鴛鴦の菊花《3》

 夜明け前。まだ瞬く星が空に残る時分から、宴の準備は始まっていた。

 この日ばかりは明麗も、皇后づきの女官としての勤めを果たす。とはいえ、呆れるほど不器用な彼女に与えられる仕事は限られた。菊に降りる朝露を含ませた真綿を受け取りに行く。宴で振る舞われる酒食に備え、朝餉は胃の腑に優しいものですませたいという皇后の意向を伝えに、御膳所まで走る。まるで子どものお遣いである。

 後宮を西へ東へ駆け回っているうちに夜が明け始め、一段落着くころにはすっかり空が明るくなっていた。


「すごい……」


 高髻を、ここぞとばかりにかんざしや生花で飾り立てられた明麗が、眼前に広がる光景に感嘆する。皇后が引く、大小様々な秋の花が刺繍された柿色の長衣の裾に続いて辿り着いたのは、蒼世殿前の広場。左右を埋め尽くす大輪の花を咲かせた菊が、殿舎から楼門までの道を作る。その数にも負けない官人たちが囲む、途中に設えられた舞台では、今日のために稽古を積んできた踊り手たちが、楽にあわせて典雅な舞いを披露していた。 

 幾本もの白く細い腕の滑らかな動きにやや遅れて、薄絹の袖や披帛が宙を泳ぐ。それに伴い、清涼な菊の香とは異なる香気が振りまかれるようだ。菊見酒に酔うよりも早く、顔を赤らめる文官武官が続出する。


 かと思えば、若い武人による剣を使用した実戦さながらの御前試合が行われ、そこかしこから激励や怒声が飛ぶ。勝者には褒美が出るとなれば、両者ともに熱が入るのも当然だろう。激しい剣戟が繰り広げられた。

 黄金とも見紛う明黄の袍に艶めく黒髪が映える皇帝は、勝敗の行方を静かに見守る。その横で皇后は、刃がぶつかり火花を散らすたびに首をすくめていた。

 瞬きさえ許されない攻防からくる疲れに足を取られた、より年若い方が転倒する。その喉元に切っ先が突き付けられて決着がつく。一拍後、広場が揺れんばかりの歓声に包まれた。

 倒れたまま放心状態の武人に、剣を収めた勝者が肩で息をしながら手を伸ばす。それを苦笑で受けて立ち上がるのを見届けると、ようやく皇后にも双方の健闘を讃える笑みが浮かんだ。

 その横顔が視界に入り、明麗は知らず詰めていた息を吐き出した。握り続けていた拳を開く。模擬戦だとわかっていても、間近で見る真剣勝負に肝が冷える思いをしていたのだ。これが命がけの切り合いでなくてよかったと、明麗は心の底から安堵した。


 やがて熱戦の興奮が鎮まった座は、いっそう秋色を濃くする。今年の採試で首席となった文官が緊張を顔に張り付かせ、自作の詩で深まる秋と菊の美しさを詠めば、ほろ酔いの老臣は、主君の長寿と泰平の世を願う詩を朗々と吟じてみせた。

 雷珠山から降りてくる微風の思いのほかの冷たさで、身を寄せるように菊花が揺れる。

 間もなく、観菊の宴は終盤を迎えようとしていた。


わたくしめも、ひとつ余興をお目にかけたく存じ上げますが、お許しをいただけますでしょうか」


 それまで静観していた李宜珀が、皇帝夫妻の前へと進みでる。芸事とは無縁と思われた宰相からの唐突な頼みに、皇帝は少々驚きながらも興を惹かれて快諾した。


「両陛下の御為に集めました、選りすぐりの菊をご覧に入れましょう」

「菊? いま、この場を飾る花以外に、か?」

「左様でごさいます」


 宜珀が合図を送ると、御前に大きな横幕が幾枚も広げられる。そこに貼られた料紙のすべてに、『菊』の一文字が書かれていた。当然のことながら、皆異なる筆蹟である。


「これはまた、ずいぶんと多い」

「文武の隔てなく、また官の有無にも関わらず、皇城に籍を置くあらゆる者たちより募った書でございます」


 この場に並ぶのはほんの一部と告げられ、皇帝はさらに目を瞠った。おもむろに席を立ち、幕の前で振り返る。


「百合もおいで。一度にこれほど多彩な菊が揃うのも珍しい。ともに花を愛でよう」


 誘いに笑みで応えた皇后は、夫の傍らに並んだ。

 千にも届くかと思われる書の菊は、どれひとつとして同じ印象を与えない。勢いのある筆致で表され、まさに見頃と花開くもの、色付く前の固い蕾を思わせる生真面目な手蹟。大ぶり小ぶり、実に様々である。

 この数では、一枚ずつ刻をかけて鑑賞するわけにはいかない。それでも皇帝はときおり目と足をとめ、まだ書に疎い皇后の耳元に口を寄せる。何事かをささやくと、こちらも花顔を綻ばす。仲睦まじく寄り添う姿は、鴛鴦そのものだった。

 ふたりを目で追っていた明麗は、移動した皇帝夫妻の陰から現われた『菊』に息を呑む。遠目でもそれが、彼女には林文徳の書だとわかった。

 決して派手さはない。なのにその文字だけが、たくさんのに埋もれずに浮かんで見えた。

 力むところのない起筆と収筆で結ばれた線は、一画一画が花弁のように繊細だ。それらが集い形をなす文字は清廉で、一種の潔さを感じる。あの、筆洗に浮かべた白菊を表した看字かんじだった。

 明麗がそこから意識を動かせずにいた間も、夫妻は庭園を散策するかの如く観覧を続ける。最後の一点を見終わるころには、うろこ雲が永菻の上空を覆っていた。


「どれも皆、見事であった。よくもこれだけのものが集まったものだ」


 満足げな皇帝の労いに、宜珀は揖礼で恭悦を示す。


「これなるは、陛下が御自ら地を整え、種を蒔き育てられた花々。私はそれを並べたに過ぎません」

「そなたの口から、そのような世辞を聞く日が訪れるとは。季節外れの雷が鳴るかもしれんな」

「雷鳴は、雷珠山に龍が留まるなによりの証拠。加護が続いているという吉祥ではございませぬか」

「この上に、怒りの槌が堕とされなければよいが」


 皇帝は大仰に冠を片手で押さえて天を仰いだ。「いまのところ、その心配はなさそうだ」と苦笑すれば、宜珀が「御意」と応ずる。どちらも、こうして心静かに花を眺められる刻を、いとおしむような声音であった。

 

「恐れながら、陛下にお願い申し上げたき議がございます」


 そこへ博全が割って入った。李家の者からの相次ぐ申し入れに、皇后から視線で問われるが、なにも聞かされていない明麗は小さく首を振るしかできない。なにせ、十分に声の届く範囲にいるというのに、ふたりとは目さえ合わないのだ。

 兄がなにを言い出すのか。明麗の興味は、会場を彩る美しい花よりもそちらに向いた。


「さて、博全はなにをして楽しませてくれるのだ。唄か? 舞いか?」


 どちらも彼の不得手だと知る皇帝は、人の悪い笑みで訊ねる。しかしそれに動ずることなく、博全は書の菊でできた花畑へと視線を巡らせた。


「ぜひこれらの中より、第一席をお選びいただきたく」

「いま、この場で?」

「今年一番美しく咲いたを決めるに、最適かと存じますが。褒賞は……そうですね、あちらの杯で菊酒を一献、賜ることができますれば」


 にわかにざわめきが広がる。博全が顔を向けた先には、つい今し方まで皇帝が傾けていた玉製の酒杯が置かれていたのだ。皇帝の目が数ある能筆の中から自身の書を選び、さらには長寿を得るという菊酒を玉杯で賜れるとなれば、この上ない栄誉となるだろう。


「まったく。李家はわたしのもとに、難題ばかりをもってくる」


 集まる期待の眼差しに応えざるを得なくなり、皇帝は再び幕の間を巡回する羽目になった。しかし目星は付けているのか、足取りに迷いはない。ほどなく、ある幕の前で一点を指し示す。


「本日の宴に相応しいとなれば、この書であろう」 


 ほかの横幕が退く。一枚残された幕の中央よりやや右、目線の高さにその書はあった。

 ――延命長寿を願い咲き誇る、菊の花。

 文徳の書が選ばれなかった落胆より先に、明麗は素直にそう感じた。

 伸びやかな筆致による瑞々しい花弁が密に集う、華やかさと気品を備えた大輪の菊花。宴という晴れやかな場にあっても、その存在感は特出していた。字形に囚われない書体は、文字というより画に近いが、いにしえのそれとも違う。菊の香が匂い立つような手蹟の持ち主は誰か。その一点に衆の関心は集中していた。

 これらの書からは、署名も落款も秘されている。控えの一覧で筆者を確認した博全の口の端に、一瞬笑みが浮かぶ。静まりかえった広場に、声が張られた。


じょかつ殿。徐克殿は何処いずこにおいでか?」


 ひとりの名が、さざ波となり伝わっていく。その波を割るように姿を現した老官がゆっくり歩を進め、皇帝の前で拝跪する。頭を垂れたまま名乗る徐克は、免礼を受けてシワの刻まれた顔をあげた。


「やはり、そなたであったか」

「退官を前に一花咲かせてみてはと、李宰相にお誘いいただきまして。とんだお目汚しをご覧に入れてしまいました」

「いいや、見事な書だ。太子学士よりも書家になりたかったというのは、本当だったのだな」

「古い話を、よく覚えていらっしゃる」


 皇帝が差し出した酒杯を両手で受け取り、徐克は目尻のシワを深める。皇帝自身の手で注いだ酒に、菊の花びらが数枚浮かべられた。


「永きにわたる勤め、まことに大儀であった。これよりは、思う存分書を愉しむ日々を送るがよい。――息災でな」

「皇帝陛下のご厚恩に心より感謝いたします」


 高々と掲げた杯をあおり、徐克は菊酒を呑み干した。


「陛下。わたくしも、一枚選んでよろしいですか」


 苦難の時代を支えてくれた廷臣との別れを惜しむように、小さな背中を見送っていた皇帝に、皇后が尋ねる。


「気に入った書があったのか」


 微笑んで肯いた皇后が目指したものは、左に移動した幕の中にあった。伸ばした指先が文字に触れる寸前で止まる。


「こちらを書いてくれたのは、どなた?」

「林……文徳」


 皇后の問いに答えた明麗の声は、横にいた孫恵でさえ聴き取れなかったほどごく小さなものだ。それでも博全が控えを確認するまでもなく、座のはるか下手から文徳が引きずられてくる。

 劉剛燕に投げられるようにして皇后たちの前にまろび出た文徳は、背中をさらに丸めて口上を述べる。ぼそぼそとした声は皇后まで届かなかったのか、額づく文徳に近寄っていく。正面にかがむと、彼の手を取り立ちあがらせた。


「どうしてかしらね。わたくし、あのを見たことがある気がするの」


 文徳の手についた砂を払いながら、皇后は小首を傾ける。


「えっと……、それはですね。おそらく……」

「それは彼が、そなたに渡した葆国民譚の筆者だからだろう」


 白い手を振り払うどころか、顔さえあげられずにいる文徳の言葉を、いつの間にか妻の横にいる皇帝がさらう。


「まあ! そうでしたのね。ようやく本人に礼が言えます。素晴らしい本をありがとう。でも……」


 読みこんだ手習い本と同じ手蹟だと判明しても、どこか納得のいかない表情だ。そこへ文徳が怖ず怖ずと申し出る。


「それはあの文字が、先日皇后さまに頂戴いたしました白菊を書いたものだからではないかと」

「百合がこの者に菊を?」


 今度は皇帝が訝しむ。謂われのない咎を受けるのかと、文徳はますます縮こまる。

 疑いの眼差しを遮るように、皇后が玉顔の前で人差し指と中指を立てた。二本の指を左右に動かし開けたり閉じたりしてみせて、夫の注意をひいてから、口元に手を添える。意図を汲み腰をかがめた夫に耳打ちした。


「明麗が苅り取ってしまった花を届けさせたのです。せっかくきれいに咲いたのに、可哀想でしたので」

「なるほど。李明麗が菊の首を……・」


 夫妻が同時に振り返り、成り行きを眺めていた明麗を見遣る。突然視線を投げられ落ち着かない明麗は、ふたりから含み笑いまでされて瞬きを繰り返した。


「それであの書には、そこはかとない儚さがあったのだな」


 得心がいく。盛りで花を切り落とされてしまった菊の悲哀までもを表現されては、どれほどの良筆だとしても、宴の第一席とするわけにはいかなかったのだ。

 皇帝は、いまほど徐克へ下賜してしまった玉杯の代わりに、新しい酒杯を持ってくるよう命じる。とたん、文徳のみならず、博全や剛燕の顔色が変わった。


「あ! 陛下、それはちょっとお待ちを。この者に酒は……」


 思わず剛燕が止めに入る。


「なんだ、下戸か。それではいたしかたない」


 まさか、主君の酌が拒まれようとは思いもよらず。しかし気を損ねたふうでもなく、皇帝は身の回りから適当な褒美を探す。徐克に与えたものを上回るわけにはいかない。


「では、こちらを」


 皇后が髻から釵を一本抜く。形がわずかに崩れた柔らかな金色の髪には頓着せず、それを文徳に差し出した。

 銀製の釵には、薬玉のようなものが細工されている。皇后の名と同じユリの花がいくつも集まってひとつの玉をなす、小ぶりながら真珠も散りばめられた贅沢な逸品だ。

 それを見た侍女たちの間から、小さな悲鳴があがる。ひとり、理由に思いあたらない明麗は、同じく顔を曇らせている孫恵の脇腹をつつき、小声で訊いた。


「あの釵がどうかしたの?」


 幾度となく皇后が身につけていたのは知っている。だが、大国の后が持つにしては、ありふれた品だ。後宮の宝物庫ならば、より高価な装飾品はいくらでもみつかるだろう。もっといってしまうと、自房にある明麗の櫃の中にも似たような釵があった。だからこそ文徳への下賜品として選んだのだと、明麗は考えたのだが。


「知らなかった? あれは、皇后さまがお輿入れなさった翌年のお誕生日に、陛下が贈られた釵なのよ」


 それはそれは大切にされているのだと、孫恵は前方に顔を据えたまま声を潜めて教えてくれた。

 このようなことで皇帝の怒りを買うとは思えない。それよりも、明麗には思い出の品を手放そうという、皇后の心中のほうが気がかりだった。

 当然文徳がそれを知るはずもないが、ユリの釵はいまだ皇后の手の中にある。


「なぜ受け取ってくれないの?」

わたくしめなどのひと文字で、このように立派なお品をいただくわけには参りません」

「書の分だけではないわ。葆国民譚のお礼もしたいのよ」

「すでに菊花を賜りました。あの拙筆は花のお礼だったんです」

「……これでは不足?」


 どこか切羽詰まった表情で、皇后は文徳に釵を押しつけようとする。この場で彼を助けられるのは、彼女の夫のみ。ところが救いを求めようにも、肝心の皇帝は表情を消して妻が持つユリの花、ただ一点を見つめていた。

 ここは、受け取らないと場が収まらない。そう悟った文徳が、観念して両膝を地につけた。高く両腕をあげ天を向いた手のひらに、そっと釵がのせられる。ゆっくりと手放した皇后が、その指先を胸に抱く。


「身に余る光栄を賜り、厚く御礼申し上げます」

「わたくしこそ、あなたの書に出逢えてうれしかったわ。これからもこの国を……陛下をよろしく頼みます」


 釵を押し頂いたまま拝礼する文徳の頭上で、小さなくしゃみがした。方颯璉が慌てて外衣を持ち寄り、皇后の肩にかける。

 それをきっかけとして、菊の宴は幕を閉じたのだった。

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