鴛鴦の菊花《2》

 桃果。柘榴。豚に蝙蝠。


「さすがにはないわね」


 四阿に据えられた石卓に並べた書から、豚を取り除く。ニ歩さがり、三枚に減らした書をもう一度見分する。


「やっぱり柘榴が無難かしら。でも、出来は桃が一番のような気もするし」

「ずいぶんと大きな独り言だな」


 明麗は、背後からの声に肩を跳ね上げ振り返った。


「兄さま! 驚かさないで」

「そちらから呼び出しておいて、その言い草はなんだ。明日の支度で、表も忙しいというに」


 相変わらず女官服姿の妹を見下ろし、博全が眉をひそめる。


「まさか宴にまで、そのような身なりのまま皇后陛下に侍るわけではあるまいな」


 明日に控えた菊の宴は、久しぶりに皇后が公の場に姿をみせると、官吏の間でも話題になっていた。当然明麗も付き従い参加する。


「失礼ね。そこまで世間知らずではないつもりです。宴にあわせ、百合后さまが皆に衣を新調してくださったの」


 おかげで縫製の手が足りず、手先の器用な者たちが後宮中から駆り集められた。彼女らは未だに布地と格闘しているはずだ。賜った生地で、明麗と自分の衣装を早々と誂え終えた孫恵も、懇願されてその内にある。

「ならばよい」と肯いた博全の表情は、すぐさま厳しいものに逆戻りした。


「まだ佩玉を持っていたのか。文徳の指導が終わったのなら不要なはずだ。すぐにでも返上いたせ。――いや、私が預かろう」


 腰に伸びてきた博全の手から、明麗は一歩下がって逃れる。玉を両手の中に収めてその硬い存在を守ると、念のためもう一歩分退いた。無体を働く兄に、力をこめた上目で抗議する。

 この珮玉がなければ、皇宮の門をくぐることも、こうして気安く兄のもとを訪ねていくことさえ難しくなってしまう。


文徳せんせいとの師弟関係が解消されたわけではないわ。わたしはまだ、手放したくありません。だいたい、兄さまがつまらない用事を頼んだりするから……」


 ぴくり、と博全の薄い唇の片端が歪んだ。眇められた明麗と同じ黒い瞳が、硬石のように温度をなくす。


「あの者には、貸した借りを相応の仕事で返してもらっているだけ。それのどこがいけない」

「そんなこと、わたしはなにも聞いていない」


 文書の改ざんを指摘した件で、博全と文徳は顔見知り以上になっていた。剛燕とも繋がりができたいまでは、なんらかの交流があっても不思議はない。

 だが、明麗のあずかり知らぬところで、文徳はいったいどのような借りを作ったのか。自分だけがのけ者にされたようで、納得がいかない。それに、公務中にまで持ち込んでいたの重要さにも、見当がつかなかった。

 訝しんでみせても、博全にはそれに答える気がないようだ。眉根を寄せ、鼻を鳴らす。


「聞いていないのは私のほうだ。書を学ぶことは許した。しかし、男とひとつのへやにこもるなど、年頃の――それも、皇帝陛下の後宮に勤める娘の行いではない。おまえは家名に泥を塗るつもりか」

「やましいことなど、なにひとつしていません。勘繰りすぎだわ! 兄さまは、わたしのすることが気に入らないだけなのでしょう!?」


 聞き分けの悪い幼子のような明麗の言い分に、博全の不機嫌もいや増した。一足で距離を詰めて腕を伸ばす。

 石卓に阻まれそれ以上後退できずにいる明麗は、無防備だった顎先を掴まれてしまう。


「では、そのおまえの意地やわがままが、どれだけ陛下や皇后さまにご迷惑をかけているか、考えたことはあるのか」


 明麗の大きな目が、驚愕でさらに見開かれる。

 書を覚えたいという皇后の希望を受け、また皇帝もそれを支持してくれているはずだ。だからこそ、自分が後宮の外に出ることを認められたのではないか。

 反論したくとも、指が白い肌に食い込むほど強く掴まれ上を向かされていては、口がうまく回らない。かろうじて睨みつけることで、異を主張する。

 反抗的な態度をとる実妹に返されたのは、酷薄な笑みだった。


 ――兄を失望させた。


 冷やかな眼差しからそれを感じとった明麗は、瞳を逸らす。


「妃嬪でもない娘が特別扱いを受けている。事情を知らぬ者からは、陛下が若い女官の気を引くため、慣習をねじ曲げているのではと邪推され、皇后さまは後宮の秩序を保つために腐心なさらねばならない。皇宮の裏も表も、おまえの行動に振り回されていることがわからぬとは、やはりだだの小娘だったか」


 必死にかぶりを振ったのは、博全の手から逃れるためか、はたまた否定するためだったのか。不意に動きが軽くなったことで、束縛から解放されたと知った。


「おまえに鞠躬尽瘁の四字は、荷が勝ちすぎる。さあ、渡しなさい」


 博全は打って変わって、子どもをなだめるような声音で手を伸ばしてくる。手中の玉は、明麗の体温が移りほのかな熱を持っていた。それを右手でしっかり握り、左手で博全の手をはねのける。


「嫌です」


 震えながらも、明白な拒否の声。しかし博全の表情に変化はない。むしろ唇にのせた笑みを深くした。


「ならば、いかなる特権を賜わろうが、どこからも不平不満がでないよう、真の寵妃となってみるか」

「そんなこと、できるはずがありません!」


 先ほどよりも強い拒絶に、博全からは嘲笑ともとれる嘆息がもれた。


「あれは嫌だ、これもできない。口先で文句を言うばかりでは、英世よりも始末が悪い」


 まだ言葉もままならない甥にも劣ると評された明麗の頭に、さらなる血がのぼる。


「この玉はわたしが賜ったものです。自分から陛下にお返しします!」


 卓上に放置していた書を集めると、四阿をあとにする。階を降りる途中で振り返り、その中の一枚をくしゃりと丸めて博全に投げつけた。

 眉間に刻まれた深いシワを狙ったはずが、微動だにしなかった博全の袖をかすめて床に落ちる。あまりにも軽いそれは、そよ風に吹かれて転がっていく。まるで無力な自身を見ているようでいたたまれなくなった明麗は、くるりと背を向け足早に立ち去った。


 ◇


 明麗は帰路を急ぐ。のぼせあがった頭にはちょうどいい秋風の中に混じる薫りは、明日のために用意された花々のものだろうか。

 あれほど疎ましく感じている後宮が、唯一兄の手から己を守ってくれる場所だというのは、皮肉なものだ。

 ちらりと肩越しに、追手がないことを確認してようやく歩を緩める。道すがら向けられる奇異の目はずいぶんと減ったが、それでもなくなりはしない。気にしてもしかたがないと、明麗は早い段階で割り切っていた。だが、今日ばかりはその視線がやけに突き刺さるようで、急速に明麗の気力を削いでいく。

 無性に疲れを覚えて足を止める。回廊の勾欄に預けた腰で揺れる玉からは、すっかり熱が冷めていた。

 残った書を確認したところ、投げたのは蝙蝠だったらしい。博全を呼び出した目的を果たせなかったばかりか、顔を合わせれば説教しか言わない兄へ、『福に変わる』といわれる縁起の良い文字を贈ってしまった。

 項垂れる明麗の前を、幾多の足が通り過ぎていく。稀に立ち止まる者もいたが、それもほんの一時。後宮勤めの女官に声をかけるわけにはいかないのか、来たときよりも速度をあげ去ってしまう。

 明麗自身が、世の中から隔離された歩く後宮になったようだ。

 手のひらに収まってしまう珮玉の重みを、今更ながらに痛感していた。

 これを失えば、今までのように皇宮を出ることができなくなる。秘書省の分所である記録係には通えない。

 丸まっていた背中が、筆を手にした途端にすっと伸ばされる瞬間を見ることも、その筆先が綴る文字を目の当たりにして、胸の内側を鷲掴みされた感覚に襲われることも、今後はないのだ。

 そう思い至れば、過分に与えられた権利が惜しくなる。

 だが、皇帝の高名を穢すわけにはいかない。皇后にいま以上の心労をかけるなど、本末転倒も甚だしい。明麗のとるべき道は自ずと決まってくる。

 それでも、この足で皇帝の元へ参上するための腰をあげることができずにいた。


「明麗?」


 俯けた視界に珍しく長いこと留まる靴先と、しばらくして落ちてきた声を不審に思って顔をあげる。


「ああ、やっぱり明麗だ。さすがにもう忘れられてしまったかな」


 腰をかがめて近づけられた細面は、娘のように白い。瞬きを繰り返す明麗を覗く目は、眩しそうに細められていた。そのやわらかな眼差しは、幼い時分の記憶を呼び起こす。


もう志範しはんさま? 志範兄さまなの!?」


 思わず立ち上がると、覚えがある位置よりもずっと近くに志範の顔があった。それもそのはず。明麗が彼と最後に会ったのは十年も前のことになる。そのころは、彼の胸にも届かない背丈だったのだろう。

 間近であらためて見る孟志範は、当時とそう変わらない柔和な面立ちのままだった。


「入宮したと聞いていたから、また会えるとは思っていなかったよ。それもこんな場所で」


 志範は女官姿の明麗を不思議そう眺める。その視線を周囲にも配り眉を曇らせたかと思うと、口元に手を添え声を潜めた。


「お妃候補の姫君が、侍女も連れずに独り歩きは感心しないね」

「そんなんじゃありません! その……兄のところへ……」


 なにも悪いことはしていないはずなのに、とっさに佩玉を裙の襞で隠す。同じように志範も玉を下げている。彼は、博全の同じ年の採試合格者だった。


「志範兄さまは、今どちらに?」

「少し前に礼部に移ってね。博全と違って、まだまだだよ」


 そうはいうものの、身にまとう袍の色は深青。彼の出自と三十そこそこの年齢を考えれば、順当な官品だろう。博全の出世の早さが異常なのだ。


「では、明日の準備でお忙しいですよね。お引き止めしてしまいました」


 しとやかに膝を折ると、志範から感嘆の吐息がもれた。


「宜珀さまや博全には、ときおり宮中でもお目にかかるけど、明麗とは採試に受かって李家を出て以来だったね。すっかり女らしくなって」

「いやだわ、志範兄さま。わたしだって、いつまでも童女ではありません」


 むくれてみせる。好奇心の塊である明麗が、彼と兄の勉学の場に度々乱入し、たどたどしい口ぶりで質問攻めにしていたのは、もう十年以上も昔の話なのだ。追い出そうとする博全をなだめ、幼児相手にも根気よく答えてくれたのが志範だった。


「これは……たいへん失礼をいたしました」


 足を退き、恭しく礼を捧げる志範に目を丸くする。


「いずれ、この国にとって大切な存在となるお方に、わたくしなどが。不作法をお許しください」

「なにを言ってらっしゃるの?」


 位からいうと、礼を尽くさねばならないのは本来なら明麗の方だ。後宮の女官に任ぜられたとはいえ、その官品は低い。表の官人と比べれば、なおさら女子の立場は下がるのがこの葆の習いである。

 兄とも慕った志範から受ける他人行儀は、明麗の気鬱をすすめるばかりだ。

 いつの間にか握りしめていた書が明麗の手から抜かれ、志範が慎重にシワを伸ばす。


「桃に柘榴……。皇子をお望みなのですね」

「え? ええ。兄に表装してもらうつもりだったのですが」

「ならばなおさら、切なる想いをこめた書を、このように扱ってはいけません。一日も早いご懐妊を、心からお待ちしております」


 微笑みと共に三枚の書を明麗に返すと、志範は丁寧に辞去を述べ行ってしまった。

 皇子誕生を願い書いた文字が、明麗自身のためと勘違いされたらしいと気づいたのは、志範が殿舎の陰に隠れてから。その背中を追いかけ訂正する余力さえ、明麗にはもう残っていない。

 それに彼ひとりの誤解を解いたところで、なんの解決にもならない気がする。博全が指摘したとおり、同じような目で明麗を見ている者はほかにもいるのだろう。

 懐かしい再会は、予期せぬ疲労をももたらしたようだ。重みの増した身体を引き摺るようにして、明麗は後宮を目指した。

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