蓮の花 ~私はかつて、希望と呼ばれていた~

柊蓮

プロローグ

終わらないラストシーン

 自分は女子トイレの個室の中に、存在していた。


 それは自分がフードコートの女子トイレの中で、酷く湿った人々の感情の残りカスの様なものが散乱している個室の中を、覗かれた時に起きた事だった。兄妹は自分の事をまじまじと見つめていた。まるで、飛んでいってしまった風船を探し求めて散策していたら、辿り着いてしまったのだと言うかのように。


「まだ、出てこないの?」


 自分を見つめている兄妹のうちの、お兄ちゃんの方が言った。ああ、そうだね。と、自分は一言返したけれどそれから会話らしきものは続かなかった。


 ジメジメとした、陰湿で鬱屈な雰囲気は、この世界の全てを凝縮している様にも感じられたし、この場に残留する不穏な匂いが会話を途切れさせる原因になるのは必然的とも言えた。どうだろう。タイミング的にもう出ても良さそうだろうか、自分はそう呟くと、お兄ちゃんは〝いいかも〟と自分に向けて背の高い個室の外側から呟いた。自分は個室から出た。もう既に〝あれ〟は起こっていた。


 広々とテーブルなどが均一的に配置されているフードコートの方からガスの流入を視認した。自分は混乱していた。吐き気のようなものも同時に感じられた。下腹部にうごめく憎悪のような胎動の様相が感じられた。自分は下腹部に軽い憂鬱を抱えていた。


 自分達はガスに耐え得る事の出来るマスクを装備し、自分は二人の兄妹の手を握りながらトイレから出て、中腰で歩いて、できるだけ急いで、ガスの撒かれている状態が確認できるフードコート内部へと踏み込んでいった。


 胸が苦しくなるのが感じられた。けれどそれがガスによるものではない事は分かっていた。自らの内に存在している吐き気のような混乱は少しだけ収まった。――自分達が広いフードコートに様子を見計らって出ても尚、何者かによって捲かれたガスの残留は続いていた。


 なんとかしてのこの広いフードコートの内の、空間の一部に溶け込めれないかと思い――先ほどまでは意識のあったであろう人間が眠らされているのを見て、そのガスが催眠ガスであることを知った――眠らされた人々の席の間に入り込み、自分は死体にも似る寝姿の一部と化した。眠らされている人々の空間に紛れ込んだ。それは正しかった。すぐに戦闘服を着た人間が自分の――自分を含んだ眠らされた人々の――周囲を見渡して広々としているフードコート内を取り囲み始めた。


 彼らの検知に、自分は一切引っかからなかった。ガスマスクを顔に装着した男達の様相は、とても自分の身体を萎縮させたし、少なくとも気分を優れたものにはしなかった。盲目な羊達の沈黙に似た静寂な時間はやけに長らく感じられた。それからもう少しだけ時間が経つと彼らは(数十人から、三十人ほどの男達は)、何か〝ここ〟の場所にはお目当ての〝何かしら〟が無いと断定し、(本当はあるのかもしれないけれど、今回ばかりは、無かったのかも)嫌気の差す口当たりの悪い不安感だけを残して、フードコートから立ち去った。


 間を置いて、自分の身体の緊張が少しばかり解けると、微風が感じられた。自分が彼らの検知に引っかからなかったのだと、改めて実感出来た。自分は眠らされている人々に擬態をするのをやめて目を少しだけ開けると、男達は完全にこの場所から立ち去っていることをしっかりと視認した。


 二人の兄妹に対する心配を少しだけ感じながら、自分は人と人との狭間から身体を上手く動かして抜け出した後すぐさま周囲を見渡した。フードコートはとても広々としていた。だがその広々としているフードコート――半地下になっているフードコート――を催眠ガスによって眠らされている人々が全体を覆い尽くしている風景はとても異様だった。


 天井の小さく存在しているガラス窓から外を眺めると、空は夜を迎えていて、だからこそ、自分はより一層フードコートに存在している人間が皆眠らされている、という状況に異様さを普段よりも感じた。自分はありありとした感情を抱えていた。フードコート中の人間は皆が皆意識を世界という〝母胎〟から手放された落とし物かの様に眠っているし、自分と、そして左右で自分の言葉を待っている我が子のような二人の可愛い可愛らしい二人の兄妹だけが、この異様な光景の中に巻き込まれずに済んだ〝正常者〟であるという事実は、自分に妙な感覚を覚えさせた。


「なにを目的にしてんだろうね」妹の方が言った。


 何を目的にしてるんだろうね――何を目的にしているのだろうか? あの大勢いた戦闘員のような男達が、何を目的にしているのか、全く自分には分からなかった。


「さぁ、どうだろ。分からない。けど、降音おりおんに戻って輪廻りんねに報告する必要性は、ありそうだね」自分はそう言うと、軽く微笑んだ。


 そんな会話を済ましていると、どこからか声かそれとも物音が聞こえた。自分達は音の方向を注視した。最初は眠らされていた人間の一人が起きたのだろうと(そのくらいの事はあるだろうと)思っていたが、その憶測が違うことは刹那に分かったし、その事実だけでも自分達に次なる混乱の火種を手渡すには充分だった。


 半地下の、フードコートの天井のガラス張りの一部が粉々に割れて、外から流入してくる空気が自分の背中を撫でた。


 自分達を次なる世界へと連れて行ってしまうのではないかと内心怖さを覚えた。けれどそんな心配はいらなかった。ただ、自分達の目の前には〝管理番号の埋め込まれている男〟が存在していたし、けれど、それ以外は何もかも問題はなかった。


 自分が〝それ〟を眺めていると、頭の中が騒然とした漠然とした砂嵐に苛まれた。呼吸が荒くなっていった。腫瘍を植え付けられた様にも感じられる混乱は、自分がどこから来て、どこに向かうことを求められているのかを、思い出さざるを得ない感覚に陥らせた。


 それがとてつもなく嫌で嫌で仕方がなかった。自分の人生に、振り返りたくもなる光景なんて何一つ存在していなかった。ただ、ひとつ明確に、確固たる紛れもない事実として存在しているのは、自分は十八歳を生き、人の皮を被って、生きているのも十八年目で、酷く続く混乱は昔の、消失してしまった〝過去〟から続いている、という純然たる事実だけだった。


 そして今の人生は、昔に植え付けられた終わらないラストシーンの続きであることを、自分は心の中にまるで最愛の女性の腹の上に精子を出すかのように吐き出した。

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