慢性的な避暑地 ⑨

 浴槽に浸かりながらただ、何か味の無い終着点のない考えを続けながら、自分が抱えている様々な取り巻いている感情に苛まれていた。


 蓮花とのセックスは自分の深層に眠っている、幼さというのを呼び覚ました。自分は浴槽の中でずっと泣き続けていた。上半身を伝って浴槽のお湯の中に涙が落ちていくのが分かった。胸の苦しみは自分を現実に縛り付けていて、〝苦しい〟という感情に苛まれているというまた別の現実に自分を追いやった。世界の全ての人間や物事に対して億劫を越えて無関心を自分は抱えていたし、全ての現実に嫌気が差していた。


 涙はずっと浴槽に零れ落ちていて、それは最初から最後まで続いた。自分は浴槽から出た後も涙は引いていていたけれど心に欠損の様な、代替不可能な気持ちを抱えながら身体を拭いて服を着替え、そしてフードコートに向かった。――そしてそれは数ヶ月後に分かる事なのだが(恐らく今回のセックスが原因だと自分は刹那に感じた)、蓮花は今回のセックスで妊娠をし――そしてそのような現実が取り巻く全ての物事に自分達は右往左往することとなる。電車を乗り継いで行く産婦人科は自分達には受難そのものであったし、仮に蓮花が受難であると感じていなかったとしても、受難の香りは少なからず自分達を絶望の方向に向かわせていった。産婦人科には自分達よりも若い人間は存在しなかったし、そんな人間を見る人達の目線というのも自分達の希望という気持ちを消失させるのに充分だった。



 ――フードコートはやけに静かだった。フードコートは多少自分の気持ちを落ち着けてくれた。自分はフードコートの特等席だと思っている、一番端っこの席に向かいそこに座った。コーヒーを久しぶりに飲んだ。そうしている内に、自分が待ち望んでいた人間が自分の元にやってきた。自分は席を立った。


「貴方ともう一度会えるだなんて思わなかったわよ」


「自分もです」


 蓮花の母親は自分の顔を見るや否やそう言った。

 自分達は座ると、多少の沈黙がそこにやってきた。さっきまでは静かに思えたフードコートが途端に表情と共に音を取り戻していたし、急速な立体感の到達に自分は多少戸惑った。


「私の方から呼んじゃってごめんなさいね、貴方は優しいのね、あんな事を言った私にまた会ってくれるだなんて」


「別にいいですよ。別に、気にしてませんから。それよりも話したいことってなんです? 申し訳ないんですけど、今の自分には時間が無いんです」


「そうなのね、そんな中なのに来てくれて嬉しいわ。時間がないというのは仕事があるっていうことかしら? ……表情を見る限りそうなのね。話というのは蓮花の事よ。私、本当に貴方達に申し訳ないことをしたわ。まず、それに対して謝りたい。ごめんなさいね。」


 自分は驚いた。そんな事を言える人間であると思わなかったからだ。


「貴方が蓮花とどのような関係性であるかなんて、正直言って私がどうこう問える部分じゃないって気づいたのよ。あの子だってもう大人に近しい年齢だし、まぁまだまだ子供でることには変わりはないけどあの子には貴方がいるじゃない。それに、私も沢山考えて……まぁ、おばさんなりにね? ……沢山考えたのよ。やっぱり、蓮花自身、自分がレイプされたという事があるのにも関わらず、素直に貴方を追い求めていっているというのが、私にとってはある種〝羨ましく〟見えたのよ。私にはない、純粋さをあの子はまだ持ってるってね。私は若くして失ってしまったから」


 自分はただ、頷いた。


「貴方は私が信頼を置いていた男性に似てるのよ。男性というか〝男の子〟なんだけどね。レイプされた蓮花をね、助けてくれた男の子が一人いるのよ。残念ながら、今は亡くなってしまったけど彼は蓮花のことをとても愛していたし蓮花に対して物凄く尽くしていたわ。蓮花には勿体ないくらいってその当時は思ったものだけど、そうじゃないという事も気づけたのよ。貴方のおかげでね。その男の子の身体というのも、あの子は受け入れたと思う。というのも、蓮花の服を洗濯していた時に蓮花の服のポケットの中から使用済みのコンドームが見つかってね、レイプされて心に傷を負って、そんな状態の蓮花に怒れなかった。彼女自身だって女性だから、身体だって疼くだろうし、その気持ちも私は分かるしでもその前に、蓮花は私が風俗で働いていることを知って私のことを物凄く馬鹿にしていたから、まぁ、そんな女に言われる筋合いはないって思ってもいるだろうからそんな何かをいう権利すら私にはないのよ」


 自分はなんと言うことも出来なかった。蓮花のことを助けてくれた男の子がいた――その言葉が頭の全てを埋め尽くしていて、それがシビトだという事も自分はわかっていたし、ただそれだけでも自分を混乱に貶めるのには事足りた。でも一番はそれじゃなかった。蓮花を助けてくれて身体の疼きを共にした異性がいるということではなくて、〝シビトという人間がこの世に存在したいた〟という事実が、自分を酷く混乱に追いやった。呼吸が少しだけ荒くなっていっているのが分かった。それを落ち着かせる方法だって分からない。


 ――その会話を最後に、我々の間で交わされた言葉はなかった、その日はそれを最後に自分達は各々の家に帰った。帰路の途中であっても、自らの混乱は続いていたし、頭の中がそのことで一杯になった。これで蓮花のことで気持ちが振り回されるのは何度目だろうかと思った。――シビトという人間が存在していた、という事がどうしても信じられなかった。


 自分の記憶が、自分のものじゃないなら、存在なんてただの映像みたいだ。どこかでふとした瞬間に感じる懐かしさ。記憶フロッピーディスク即ち〝自分の記憶〟が、〝他者の手〟に渡ってしまうように、自分の記憶が自分のものじゃないなら、存在なんてただの〝ホログラム映像の再生〟みたいだ。どこかでふとした瞬間に感じる違和感、もしかしたら街行く一般人は本当は一般人じゃなくて、どこかの組織に所属している人間なのかもな。


 瞼を閉じれば感じる事が出来る懐かしさ、血液に流れていて心の底から嬉しく思う懐かしさ。


 太陽は何故か透明で暖かく、


 退屈な午後は俺に妙にやわらかく、


 当たり前のように鳥や虫が鳴き花が咲く――


 女の鼻歌が耳をからかう、


 ――それが〝この世界〟であろうとは全く思えない。鳥の歌声は聞こえず虫は死に花は枯れ果てているのがこの世界。もしかしたら自分は〝この世界の人間ではないのではないか?〟……それに〝此処とは違う、全く違う世界からきた〟のではないのだろうか? 


 自分の記憶が信じられなくなっていた。シビトという人間が自分の記憶の根本を揺らがしていた。

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