もう、いいんだ ③
雑多に存在し続ける固定電話、そこに一本の通達が届く。それを知らせる着信音が久しぶりに鳴ると自分は重たい身体を深海から浅瀬へと引き上げ、刹那に受話器を取った。
『はい』
言葉が受話器を通して〝向こう側〟に届くのが実感出来た。〝向こう側〟の人間は、なんと言葉を紡ごうかと、断片的に内在する言葉達を急ぎ足で駆け集めている様な様相を保っていることを、こっち側の人間として容易に想像出来た。
『約束、覚えてる?』
それはまさしく蓮花の声だった。
『ああ、覚えている。一昨日会った時に約束したやつだよね? だったら覚えてるから、今すぐにでも来て良いよ、自分も今、家にいるし』
そう手短な言葉だけを伝えると、蓮花が〝向こう側〟で『うん』とでも言うような頷きをしているという事が感じられた。何故だか分からないけれど、そう感じた(そして、それは後になって分かった事だったけれど、蓮花は電話をしている事を母親にバレる事が嫌だったらしく、大きな声が出せなかったのだと自分に言ってきた。だから、受話器に向かって頷いた、とも。それじゃあotibaに伝わらないのにね)。
『じゃあ、待ってるから――』そう言って、三つ存在する固定電話の内のひとつ、フロッピーディスクの売人としてではない個人用の使い方をしている固定電話の受話器をそっと元の位置に戻した。
時計は自分に、現在の時刻が朝方の時間帯であることを素直に教えた。
蓮花が自分の家の玄関のドアをノックした時、時刻は朝の八時過ぎを記録していた。
リュックサックを一つ手に持って、家に居させてください――と、言葉を一言だけ発して、懇願しているその姿を見れば〝自分と、その周囲になにを求めているのか〟が刹那的に理解が出来た。拒否権はあるようで、本当はないのかもしれない。まるで、人生そのものが海水の上にぷかぷかと遊泳してしまっていて、それをどうのこうの言いながら手直しを施していこうとしているのだけど、どうにもならないから、とそのまま遊泳を続けている――そんな様な感覚を感じ得た。
緩慢と持続を交互に反復横跳びする情景に、自分の内情は着いていくのに必死だった。端的に言うと、情緒不安定になりかけていた、いいや、もうなっているのかもしれない。蓮花もそれは同じ様で(少なくともそう見えた)、自分は狭い、けれど感情が滴るには最適な環境に、蓮花を招き入れた。蓮花はリュックサックを床に置くと、ベットの上に横たわった。自分はそれを横目で見つめていた。
「ありがとう、泊めてくれるなんて」
「いいよ、別に。一人じゃ寂しいしね」
寂しい、そう言った事実に自分でも内心驚いた。これもそれも、全て〝情緒不安定のせい〟だと、決めつけたい。高揚と憂鬱の狭間で、立ちすくんでいる自分――世界の所在地を何処に制定すればいいのか分からない、そう素直に自分は思った。
いつもなら自分が〝確固たる自分〟として存在していて、その上で周りが、他人が、存在するのだと言えるのだけれど、でも今はそうではなくて〝周りや他人を含めた〝環境〟そのものに自分も同化をしてしまっている様な感覚〟が酷く、憂いが喉元に突き刺ささった様に苛む。
自分もベットに寝っ転がると、蓮花は自分の方を向いて、何か小さく一言呟いた。その微細な言葉に、何を言ったかを聞き取ることが出来なかった。それに気づいたからか、蓮花はもう一度同じ言葉を発した。
「始めないの?」
「何を?」
「昏睡に連れて行ってくれるんでしょう?」
そう地下鉄の中で約束しなかったっけ? と、蓮花は自分の中に存在する事実を、下腹部から胸骨、喉元にかけての辺りをまさぐる様な口調で言った。
彼女の吐息が感じられた。このベットの上では、自分たち私たちは〝ただの男女〟と化していて、それがやけに脆いものであることは知っていた。わかっていたけど、それが理由で自分を制止することになる理屈や、因果のようなものは――少なくとも〝この場〟にはどこにも存在していないようにも感じられたから、自分は、ただ一辺倒に男として、言ったのだ。
「しようか、待っていたんでしょ? 本物の昏睡がほしいって」
彼女は優しく頷いた。
現実が現実でないように感じられる感覚はより進行を進めたように感じられる。それがなんだか、良く分からない。自分はすぐさま記憶フロッピーディスクと体内に摂取を試みる為のチューブを用意し、目を瞑り、受け入れることを心に決めた蓮花の身体に、チューブを両腕に二本づつ、計四本刺した。
その痛みというのは軽量なもので、すぐに慣れる。注射よりも痛みを感じることはないだろう。その痛みというのも、蓮花はすぐに自らの身体に受け入れた。円盤形の機の真ん中、窪みの部分に記憶フロッピーディスクを入れ、そして、記憶フロッピーディスクを入れた円盤形の機器とチューブを繋いだ。
蓮花の中では微震のようなものを感じているはずだ。
とても生温かい高揚感も共に手にしながら、現実からの乖離をはかる。
それはとてもとても瞬間的に果たされた。自分自身の混乱に酷く似た、情緒不安定と向き合っている最中にもう、蓮花は現実から本物の睡眠へと世界の所在地を変えてしまっていたから……。
身体だけがこの世界に残された。自分は、その残された身体を端から端、隅から隅までくまなく点検する人間の身体専門の整備士の様な目つきで見つめ、そして、許可をされたと思い、自分は蓮花の身体の大部分に自らの手で触れた。
昂ぶっていた心が徐々に落ち着きを取り戻していくのが確かに感じられた。それはある意味〝自我〟や〝冷静さ〟を取り戻したのだと言える様な感覚の在り方で――深呼吸をひとつ入れると、さっきまでの自分がどれほどまでに混乱を覚えていたかが分かった。時刻は午前九時三十分を迎えていた。けれど、まだ蓮花は現実には帰ってはこない。
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