人類の落としもの ②

 重厚な真紅のカーペットを低俗な軍靴で歩く。


 自分達はホテルの廊下に存在していた。似つかない軍人が持つ似つかないアサルトライフルの揺れる音と、軍靴が侵食する真紅のカーペットが喘ぐような様は妙な現実感の喪失というのを自分だけに留まらずこの場にいる全ての生物に与えた。ホテルの廊下を自分達はゆっくりと前へと進んだ。どこに辿り着くのかも曖昧なエレベーターによって誘われたホテルの廊下は、自分達という存在をただ単一的で純然な〝部外者〟であると捉えたかのように〝延び〟というものを見せる。エレベーターに乗って降下してきた頃に見えた、廊下の長さよりも明らかに長く、もし終着点やら廊下の行き止まりがあるのだとしたら、それは果てしなく遠くなっていた。


 自分達が進む両脇には永延と同じ様な客室への扉というものが見えたし、だからもしかすると自分達は同じ場所をルームランナーの様に歩かされていて、壁だけが因果律を以て自分達に先へ進んでいるような感覚を投与しているだけなんじゃないかと一瞬思った。自分達はこの階層――廊下と客室の狭間に、閉じ込められていた。けれど、そんな考えはすぐさま突然のことによって心の奥底へとしまわれることとなった。突然隊長は口を開いた。


「よし、お前ら手分けしてこの扉の部屋を一つ一つ調べ上げるぞ。もしかしたらこの階層から抜け出す鍵があるかもしれない。やってみるぞ」


 自分達は刹那的に頷いた後、各自扉を蹴破って部屋の中へと入った。世界を動かす人間がこんな所にいるのだろうかと思った。部屋に入ると埃っぽい空気が鼻を襲った。自分は口元を押えながらより奥へと入った。

 家具やアメニティ、部屋の大部分を占めているベットに至るまで、全てのものが均一的に存在し、そして必然的に〝そこ〟に存在していた。それ以外は特になんとも思うことはなかった。自分は部屋の電気をつけようとしたが、やめておいた。自分は部屋全体をしっかりと見渡した。もしかしたら、世界を動かす人間がどこかにいるのかもしれないし、もしいなくともこの階層を出る事の出来る鍵みたいなものが手に入るのかもしれない。


 自分はふと、部屋のベットの縁に腰を下ろした。ふと、両手で必死に抱えていたアサルトライフルをくまなく点検するかのように見渡した。アサルトライフルは自分がさきほどまで感じていたよりもより重く感じられるようになっていた。アドレナリンの後退なのかと一瞬思ったが、それがアドレナリンが落ち着いたことによるものなんかじゃなくて〝本当に重くなっている〟という事に、自分はどのような思慮をし、どのような感情を抽出すればいいのか分からなかった。


 気がつくと部屋のドアが閉まっていた。廊下を照らしている電球の木漏れ日や白日のような淡い灯りが、暗室となっている部屋を照らすことは二度と無かった。自分はそれに対してどのようにも思わなかった。驚くほどに驚いていなかった。自分は強く吐き出すように咳き込んだ。急激な立体感のある現実の流入に咳き込んだ。部屋の匂いというものが急激に自分の身体に入ってきたのだ。埃っぽさは喉を突き刺し、感情を入れ込む隙間のない乾燥した空気感はやけに自分を突き放す。汚らしいアサルトライフルなんかは床に落とした。ヘルメットも脱いで、それを自分は遠くへと放り投げた。遠く、遠くでガラスが割れるような音がしたけれど問題はない。


 自分は、整端な表情をしていて貞操の守られているベットに身を放り投げた。花柄に精子をかけるように、美しさの保たれている構造物を破壊したようだった。自分はベットに包み込まれて、そのまま寝てしまいそうになった。

 睡眠が自分の手元にまで到着し、それを自分がゆっくりと迎合しようとした時だった。突然――自分の身体は、肉体的な構造物を――いや、肉体そのものを――迎合していた。それがどのような状況であって、どのような事象が目の前で起こっているのか、一瞬分からなくなってしまった。


 けれど、エレベーターを下降してこの階層にきた時から失われていた現実感というのが、目の前の事象へ対する把握と共に急激に訪れた。自分は、女を抱いていた――。それは抱きついているのではない。明確な〝セックス〟としての肉体を抱いていた。


 自分の身に纏われていた重装備はどこかへと旅立てしまったようだった。自分は全裸になっていた。地肌に美しさの造形美が集約されたベットの感触が感じられたし、それによって急激な現実感の到来と戸惑いに似た感覚が自分を襲った。そして自分が戸惑っている間に、女が自分の事を襲った。

 それはまさしく〝女〟だった。それはまさしく急ごしらえの快楽ではない〝女の肉体〟であったし、過去の品定めするにはふさわしいセックスに似た、肉体的な受容を感じるセックスであった。自分は彼女の中で果てた。紅いルージュで破壊的な絵を描いた。自分は自分がした事の大きさがまだ分かっていなかった。だがそれだけは分かっていた。自分は女の表情も、容姿も、有り様も、何もかもを暗黒に包まれながら視認する事無くセックスをしたのだった。


 不安は波打ち際の海のように増幅したり低下をしたりを繰り返してはいた。けれども、自分はその不安というものが立ち去る感覚を得ることが出来てしまうくらいに、女の身体に類似性を感じたのだった。まるで蓮花本人を抱いたようだった。その位に類似性の感じられる身体だった。

 自分は、果てた身体を這う様に更に貪り尽くそうとしている女の身体を一度止めた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。君は一体誰なんだ? 顔も見えない、容姿だって暗くてハッキリとは見えない、けれど一度抱いた事があるみたいに君の身体には類似性を感じるんだ。……君は、一体誰なんだ?」


 全裸の状態の自分は、全裸で身体を這わそうとしている女にそう言った。女は首を二回横に振った。それだけは暗室の中で唯一視覚で捉える事が出来た。後は感覚的にしか分からなかった。女は、自分の身体から降りたようだった。自分の身体の上から女の気配が消えた。女は自分の左手を握った。自分がそっちの方を向くと、女は首を横に二度動かした。自分はそれからそっちの方を見ることはなかった。さっきしていたセックスの匂いが、まだそこに残っているのが感じられた。――女は自分の左腕に幼稚な乳房を押しつけながら言った。


「ねぇ、私の話を聞いてくれる?」


「もちろんだよ」


「そう、優しいのね。大好き。」


 ペニスから愛液が垂れ始める。その幼稚な乳房を貪りたいと思った。


「よおく覚えておいてね。忘れちゃ駄目、私の身体というのに自分の一番愛している人との類似性を感じたのならばより、ね」


 自分は、分かった、そう事務的に呟いた。


「ねぇ、知ってる? 本当に愛している人同士って、互いにある種〝所有され合っている感覚〟ってあると思うの。それって素晴らしいことじゃない? 互いの身体が互いの身体の一部となっているし、だからこそ痛くもあるし死にたくもなる。だからこそ、本当に人生を懸けて愛していきたいとも思う。それは義務でも何でも無いし、強制されることでもない。だから、幸せのモデルを追いかけるみたいに――つまり、こうすれば幸せになれます、だとか、これが幸せなんですって流布されている〝幸せのモデル〟を――追い求めすぎて本当に欲しい訳でもない恋をしたり、まぁ、恋なんてただの消費に過ぎないのかもだけど、でもそんな感じに人間というのは〝恋〟をしていく訳なのだけれど。端的に言うとね、私はそれが嫌いなの。所有し合っている感覚というのは素晴らしいけど、ただの恋は互いが互いのただの〝所有物〟じゃないかって思い始めてから、私は恋というものをしなくなったの。でも、ある一人の男性がそんな私の感覚を根底から変えてくれたのよ。所有し合っている感覚というのを〝互いが互いの事を最大限尊重している感覚〟という風に解釈する事が出来るようになったのも、その男性のおかげよ」


「その男の人は凄く優しいんだね」


「ええ、本人はそれに気づいていないけどね」


「自分の事を否定していたりするのかな? そんなに自分がとやかく言えるわけじゃないけど、自分を事を否定しすぎたり卑下したりするのはあまり好きじゃないな」


「そうなの?」


「そうだよ。だって、自分の一番近くにいてくれる人はやっぱり自分だし、自分を癒やすのも傷つけるのもまた、自分でしょ」


「もし貴方が私の一番愛している人にもし会う事があったら、そう言ってくれる?」


「ああ、多分言えると思うよ。分からないけど、多分ね。ところで、その君が一番愛している人って誰だったりするのかな?」


「貴方よ。otiba」


 抱いたことのある身体だと思ったよ……。


 自分は少しの間どうする事も出来なかった。ただ、自分が次に吐くべき言葉を身体の中から探しているだけだった。


「……君はさ、蓮花なの?」


「ええ、そうよ。…………ごめんね」


 自分は驚いた。


 そして自分は、それはまるで衝動的な感情によって導き出された〝答えそのもの〟のようなものに気がついた。――〝自分の潜在意識が反映されたんだ――〟正直なところ、そう思う以外にどのような答えも今の現実を自分が受け入れられそうになかった……。


 蓮花は全裸のまま部屋の外に出ていった。蓮花がいとも簡単に開けたドアから廊下の方を除くと、何か銃撃戦でもあったんじゃないかと思ってしまうほどに〝血飛沫〟が舞い、そして廊下の壁を彩っていた。そして思い違いなんかじゃなく、そこで本当に銃撃戦があったのだと分かった。蓮花は銃撃戦のあった廊下を――政府側の人間である事を示すワッペンの付いた戦闘服を着た戦闘服の死体が転がっている廊下を――全裸でとぼとぼと歩き去って行っていた……。血溜まりを素足で歩きながら、死んだ戦闘服の身体をむさぼりながら。


 自分は、そんな蓮花の後ろ姿にどのような言葉も出なかった。いいや、今どんな事を呟いたって自分の感情の居場所が見つかるもないけれど。自分は突然肩を掴まれた。それは隊長であった。隊長は、茫然としていた自分にこんな事を言った。


「お前、何やってたんだよ。こっちは大変だったんだぞ。まあいい、早く戦闘服を着直せ」


 自分は部屋の中に戻って――部屋の中はとても形容しがたい歪な愛の匂いと、偏屈で鬱屈としているティーンエイジャーの態度のような様相が〝部屋〟と、それ以外のホテルの全てが別の異次元にあるかのような印象を自分に与えた――自分は戦闘服を着直した。


 衝動に優位性で負けたそこら辺に投げられたヘルメットとアサルトライフルを拾い直し、自分は部屋の外に戻った。ドアは勝手に閉まった。そうであってほしいと自分は素直に思って、そしてその様にドアは勝手に、まるで意思を持ち始めた生命体の微弱なる一挙動のようにゆっくりと閉まった。自分の意思がこの世界では現実に反映されることは間違いなかった。


 自分は隊長から何があったのかを聞いた。何もかもあったよ――彼はそう言って笑った。乾いた笑みはその〝何もかも〟という言葉に含まれた〝何もかも〟を想起さえたし自分はそのような言葉によってここが地続きの現実であるという事と認識出来た。

 隊長と自分以外の二人は負傷をしていた。自分とコールド・オブ・ナーとの橋渡し役になってくれている〝彼〟も負傷していた。


 自分は真紅のカーペットに横たわった彼の治療をした。腹に包帯を巻いた。こんな簡素なものでいいのだろうかと思った。状況を見る限り、政府の戦闘員達がこの階層に到達したようだった。でもそもそも、自分達がさっきいた美術館の階層には政府の戦闘員達がいなかったように、どのような原理を以て同じ階層に飛ばされるのかも自分は分からなかった。


 でも、目の前で政府の戦闘員達が死んでいることは確かだった。自分は戦闘員達の戦闘服を漁った。左腕の側面には、政府の特殊部隊(戦闘員の中でも上位のクラスの部隊)である事を示すワッペンがあった。だからか、と思った。だから、意図的に幾つもあるであろう階層に出入り出来るのだろうか。分からないけど、そのようなことにしておいた。


 彼ともう一人を含めた二人も負傷状態からなんとか起き上がった。もう一人の方は頭部に弾丸が掠ったようであった。

 鉛玉の重みを受けた頭部から、真紅のカーペットをより一層深いものにする血液が垂れ込んでいるのが見受けられる。自分達は顔を見合わし、再度前に進もうとした時だった――背中越しにエレベーターがこの階層に着いたことを示す、チーン、という甲高い音が聞こえた。その音は自分達に様々な事を想起させた。


 隊長はアサルトライフルを真っ先に構え、エレベーターの方に狙いを定めた。それに連なるように自分達も狙いを定めた(けれどそれは自分とっては激しい、格好だけの〝虚勢〟であった。自分はこの後、エレベーターを降りる男達に向かって、アサルトライフルの引き金を引くことは出来なかった)。


 降下してきたエレベーターから男達が降りてきた。

 刹那、自分達はその男達を撃ち殺そうと銃を発射した。


 アサルトライフルは唸りを上げ、装填されていた弾の全てが打ち終わると我々は、廊下の奥に一斉に走り出した。エレベーターから降りようとした男達を、自分達は殺す事が出来なかった。さっき殺した死体の数々の肉体の上を、容赦なく走った。自分が先頭で走っていた。誰かがアサルトライフルのマガジンを入れ替えている音だけが自分の元に届いた。後ろから男達が明確な意思を持って自分達を殺すために追いかけてきているのが分かった。


 自分はヘルメットを脱ぎ捨ててそのまま床に放り投げていた。背後で〝彼〟が息を荒くしているのが分かった。自分達はただ逃げることしか出来なかった。その時だった――誰かが(恐らく隊長が)、入れ替えていたマガジンの銃弾を使って人を殺している音が聞こえた。その音にはまさしく殺意があった。誰かが倒れたような鈍い耳の奥に残る音が聞こえた。


 自分はふと背後を振り返った。――誰かが倒れたような鈍く耳に残る音を、誰かが銃をぶっ放して政府の戦闘員を撃ち殺した音であると思っていたけれど、それは違った。〝彼〟が倒れていた。彼は流れ弾を食らっていた。


 そしてもう一人のメンバーももう走り続ける事は困難なようだったから、自分は色々な事を覚悟した。今負傷していないのは自分と隊長の二人だけだった。もう一つ人が倒れる音が自分の耳元に届いた。背後を振り返ると〝彼〟ともう一人のメンバー(名前は分からない、ごめんなさい)が大勢の男達に踏み潰されているのが見えた。死んだ、と思った。隊長は自分からアサルトライフルを奪った。そして、走り続けることはやめずに両手で銃をぶっ放した。そこに整合性なんて存在しなかった。殺すか、殺されるか、ただそれだけだった。


 自分はもう自分が走り続けることは困難だろうと思った。自分の中に残されている体力は微量だった。けれど追いかけてきている男達というのも少なくなってきているのが分かったから最後の体力を振り絞って走り続けた。隊長はアサルトライフルを両方捨てていた。


 あれほど潤沢にあった弾がなくなったようだった(それは後から分かる事なのだが潤沢にあった弾というのはこの階層に降りた段階で何故か大部分が消失していたようだった)。――それは突然の事だった。だから自分はどうすることも出来なかった。床が突然消失していた。廊下の床が溶けていたのだ。自分は溶けてなくなった床に陥没して現れた穴の中に落ちる形で吸い込まれた。



 ふと、自分の全身を何か、包括的なものに抱擁される感覚が包み込む。それが水の中に落ちたからであると気づくのに多少時間を要した。自分は、まるで羊水の中に存在しているみたいな感覚に水の中で必死にもがいた。もがいてもがいていればいるほどそれが無駄なんだと思えてきてそして実際もがく事は不要だった。自然に身を任せているうちに、自分は水の中から外へと顔を出していた。自分は辺りを見渡した。そこはまるでダムの中のような、閉塞感がありながらもでもナチュラルな心地よさを感じる事が出来る場所だった。自分は水の上に(水は確かに温水で、まるで温水プールのゆったりとした流動性のある波に身を任せているような感覚)。


 自分は水の上に寝っ転がるような形で浮いていて、ずっと〝上〟を見ていた。


 自分達が落ちてきたはずの穴は何故かもう塞がれていたし、それは自分達の目の前に穴が出来る前の時よりもずっとずっと綺麗に、新品より綺麗なんじゃないかと思うほどに綺麗に、純然に修復されていた。ふと、この場所が本当に〝羊水に包まれた場所〟なのではないかと思った。それほどまでに自分は安全を感じていたし、ナチュラルでニュートラルな均衡の保たれている均一的な〝中庸〟を感じていた。


 隅から隅まで冷え切っている心がゆっくりと包まれていくのが分かった。憂いとしての飢えが、絶望と言う名の冷えが身体の芯から温まっていくのが分かった。そうしている内に自分は本当に羊水の上に浮かんでいて、何か〝手助け〟のようなものを享受しているのではないかという思いをより一層確固たるものにした。少なくとも、今の自分にとってはそのような感覚が全てであり事実だった。


 自分はふと――それは蓮花を最後に見た自分の家から出る少し前と同じ様に――頭の中にある混乱に似た憂いや騒然に似た絶望を吹き飛ばすために、一度目を瞑り、深呼吸をした。そうする自分の内部、奥深くから〝赤子〟が吹き飛んでいくのが分かった。

 赤子は自分の心に嵐のように到来し、そして立ち去っていった。そんな事を自分は二分ほど続けた。自分は目を開けた。目を開けた先に見えたものはまさしく〝大海原〟であった。空には満点の星空が存在し、そして波は平然と自分に向かって何食わぬ顔で揺らぎを続けている。大海原のド真ん中に自分はいた。それについて疑う余地などなかったし、自分の眼前に広がっているのはまさしく〝海〟だった。


 自分は波に揺られながら、波に身を浸しながらじんわりと暖まっていく心に安心感すら覚えていた。自分は心の底からの安心感を覚えていた。心の底からの充足を覚えていた。

 自分を邪魔するものはなにもなかった。他者が振りかざしてくる雑多で不本意な雑音も、自分を能動的に明確に意思を以て殺しに来る〝希死念慮〟も、他人の勝手な妄想によって洪水の如く降り注いでくる〝迷惑〟も、何もかもが存在していない楽園だった。おまけに、無意味な諍いや戦争、競争さえも、ここには存在しない。



 自分は目を閉じた。そして、満足し終わるとゆっくりと開けた。自分は現実に帰ってきていた。


 詳細に言うと、世界を動かす人間の潜在意識の世界という少なくとも今の自分に限った現実世界に――帰ってきていた。自分は修復の完璧に済まされた天井を眺めていて、けれどそれもすぐにやめて周りを見渡した。長居しすぎたようだ、そう素直に思った。

 隅から隅まで冷え切っている心を温めてくれていた羊水が自分に冷えをお返ししていた。心には慣れ果てた感覚が戻ってきていた。何もかもをつまらなくし、何もかもに敵意を向けてしまう窮屈で憂鬱な心が。


 自分は一緒に落ちてきたはずの隊長を泳いで探した。隊長は思ったよりすぐ側で見つかった。隊長は戦闘服のおかげでなんとか水の上に受けているような状況だった。気を失っているようだった。


 自分が隊長を下から抱え、ヘルメットを脱がし頬を叩くと、隊長は自分の事を最初を誰であるか分かっていないような表情を見せた。自分が自らの名前を言うと、隊長は何かを思い出したかのように、戦闘服に入り込んだ水を邪険に扱いながら仕舞いには戦闘服を脱ぎ捨てて、自分にその屈強とした男の表情に戻った。自分は隊長の表情が先ほどまで意識を失っていた人間の表情のようには思えなかった。そのくらいに隊長の表情は自分に憂いを抱かせるほどに偉大であったしある種の安心感のようなものまで自分に抱かせた。


 自分は意識を取り戻した隊長が息を整えている間に、改めて周囲を見渡してみた。すると、さっきまでの自分の目には飛び込んでこなかったものが自分の目に飛び込んできた。それは遺体だった。それもただの遺体じゃなかった。中途半端に白骨化の進んだ遺体だった。その遺体が政府の戦闘員の遺体であることは明白だった。けれど、何故ここまで白骨化が中途半端にせよ進んでいるのかが今の自分には分からなかった。


 自分と隊長を含むこんな言い方をするのがいいのかは分からないが……〝善人〟は、少なくとも白骨化してはいなかったし――自分がそのような思案をしている間にも新しく見つけることが出来た――負傷して恐らく撃ち殺され、後から来る政府の戦闘員達に踏み台にされたたであろう〝彼〟と〝もう一人のメンバー(名前は分からない……)〟の死体だけは何故か、白骨化していなかった。


 自分は水の上に浮いている彼の元にゆっくりと近づいて、死体がもうどこにもいかないように抱えた。隊長も、もう一人のメンバーの方の死体をゆっくりと近づいて抱えた。自分達は目を合わしただけで何にも交わされた言葉などは無かった。


 遠くにふと現れたように見つける事が出来た足が着くことの出来そうな浅瀬と、小さな豆電球の灯りに灯されていた鉄の扉に向かって死体を抱えながら泳いだ。浅瀬に足が着いて自分達が死体を陸(と言っても最大限縮小させた孤島のような、鉄の扉のために用意されているような小さなコンクリートの床)に置いて一息ついたとき、先程までは姿を見せていた中途半端に白骨化した死体が、もう完璧に白骨化していた。


 自分達は一つの難所を越えたのだと、ハッキリと認識することが出来た。けれど驚くほど達成感を感じる事は無かった。何か自分の心から無駄な贅肉が削り落ちて心が軽やかになっていく感覚は得ることが出来ているけど、でも逆に自分の心は痩せ細っていっているとも言うことが出来た。


 自分達はこの死体をどうしようかと話し合った。そして、自分達は鉄の扉を開けた。水を含んでいる死体はとても重かった。自分は彼の死体に心の中で謝り続けながら引きずって、次の部屋へと進んだ。


 死体を運んでいる自分の感触はまるで、不快と不可解の狭間で揺れる道化師のようなものであると表現することが出来た。今の自分は道化師を演じている。そう考えると死体を運ぶのもなんだか楽しい感じに思える。自分を自分という人間であるために縛り付けておくのは大変な事だよ。自分の性格は決して〝何かを演じたことによって得たものではない〟と言えるし、けれどそんな考えも……いいや〝願い〟なのかもしれないが、その全ての願いは死体となった彼の表情を見ているとどうも信じ切れなくなりそうな不安定な気持ちになるんだよ。


 自分を信じ切る事は相当な事だよ。死体となった彼の表情は自分の全ての考えや思いや願いを根底から揺らがした。生きる事は憂鬱そのものかもしれない。死はある種の救済なのかも知れない。ああ、生きる事が憂鬱だよ……。

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