慢性的な避暑地 ⑥

 それに関して言えることはただの一つも存在していなくて、けれどその中から幼稚な自分の幼稚園児のような頭を振り絞ってやっと言葉を抽出してみるならば、不本意に近しい言葉が、出てきてしまう。〝やめておいた方がよかった――〟素直に自分はそう思ったし、自分、と自分以外の生物の、大事なその〝境界線〟のようなものがこれほどまでに消失し、見当たらなくなったのも久しかった。他人と自分との境界線が見当たらなくなってしまった、とも言えるかもしれない。


 蓮花がそのような行動を取った意味のようなものを知りたかったし、予見出来る範疇の出来事に意識を向けてみても、少なくとも〝自分達〟にとって良いと言える様な、そんな出来事は一つも思い浮かべる事が出来なかった。けれど自分もその誘いに乗ってしまった事は事実で、変えられようのない真実なのだ。


 〝あれ〟があった事に関して言える事はなに一つも存在しない。ただ、それを自分達が後悔に似た情念を抱えながらベットで抱擁をしている事実が生まれただけだ。


 それは数時間前の事だった。



 ――蓮花は自分を誘った。自分の実家に久しぶりに行きたいから、ついてきてくれないのかと自分を誘った。自分は刹那的に首を縦に頷かせた。


 自分達は電車に乗って、実家へと向かった。電車の中は懐かしさを覚えるほどに人混みで溢れていた。沢山の人間が密集しているところを見ることなんてここ最近じゃそうそうなかったから、蓮花と共に二人だけで空間を保つことが出来るワンボックスに似た横並びの狭い席に座った。そうすると自分達の繊細で静寂な世界を守り続けることが出来た。


 自分――いいや〝自分達〟と、他者との境界線はハッキリと目の前に登場し、その境界線というものは時間が経つにつれよりその濃さを深めていった。各駅に停車する度に夏の帯を取り外され始めている冷気に似た空気が入ってきて、その冷気に似た空気から逃れるために(主に蓮花の方から)身を寄せ合って我々は身体を温めた。そうする度にも、自分達を包み込んでいた包括感というのがより深くなっていっているのを感じ取ることが出来た。このまま本当に自分達だけの世界に行ってしまいたいとも素直に思った。


 風景の移りゆく様を見つめながら、自分は蓮花が話す実家に関する話を聞いていた。色々な事も訊いた。その中で蓮花の実家が金愚最重要最底辺放置区にあるという事を自分は初めて知った。自分は放置区には行ったことが無かった。トレーラーハウスが立ち並んでいて、犯罪率が都市部と比べて高い貧困地域である、ということ位しか知らなかった。電車の中で蓮花は寝てしまった。otibaは寝たかも知れないけど、私は寝てないのよ。少し寝るね――蓮花はそう言ってから眠った。


 それが本物の睡眠ではなく、ただ目を閉じるだけのことであることは蓮花の場合も例外ではないし――でも自分はそうじゃない、勿論例外なく夢の中に逃げる事が出来ない時の方が多いけれど、自分は記憶フロッピーディスクも何も使用せずに本物の睡眠を手に入れる事が出来ることがたまにある――それが不思議で堪らなかった。蓮花と自分との間に、大きな違いあるとすればなんなのだろうか? 電車が放置区の最寄りの駅に着いても尚、答えが出てくることは無かった。本物の睡眠を得れる人間と得る事の出来ない人間の違いは、なんなのだろうか?


 自分達は電車を降りて、最寄り駅から放置区へと向かった。蓮花は電車に揺られている最中の自分に〝遠いところにあるの〟と言ってきたが、まさか三十分以上歩くことになるだなんて思いもしなかった。自分達は手を繋ぎながら放置区へと向かい、着いた頃には繋がれていた手も互いが互いのポケットの中に帰っていた。疼いてる手をポケットの中で遊ばせた。まだ蓮花の生温かい温もりが手の中に残っていて、それを反芻するかのように感じ取ることが出来た。


 蓮花の後を着いていった。蓮花の実家に着くまでに互いに会話らしい会話など存在しなかった。時折蓮花は自分の方を振り返ってきて――そんな姿はまるで飼い猫を着いてこさせるわんぱくな小さな女の子の様に思えた。そんな事が永遠続いていたように感じられる。実時間としては一時間にも満たなかったけれど。


 歩き続けていると大きな草原が見えてきた。そこが金愚最重要最底辺放置区であるということは一発で分かった。都市部と比べると自然豊かな場所に見えた。沢山のトレーラーハウスが立ち並んでいて。その一つひとつのトレーラーハウスは大人が二人生活するのでいっぱいいっぱいな場所に思えたし、けれど狭いわけじゃなさそうだった。トレーラーハウスと言っても移動する事なんてほぼ無いだろうし、だからから普通のトレーラーハウスよりかは大きい様に見えた。複製品のように立ち並んでいるトレーラーハウスの一つ、その目の前まで蓮花が案内をしてくれた。


「ここが実家。貴方の家の方が家賃は高いと思う」


「さぁ、どうだろ。両親と三人で住んでるの?」


「パパは死んだ。殺されたって言った方がいいかも。優しい人だったんだけどね。少なくとも私には。お母さんは何故かまだ生きてるよ。二人暮らしってことだね。まぁ今は貴方といるけど」


「そうなんだ」


 お母さんの事は嫌いなのだろうなと感じた。そして対極的に、お父さんの事はパパと呼ぶほど好きなのだろうとも思った。自分が此処に来ていいものなのだろうかと一瞬悩んだ。何かあったしてもまぁそれはそれで、とも思った。


 自分は蓮花の後に続くようにトレーラーハウスの中へと入った。中は普通の家のリビングとなんら変わりが無いように思えた。普通のリビングだった。ここがトレーラーハウスの中であると一瞬では見抜くことが出来ないだろうなと思えるほど、至って正常だった。強いて言うならば、キッチンと、ソファーとテレビが存在するリビングとの距離がほとんど離れていないことだろうか、それでも、ある程度小さい家ならこんなものだろうとも言えた。


 蓮花はソファーに自分を座らせた。中くらいの電球が部屋を照らしていた。蓮花がここで(何歳の時からかは分からないが)生活をし、全ての感情を抱え、全ての鬱憤を抱えていたと思うと自分はその〝昔〟と〝今〟を含む全ての蓮花という人間の人生の小説で言えば一ページ目からその終わりまでの全てを開いたかのような感覚に陥った。


 蓮花という一人間の全てを、分かりやしない。分かろうともしたことはない。けれど、この場所にいると自分が蓮花という人間にとっては少しだけだとしても特別な人間なんじゃないのかと思ってしまうのだ。それを妄想だと言われても良かった。自分は蓮花の大事な部分を知った様な気がした。素直に自分はそう感じたのだ。


 蓮花は自ら自分の隣りに腰掛けると、自分の腕を両手で掴んできた。蓮花の匂いがより近く感じられた。それはこの家全体に充満している匂いとも言えた。蓮花は自分の腕を絡め取ったまま、動こうとはしなかった。彼女の緩やかに登り緩やかに下る呼吸の起伏を感じ取ることが出来る。そのまま蓮花は眠ってしまうのではないかと思ってしまうほどに、自分の方に寄りかかってきてそのまま斜陽に感情を露出させるみたいに〝そこ〟に留まった。


「お母さんいないね」


「そうね。どこか行ったんじゃない? それか死んだんじゃないかしら? ……そうだったらそうで嬉しいんだけどね」


 と、その時だった。


 自分達を包み込む包括的な空間は、騒然を帯びた物音と共に崩れ去った。蓮花は深い溜息をつきながら自分から離れた。玄関の扉が開いた。中に人が入ってきた。それはまさしく蓮花のお母さんだった。自分は玄関とは真逆の方向を向いた。著しく気分の損失、低下を蓮花は感じているようだった。


「帰ってきちゃった……」


 多動気味に落ち着きを無くした蓮花の挙動は、居場所として確保していた巣穴が失われたリスのようにも思えた。自分から見える今の蓮花はとても弱かったし、とても脆弱だった。


 母親は自分を捉えたようだった。感覚としてでしか自分は分かってないけれど、母親は自分を捉えた後、一度視点留めたが、すぐに買い物袋に入った野菜を冷蔵庫の中に入れているような音が聞こえた。蓮花はさきほどから走らせていた思考の結果によるものなのか、そうではないのか、分からないが何か自分の中で決め事が制定されたかのように、吹っ切れたかのように、また自分の手を握ってきた。


 さっきと比べれば明らかに手が冷たくなっているように感じた。冷蔵庫の勢いよく閉まる音は自分達に妙な温度を覚えさせた。仮に自分が小説家であれば今の自分達をこう描写すると思う――〝まるで植え付けられそうになっている冷酷さを、互いの生温かい手を握ってなんとかはね除けている弱者のふたり〟であると。


「あんたが男を連れてくるだなんて、どうしたの? 乗せられたの? もう男は懲り懲りよ」


「あんたの男じゃない。あんたには関係ないでしょ」


 語気の荒い蓮花の言葉というのに自分は内心驚いた。彼女の内部にそんな言葉が内在しているとは思ってもいなかった。


「男なんていらないって昔言ってなかった? 今はそうじゃなくても、今も昔もあんたはあんただし、か弱い女の子のままなんだよ。これ以上私を悩ませないでくれる? ……もう……また今日も夢の中に逃げないといけなくなっちゃったじゃない」


 自分は一度会ったことあるのだろうかと思った。


「そんなの知らないし。私がどう生きたっていいじゃない」


「いいや、そんな単純な問題じゃないでしょ? あんたまさか……最近家からいなくなってどこほっつき歩いてたのかと思った、この男の家に行ってたの? ……あり得ない」


「うん、そうだよ。何か悪い? 男がどうとか……男は悪い皆悪い人だとか……結局はママが女として駄目だったからそういう男にしか相手にしてもらえないのが問題なんじゃないの?」「ええ、そうかもね。悪い?」


「うん、悪い。パパはいい人だったのに、あんな人と上手くいかないのなんて大体ママの性格が悪いせいだからじゃないの? 誰が風俗嬢の女なんかを本気で愛すの? ……それでも愛してくれたパパを嫌悪するだなんて……信じられないんだけれど」


 二人の罵詈雑言の応酬はやけに時間の進みを鈍化させる。実際どれほどの時間が応酬に費やされ、自分が窓の外を眺めていたのかは分からないが、応酬が続くにつれ、二人の言葉はより尖りを覚えていっていた。

 自分はそんな状態の人間を止める術を持ってはいなかったし、仮に持っていたとしても止めるつもりなんざ更々なかったからただ窓の外に不必要になった感情の焙煎をしている事で時間の経過を進めた。


「あんたが家からいなくなったとき、あぁ死んだんだって思ったよ。身寄りも無く、街を徘徊する男たちにレイプされて死んだんだってね」


 その言葉を最後に、蓮花は家を飛び出していってしまった。


 ――転がる錠剤と応酬の残骸が残した空気感は、まるで後味の悪い小説の読後感だった。

 後味の悪さは舌に毒を垂らした様だった。これまで食してきた、口に含んできた美味たちを心の陳列棚に保持しておけば良かったかもしれないと自分は思った。それほどまでに舌の上で苦みというものが想起された。母親は一人取り残された自分の方をずっと見つめていた。自分は、窓の外に視点を向けることをやめはしなかった。どうすればいいのかと迷った。


「貴方と蓮花の関係性って、一体なんなの?」


 蓮花と自分の関係性……他人に主張できる関係性など自分たちは持っているのだろうかとふと思った。仮に他人に主張出来る関係性というものを持っていなくとも今の自分達はなんだかんだ気持ちはある程度昔よりかは満たされてるし、不満の温床に住んでいたあの頃には考えられないほどに健やかな気持ちを感じることが出来ている。でも、自分たちの関係性というものを表す決定的な行動と言えば〝セックス〟以外に何もないようにも思えた。


「別に、って言った感じですよ。特に危ない関係でも無ければ、付き合っているわけでもないんです。ただ、一緒にいるだけ」


「それで貴方は幸せなの? それであの子は幸せなの?」


「さぁ、どうなんでしょう。少なくとも自分は今の生活を続けていきたいって思ってますよ。蓮花の方は……分からないですね」


「そう……」


 そんな会話を最後に、母親と自分との間に交わされる言葉は一度全く無くなった。けれど、何か思い出したかのように、母親は自分に対して話し始めたのだった。


「まだ私が風俗嬢で働くことに違和感を覚えていたとき、それは若い頃ってことね。あの子から聞いたことがあるかもしれないけど、あの子からしたらお父さんに当たる人物がいたのよ。今はもう死んじゃったけれど。殺されたのよ、優しい人だったわ。今思えば私も馬鹿なことをしたなって思うし、いいや、正真正銘の馬鹿だったわね。旦那が殺されるまでは普通の家庭だったと思うわ。まぁ昔から此処に住んでいるから、貧困が当たり前だし、それでも普通の家庭って言ってもいいわよね? だから、自分が風俗嬢をやっているという事を隠し通している事以外、なにも問題らしい問題なんてなかった。でもあるとき、自分が風俗で働いていることがバレてしまったのよ、何故かしらね、強いていうならそういう運命というものかしら。そこで生まれて初めて、男性と喧嘩というものをしたのよ。怖かったわ、こんなにも私って他人に対して嫌悪感を抱いてしまう人間なんだってね。それまでは蓮花も明るい子だったのよ、信じられないでしょう? 私の前ではそういう姿は見せないでって言っているけど、煙草だって記憶フロッピーディスクだって嫌いな子だったのよ。でも今は色々なものをあの子は摂取しているでしょう? こればっかりは私の想像だけど、貴方なら分かるはずよ。――人が変わってしまった、そう言えばいいのかもしれないわね」


 そうですね、そう言いたかったけど、そんな言葉は今のこの空間には必要ないと感じたから、自分はただただ頷きを見せた。


「ところで、貴方今悩みってあるかしら」


「悩みですか、特に悩みらしい悩みはないですね。悩んでいる事が日常みたいなものなので」


「私はあるわ。聞いてくれるかしら?」


「まあ、いいですよ」


「今付き合っている男性がいるんだけどね、その人がクンニしれくれないのよ」


「知らないですよそんなこと」

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