間に起きたことのどれが、皇帝の逆鱗に触れたかはわからない。だが彼が虫の居所を悪くしているのは、その眼つきからも明白だ。

 いまここで、後宮に――皇后の側に、書の師とはいえ若い文官を迎えたいと願ったら、さらなる皇帝の怒りを買ってしまうだろうか。もしくはしゅう楽文がくぶんほどの老爺ならば、了承が得られるかもしれない。浮かんだ妥協案を、まだ少し紗がかかったような頭を振って打ち消す。

 間近で魅せられた林文徳の筆運び。そこから紡ぎだされる文字の数々を目の当たりにした明麗には、もう彼以外の師は考えられなかった。

 適当にこの場を言い繕ったところで、おそらく苑輝には通用しない。ならば考えのすべてを明かすまで、と明麗は腹をくくる。


「……書の」


 思った以上に掠れた声が出てしまい、明麗はごくりと唾を飲み込み喉を湿らせた。


「皇后さまの書の師匠になってもらいたいのです。あの『葆国民譚ほうこくみんたん』を書いた林文徳殿に、ぜひとも!」


 いったん堰が切られ言葉が流れ始めてしまえば、もう明麗の口は淀むことを知らない。いかに文徳の書が素晴らしいかを力説する。少し考えてみれば、彼にあの本を書かせたのは皇帝自身なのだが、そんなことさえも睡魔とともに失念してしまうほど高揚した明麗は、紅などとうに剥げていてもまだ朱い口を動かし続けた。


「もちろん、陛下がご不快に思われるようなことなど決していたしません。わたしが文徳殿をちゃんと監視しています! この首をかけてでも責任をもちます。ですから、どうか……」

「待て! 李明麗。少しの間でいいから、そのよく動く口を閉じてくれ」


 息つく暇もなく捲し立てた明麗の眼前に、苑輝が片掌を突き出して制し、もう片方の手で額を覆う。大きく肩で息を吐いてから、困ったように眉尻の下がる顔を持ち上げた。明麗に向けられたその瞳からは、さきほどまでの冷たさなどまったく感じられない。

 父とも兄とも似ているようで異なる色合いのこもる眼差しは、明麗の胸にじわりと浸透しささやかな温かみを与える。


「すまない、余は勘違いしていたらしい」


 明麗が、心地好くも妙に落ち着かない淡い熱に戸惑っているうちに、なぜだか皇帝に謝罪されてしまった。


「へっ、陛下!? いったいなにを……」

「今宵そなたは、百合から夜伽を命じられてここにいるわけではないのだな?」


 閉じろと言われたのにまた開いていた明麗の口が、さらに大きく開く。忙しく動かした口と心臓のおかげで、眠気は吹き飛んだようにも思えるのに、苑輝の放った言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


「わたしが? 陛下のお相手を? まさか、そんな。あり得ません!」


 声に出してみても訳がわからない。それも、皇后の指図のようにいわれれば尚更である。

 呆然とする明麗の前で、立てた片膝に肘を乗せ頬杖をつく苑輝は、深い歎息を吐き出した。


「どうやら、我々は百合に謀られたようだ。そなたと余をここで妻合めあわせるつもりだったのだろう。……まったく馬鹿げたことをする」


 苦渋でしかめられた苑輝の表情は、怒りよりも悲しみや落胆の色が濃い。

 ひょっとすると、婚礼のようなこの衣装もためなのだろうか。酔い覚ましだと思って飲んだ茶は、自分をこの場に留めるためのものだったのか。

 いまだ皇后が戻ってこない現実が、思い至る疑いのすべてを肯定しているかのようで、胸に灯った仄かな熱は急速に奪われていく。

 力の入らない足でずり落ちるように降りた床に膝をついた。明麗の膝頭の拳数個分先には皇帝の膝がある。


「なぜ百合后さまはそのようなことを……」


 床に広がった裙をたぐり寄せるように膝の上で握りしめた。自分の夫にほかの娘をあてがおうとする妻など、明麗が読んできた書物の中にはひとりもいなかった。その逆ならば、両手で足りぬほど知っている。

 

「国主としての務めを果たそうとしない余が悪いのだ」

「そんなことありませんっ! 陛下は葆の誇りです。異国からいらした皇后さまだって、陛下を英雄だと仰っていました」


 全国民を代表するつもりで反論した明麗に、苑輝は自嘲で応えた。


「まだそのようなことを言っているのか。余がそのように立派な者でないことは、あれが一番わかっているだろうに」


 硬い床の上に腰を落ち着かせた苑輝が、薄い笑みを湛えたまま明麗に問う。


「そなたは、一国の主の務めはなにと心得る?」

「……国内の安寧を保つこと、でしょうか」


 まず国があっての、その地位だ。そこに暮らす人々の安定した生活を守ることこそが、民の上に立つ者の務めだと明麗は考える。そして、苑輝はそれを実行しているではないか。

 明麗の回答に満足げに小さな肯きを返してから、苑輝は睫毛を伏せた。


「だがそなたの父たちは、それだけでは不足だと言う。琥氏の血を絶やすな、と」


 入宮する発端となった父の言が、明麗の脳裏で蘇る。自分の中ではとうに無効となっていた話が、まだ燻っていたのかと驚愕した。そして、皇后自身がそれを望んでいたことにも。


「葆屈指の名門、李の家に生まれたそなたは、余の――皇帝の妻の座が欲しいとは思わないのか? あわよくば次期皇帝の母となる日がくるやもしれぬのだ。宜珀ぎはくもその心づもりで、娘であるそなたの入宮を承知したのであろう?」


 皮肉に歪められた唇のせいで、四十に届く年齢とは思えぬ精悍な顔立ちが、ひどく酷薄にみえる。嘲りを感じる声音に、明麗の柳眉がぴくりと動いた。膝に落としていた眼を上げ、丸めていた背を伸ばす。


「皇太后になったからといって、なんになるのです?」

「富も地位も、権力さえも思うがまま。女子おなごは皆、それが望みなのではないのか?」


 明麗の反応を観察するように、苑輝は目を細めて顎を撫でる。不敬を覚悟で、明麗は皇帝の瞳と正対した。


「それでは、自分の力で手に入れたものにはなりません。わたしには、女であるこの身でも、父や兄のように政に携わりたいという願いがあります。ですが、単に君主の生母というだけで国事に口を挟めば、それはただの専横と呼ばれるものになるでしょう。そしてその行為を許すような国家に、先はないものと存じます」


 一旦言葉を句切ると、大きく息を吐き出して再び顔を上げる。朱い口の両端をあげたかんばせには、不敵とも取られかねない笑みが浮かんでいた。


「わたしは自分の進む道を天の采配に、まして家や親になど任せたくはありません。欲しいものはこの手で掴み取ります」

「……己の手で、か」


 膝の上の拳に力を込めた明麗に、苑輝はぎょくを眺めるような眼差しを送り、ふっと口元を緩ませる。


「ならば、兄たちの死によっていまの座にいる余などは、そなたからすれば、さぞ怠け者にみえるのだろうな」


 瞬時に明麗の顔から色が消えた。現葆国皇帝である苑輝は、実兄、異母兄、二人の兄の死により皇太子となり、その後即位したのである。端からは、玉座が転がり込んできたようにみえなくもない。


「申し訳ありません! 決してそのような意味では……。身の程もわきまえず、余計なことを申し上げました」


 己の信念の赴くままに放った不用意な言動を、伏して詫びる明麗の頭の上に重みがかかる。びくっと肩を揺らし、下げたままで沙汰を待っていた頭が、ゆっくりと撫でられる。その手は次第に遠慮がなくなり、髷は崩れかけ、絹糸のような髪が絡まりそうになるほどだ。


「あの、陛下? 恐れながら。その、髪が……」


 怖ず怖ずと申し出ると、今度は乱れた髪を梳くような動きに変わった。身じろぎができずにいる明麗の頭上へ、手つき同様に柔らかな声が落とされる。


「さすがは葆一の忠臣、宜珀ぎはくの娘。その真っ直ぐさは嫌いではない。だが、それならばなぜ後宮にきた? そなたのような者には、ここは息苦しいだけであろうに」


 幼子をあやすような仕草と口調が、明麗の皇帝に対して残っていた畏怖や警戒を解いていく。下げ続けていた頭にはいまさらながらに酔いが回り、緩やかに意識を溶かし始めていた。


「ここは決まり事が多くて少し窮屈ですが、家にいるよりずっといいです。書を読んだだけではわからない、たくさんのことを学べます」

「そうか。それならよい」


 徐々に身体から力が抜け、前のめりになった額が硬いものに当たって止まる。それでも明麗は、もごもごと呂律の怪しさが増していく口を動かし続けた。


「だけど、どうしてもわからないことも、あります」

「なんだ?」

「わたしは、なにをしたら、皇后さまのお役に立てるのでしょうか」


 閉じた瞼の裏に、堂を出ていく間際に皇后がみせた笑みが浮かんで儚く消える。彼女が本当に望んでいるものは何なのだろう。少なくとも自分と夫が結ばれることではないのは、まだ十六の小娘である明麗にもわかった。

 愛する夫の名を綴りたいという小さな願いさえ、明麗ひとりでは簡単に叶えられそうもないのだ。結局は、大きな口を叩くだけしかできていない自分の無力がもどかしい。

 昏い深みに落ちていく思考の中心を、闇よりもなお濃い墨線が、一筋の迷いもなく通り抜けていく。その筆蹟はおもむろに光沢を増し、やがて光り輝く龍と変わる。


「龍、筆……」


 その手蹟を追いかけた明麗の意識は、ほどなく眠りの淵に辿り着いていた。 

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