慢性的な避暑地 ⑦

 自分はそれが良いことなのか悪い事なのか、それはをいくら考えようが胸の奥から引き出して手に取って触ってみようが、分からない事だが。


 蓮花と自分にとっては限りなくそこに自分達の〝意見〟など入れる事が出来ないのではないのかと思ってしまうほどに後味の悪い時間帯を過ごす事になった。蓮花の母親は自分達に〝ご飯を食べていかないか〟と訊いた、自分はまず家の外に出て行ってしまった蓮花の元に行き、そのような事を訊かれた事を伝えた。蓮花は不満のような様相を腹に抱えながらも頷いたし、だから自分にとってはそれが蓮花にとって〝必要〟な出来事であると素直に思った。


 家に戻ると、テーブルの上に我々の――少なくとも自分の身体から言葉が剥がれ落ちる音が耳元でハッキリと聞こえた。そしてそれは後味の悪い小説の読後感を超えた余韻のように、今もハッキリと類似品のない感情としてありありと思い出すことが出来るのだ。テーブルの上にはそのような食べ物ばかりが並んでいるように思えた。


 蓮花は有無を呟く素振りすらも見せずに席に着いた。自分はその隣りに座った。温室に閉じ込められていたサラダはとてもジメジメとしていたし、そんな形で皿の上に姿を見せているサラダはの様相は、まるで雨降りの路上に寝っ転がっている人間のようにも思えた。ああ、今から自分は人間を食するんだ、そのような悪足掻きを胸中に覚える。サラダの他にはパスタがあった、とても不健康そうなパスタであると思ったし、茹で上がるまでのプロセスというものを自分は見ていないからか、それは普通のトマトパスタであると思うことが簡単にはできなかった。自分たちがそれを食べ終わるまでに、我々の間にも会話らしい会話など、言語らしい言語など発せられなかったし、それは我々だけに限らず母親もそうであった。


 ――それは自分が食後のお茶を口に含んで飲み込もうとしている時だった。

 母親は突然自分に向かってこんな事を言ってきた。


「蓮花とは、どのような関係性でありたいと思っているのかしら?」


 自分は口に含んだお茶を飲み込むのに少し時間を要した。それは自分にとって凄く難しい質問だった。


「どのような関係性……特にこれ、っていうものはないですけど、でも今の生活は楽しいですし、さっきと言った通りに、自分達はただ、ただ一緒にいるだけ」


「そう、じゃあ別にいてもいなくても変わらないわけね?」


「いいやそういう訳じゃないんです。一緒にいるだけでも楽しいし、どっちにしても蓮花という存在が自分の人生において必要であることは間違いないですよ。ただ、それ以上でも以下でも無いって言ってしまえば味気ないかもしれないですけど、そんな感じですね」


「私の意見を言ってもいいかしら?」


「もちろん」


「私としてはね、本当は蓮花に男の匂いがついてほしくないのよ。別に貴方たちがどんな関係性でいたいと思おうが、それは勝手だけど、でも私はそう思うの。どうかしら?」


「どうかしら……って、なにがですか?」


 不意に蓮花の方を見ると、蓮花はとても呆れを通り越していて――自分とのセックスの時には充満していた身体言語というものの全てが身体から剥がれ落ちてしまっていた。この状況の全てに対して蓮花は非常に言葉というものの不備を覚えているようだったし、それはまるで自分達の築き上げてきた空間というものを必死に守ろうともしている小動物の様だった。これまでのどんな瞬間よりも蓮花の姿が幼く見えた。今までのどんな瞬間よりもか弱く思えた。


「ただ、私は蓮花から男の匂いというものを嗅ぎたくないだけなのよ。ただ、それだけ。」


 何が言いたいのか全く分からなかった。


「貴方が言いたいのは結局なんなんですか? こう言ってしまうのも悪いかも知れませんけど、蓮花はもう立派な人間だし、あんまり胸を張って言うことはできないけれど自分も一緒にいる。蓮花は一人じゃない。男の匂いが付くのが嫌だって言っても、自分なんて男じゃないみたいなものなんですよ。別に……貴方が今まで出会ってきたような男達とは、違う」


「蓮花はそれでいいの? こんな男とずっと一緒にいて、でも最後は結局捨てられる運命に遭ってしまうんんじゃないかって、思うんだけど」


「……だから……この人はママが今まで見てきた男の人とは違うの、捨てられるって……この人はそんな事をするような人じゃない」


「それは私だって若い頃思ったわ。でも、今は違う」


 蓮花の表情が着々と嫌悪が露呈した、今まで見たことがない表情に移り変わっていっているのが目に見えて分かった。


「ねぇ……それでいいの? 本当に。蓮花の過去を知らないからこの人はこんな事を言えるのよ? 蓮花の過去を知れば、蓮花と一緒にいようだなんて思わない。それは私だって例外じゃないのに。教えてあげるわ貴方に、蓮花に昔、何があったのかを」


「いいよ別に……本当にやめて」


「黙ってなさい」


 自分はどのような感情を自分が抱えているのか、分からなくなっていた。どのような味でパスタを食べていて、どのような後味でお茶を飲み込んでいたのか、分からなくなった。現実感の消失は遙か遠くに押し込めていた自分の触れたくない、感情の倉庫を開けてしまったようにも思えた。口と心から湿りが消えて乾きを覚えた。


「蓮花はね、昔レイプされたのよ。それも何十人もの男達にね。彼女はそこまでは話してくれなかったけどそれは紛れもない事実だし、蓮花自身の身に起きた現実なのよ。さっきも言った通りに、蓮花は一から十までの全てを語ってはくれなかった。それは今もそうよ。だから蓮花がどう感じたのか、それは本人にしか分からない事だけど、でもその現実を変える事は少なくとも私には出来ない。だから、私は本当に、実直に蓮花の元に男の匂いがついてほしくないと心から願うのよ」


 現実感が自分の元から飛び去った。逃避行を仕掛けて〝ここ〟ではない何処かへ行ってしまった現実感を自分は激しく羨んだ。此処ではない何処かへ飛んで行ってしまいたいと自分も素直に思ったからだ。呼吸が激しさを帯びて、感情を苛烈に揺さぶった。自分は蓮花の事足りない部分に自分の事足りている部分を入れた時の事を思い出した。そうすると、また一つ現実感は自分の元から立ち去った。そんな中でも自分のペニスは熱を帯び、だが心は冷ややかに揺さぶられている感情に対して不真面目な達観を抱いている。蓮花は家から出て行ってしまった。


 急激に萎れていく感情の起伏は、谷の様にも感じられた。蓮花の膣は汚されていた。見知らぬ男によって。自分の心は激しく殴り殺されそうになっていった……見知らぬ男によって。


 ――どんな感情を覚えれば満足なのかも分からずに、ただただ無意味に近しい感情だけを汲み上げて辿り着いたのは、とぼとぼと世捨て人のような足取りで歩いていた蓮花の背中であった。自分は蓮花の実家のトレーラーハウスを何も言わずに飛び出してきてしまった。そして、蓮花の背中を追いかけた。蓮花は激しく自分を恨んでいるように思えた。だが、蓮花はとても嬉しそうにも見えた。いいや、本当に微笑を浮かべていたんだ。蓮花は自分にこう言った。


「ごめんね」

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