第一歩 ②

 朝方の時間帯まで眠っていた。それが〝偽物の睡眠〟であることは確かで、だからこそ世界のどこかしらへの逃避をしたいと素直に感じた。

 魂や心が帰る事の出来る場所がほしいのだ。少なくとも〝ここ〟ではないだろう。大きなガラス窓から外の風景はなんら変わりなく、この部屋と外との境界線のようなものが不在している事に気がついた。いつの間に消えたのだろううか。


 ――昨日まで着ていた濡れていた服を乾かしてからその服を着た。窓辺に残る朝露は朝を生きていることを感じさせる。今日はたまに存在する〝なつあいだ異常いじょう寒冷日かんれいび〟だった。

 時々思う事がある。もしかしたら、世界は〝同じ日〟をずっと繰り返していて――それは同じ普遍的な土台が用意されていて、その上で暑い日だとか寒い日だとか〝季節〟の様なものが着色されるのだろうという諸々を含んだ思案――だから仮に同じ日を永遠と複製するように繰り返されていっても、気づかないんじゃないかと、思うんだ。そして、今日の夏の間の異常な寒冷日についても全く同じ事が言えた。


 ――自分は、ドライヤーで乾かした服を着た後に、水を一杯の半分ほどだけ飲んでから部屋を後にした。とても夏だとは思え無いほどに寒かった。ホテルを出ると、何を食べようかと迷いながらお店を色々と見つける。特に珍しいお店は見当たらない。白く映る溜息が妙にいじらしい。


 歩いている内に面倒臭さを覚えてきた……自分は〝食べ物を食べたという事実〟がほしかっただけなのだ。まぁお腹はすいていたし、けれど食欲のようなものが身体中の何処を探しても見当たらないのだ。誰かの食欲を少しだけ頂戴できないものかと思った。仕方なく食べ物を身体の中に放り込む訳にもいかないし、なんだか疲れも感じているから取り敢えず近くの小さな公園でベンチに座った。誰もいない公園で、意識を手放した。

 何か身体の中からずるずると生命力のようなものが抜け落ちていっている感覚が自分を纏い、寒冷に浸された身体の虚脱感は妙に現実を教えてくれる。どうなれば幸せになるのか、満足するのかも分からずに、ただ自分はそうしていた。不自然と自然を見分け自然に現実に則していた。足下に生える短い雑草を足先で触れながら、意識を現実から手放しながら、考えていた。


 自分から疲弊という概念が抜け落ちていってしまったのかと思う程に現実感が感じられない焦燥に似た、焦燥に身を迫られているような身体の緊張感を感じながら考えていると、ひとつの感情が浮き出てきた。それは蓮花に言った言葉と同じで、そんな言葉を自分が言っていたこともこの時まで忘れていた。


 〝何もかも終わったようで、何も始まっていないのかもしれない――〟


 その言葉は、自分の心を揺さぶった。そして瞬間、意識は身体へと舞い戻った。

 意識が現実の元に帰ってきた感覚というのは、これまでの色々な事がより鮮明に自分の人生の一部として染み渡る様な明瞭とした感覚で、これまで抱えていた鬱屈な気持ちや、感情が少しだけだけれど認められる様になった。何故だかは分からない。けれど、その様な事が起こったのだ。



 ――自分は、パン屋でサンドウィッチを買い、ホテルに戻ってからそれを食べた。そして、食べ終わると睡魔に似た衝動が身体を催促し、ベットの上で少しだけ身を溶かす事を選んだ。

 チルサウンドを聴きながらストレスを溶かし、久しい〝何もかものしがらみがない日常〟を過ごした。それは翌日も同じだった。ホテルに滞在していた三日間の内、自分はほとんどと言っていいほどにずっと部屋にいたし、けれどそれが必然であるかの様な満足を三日間で得る事が出来た。


 日常、と言っても、自分が常日頃どれほどまでに気を張っていて、余白や感覚的な気持ち悪さを気にして生きていたのかが分かった。また、反対にそれが自分の日常であることも現実的な問題として突きつけられた気がするのだ。どこを現実として制定するか、難しい問題だったし、完璧に〝治る〟ことがない自分の心情や生物の根幹に内包されている複雑なマテリアルの歪な衝動も(それはある種の〝病気〟と呼んでいいものかもしれない)、メンタルが単純に軟弱になっている今、自分は抱えていることが多いのだろうかとも思った。自分はそうは思わないんだけど、肉体的な自分はそういう感情を抱えているらしいし。


 普通なんてものは自分の〝視座〟からはなにもない。ただ存在するのは、取り扱い注意の札を貼る必要のある〝感情〟と、隅から隅まで疲弊しきっている〝心〟だけだ。

 余白の狭間に落ちそうになった。そして気づく――自分の生き方というのは、そんなに気づかなくて良い問題に気づかない様に忙しい日常で余白を埋めているのかもしれない(即ちそれは〝余白に落ちない様に〟ということだが)。自分は自分の人生の大半を、なんとも言えない漠然とした不安のような感情で埋めていた。

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