重症患者 ④
大事なものが世界に戻ってきて、初めての朝方の時間帯を過ごした。
空気が澄んでいってるのが手に取るように分かったし、少しばかり世界が良い方向へ舵を取りだしたようにも感じられた。いつもの様に人工フルーツジュースを一杯ばかり飲んでから、音楽を聴くことにした。
それはアンビエント系の音楽とチルサウンドは自分にとっては温かみのある音楽だったし、それを聞くことによって日常からの、俗世からの乖離を果たすことが出来た。
日常を跨いで〝音楽を通して、この世界の向こう側〟に行くことが出来た。そして、時間を溶かしながら思案を続けたり――とても褒められたことはしていないのだが――日常の毒っ気のようなものを振り落とす事に専念する一日となった。
――翌日はフードコートに出向いた。仕事があったから、その仕事をこなすために。
自分が数日前、兄妹とともに管理番号の埋め込まれた人間を見たフードコートの窓ガラスはしっかりと補修されていて、それによって数時間ほどフードコートが使えないようなこともあったらしいのだけれど、しっかりと補修は完了して人の姿がフードコート内に見受けられた。
自分はフードコートの端の席にいつも座る。人混み、とまではいかなくても陰鬱に似た雰囲気が空間にべっとりと染みついていた。精液の染み込んだパンツがそこに有り様を続ける様のように。
なんだかんだ皆が皆が気のままの時間を過ごしていて自分の様なはぐれ者は見受けられないでいる。自分は席を立つと、お店に自分くらいの年齢の人間が並んでいるのを横目で見ながら従業員用入り口へと向かった。
重苦しい扉を開けると、すぐさま入る。誰にも見つからないでいるのが好ましい。さぁ、どうだろうか、今回は。そこで時間としては十分ほど待つことをした。
少し肌寒い螺旋階段の踊り場に、一人の人間がやってきた。年齢は自分と同じくらいか、少しほど下に見えるけれど実態は分からない。少女、の年齢に当てはまりそうな女性だった。
『いつもの?』 と、少女は口を動かした。
いつもの、といっても少女に会うのは始めてだった。
いつもの、と言うのは自分が〝ある一つの単一性を持った商品〟を売っているからに他ならなかった。少女は細かく縦に頷いた。自分達の間には〝隙間〟のようなものが存在していて、互いに相手に深入りしすぎると、その溝の中にはまって抜け出すことが出来なくなってしまう様に感じられた。それは事実だった。自分は厚手のダウンジャケットを着ている少女に記憶フロッピーディスクを手渡した。しっかりと両手で少女はそれを掴んだ。脇に挟むと、少しだけ嬉しそうに表情を緩める。
代金の二万六千円を自分が受け取った時、初めて少女は、彼女は少し俯きながら口を開いた。口を開いた事に自分はとても驚いた。自分の言葉を持ち合わせていないような彼女だったから。そして彼女が放った言葉にも、素直に自分は驚いた。
「少しだけご飯いっしょに食べない? お腹すいちゃった」
そっと、空間に置き捨てるような言い方だった。自分は刹那に二度、縦に首を頷かせた。
「ああ、いいよ」
フードコートの少しだけ人いない席に我々は座って、彼女はパフェを、自分はアイスコーヒーを選んだ。彼女はパフェの底だけを見つめていたし、目を合わすことを好んでいないように思えた。それがどうだとしても、それはそれでいい、と、自分は思った。
「あなたはなんで記憶フロッピーディスクなんて売っているの? どこでそれを手に入れているの? 私ね、貴方がどうやって商売を続けているのか気になって買いにきた、っていうのもあるの。教えて、色々と」
心の内部の引き出しから、机の上にざっくばらんに無理矢理言葉を出して、そこから必要なものだけを投げつけるような口調で言った。起伏のない言葉達だった。見た目とは相反する言葉達だった。
「なんで、か……そういう生き方しかできないから、って言ったら納得するかな。いいや、自分自身が自分自身の人生に納得出来ている部分が少ないから、そう言ってしまうのも乱暴かもしれない。でも、運命は運命すぎるとそれが〝必然〟にまでなっちゃうんだなって、最近気づいたんだ。だから、生き方がどうとか偉そうなことは言えないけど、簡単に言うなら、成り行きかな。それ以外に自分に言えることはなにもない。君もそうだったり?」
「うん、まぁね。そうじゃないとつまらない〝ホウリツ〟なんかに引っかかっちゃう物、買わないもの。それに高いし。でも、眠りたいの。記憶フロッピーディスクは本物の睡眠に私を誘ってくれるんでしょ? 最高よね、それ」
うん、と自分は一言だけ吐いた。深い溜息も吐いた。
「記憶フロッピーディスクの最たるものだよ。死んだ他人の記憶の世界に潜れる代わりに、副作用として本物の睡眠に、昏睡に誘われる。でも一つ言っておくけれど、そんなに常用はお勧めしない。人生の所在地を変えることができるのは素晴らしいけれど、それはこの世界からの脱却を意味するし、記憶フロッピーディスクの効果が自分の心にどのような影響を及ぼすかなんて、その人によるとしか言いようがないし、だから常用はお勧めしない。どれだけ現実が辛かろうとも、地続きの現実に、存在するしかない。ずっと、耐え抜くしかない……」
――自分達は、それから三十分ほど無言で互いの、互いに存在する入り込んではいけない少しばかりの〝闇〟の領域のような場所に佇むことを我々は選んだ。
それがなにかを果たされるのを待っている様なことなのかは分からなかったが、少なくとも自分が彼女の――蓮花の事を気にしているのではないかという考えは、全く無かった。
蓮花はトイレに何度も行った。あまりにも何度も行くから自分は聞いてしまった「どうしたの?」「トイレに行ってくる、ほっといてよ」――それが彼女の口癖であることを知ったのは数ヶ月後の事だった。
そして、蓮花は自分に帰り際にこんな事を言った。
『――また、買いにくるから』
ああ、とだけ自分は言った。
そしてそれからその後、自分はいつもの顧客、リピーターの男たち五人ほどの相手をしたあと、すぐさま家に帰った。
――記憶フロッピーディスクの売買は、非合法でやってるんで注文の際は、お前も用心してくれれば幸いだ。――自らのお金で買われた物が、何に使われようが自分が何か文句を言う権利みたいなものはないのかもしれないけど、顧客の大半は自分はキメない癖に効きが知りたいらしく、仕入れた時点でいつも自分がご指名だ。
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