第一歩 ⑤

 不安と静寂が灯る全体主義の夜、自分は自らの住処とも呼べる家に戻る事を拒む。


 ――それはボスとの邂逅から小一時間後の事だった。時間帯は夜を迎えていた。世界は、全体主義を迎えていたし、子孫探しの子供、穴が好きな男、月経に機嫌を左右される女、どんな人種も狭い蜂の巣のような住処に戻る。それはなんら変わらない現実そのものだった。そう、なんら変わりはない。

 自分はどこたどり着けば満足なのかも分からずに、ホームに止まった目の前の電車に乗り込んだ。自分の思慮スペースを確保してくれたかの様に車両に人は殆ど見受けることが出来なかった。自分は端の席に座る。十秒ほど占領を施せばもうこの場所は自分はテリトリーと化す。


 止めどなくいつからか洪水の様に吐き出されている――いいや、それがボスとの邂逅の直後からだという事は他を見るより明らかなのだが――思考が、感情が、自分の胃から喉元にかけて逆流してきて今すぐにでも床に吐き出してしまいそうなほど自分を苛んでいる事は確かだったし、けれどこの電車に乗り込んだ事自体が自分が口触りの悪い感情に苛まれているただ一つの答えになっていた。

 今すぐにでも喉の奥にまで手を突っ込んでみたい気持ちになった。射精をする様に、吐いてしまいたかった。それが何故だかは分からない。けれど自分はそんな感覚に襲われた。電車は出発し、移り変わる景色の中、ずっと胸中にどう処理することも出来ない無情な時限爆弾を抱えながら、そんな移り変わる景色を眺めていた。


 街から灯りが消えていくのが分かった。自分の感情が手に触れる事がない薄暗い井戸の最深部のような所まで降下してしまったことも分かった。残念ながら、今の自分が触れる事の、感じることの出来る感情は胸の中には存在しない。不備なのだ。心の隅から隅まで凝りきっている。

 色々な事を考えていた。次には呼吸を挟むことが出来る余白を探している。ねぇ、どこかに落ちていないのだろうか? ……自分はずっとある一点だけを見つめている。頭の中の雑音を掻き消すには程足りない電車の高架橋を渡る音は同時に自らの身も揺らす。


 ただ佇んでいる自分の心まで動かしてほしいものだな、と心のどこかで思った。身体が揺れようと感情は揺れない。自分はこれまでの事、今まで自分が当たり前に出来ていて当たり前に感じることが出来た事のほとんどを思い返したけれど、思い返せば思い返すほど心に、鬱屈と一瞬にして人生を退屈にしてしまう不安というスパイスが紛れ込んでいる事に気がついた。スパイスなんて〝興奮〟だけで充分なのにね。 自分はいつしか遠くを見つめることをやめていた。ただ、身は〝そこ〟に存在し続けていたが、意識は〝ここ〟ではない何処かに連れ去られてしまった様に感じられ、そしてそれは本当にふとした瞬間なのだけれど、自分はいつしか、そこからいなくなったんだ。



 ――自分が睡魔に連れ去られていたことに気がついたのはもう何もかも不満がない世界から自分が何もかも不満な世界に帰ってきた事を告げる、電車の非常ベルの嫌悪を剥き出しにしたサイレン音を耳にした時だった。


 自分は人身事故の急ブレーキの勢いでこの世界に連れ去られたらしい。自分は一人の人間が目に入った。それはコールド・オブ・ナーの戦闘服を身に纏った男だった。自分の席から対称の席に座っている男が、どれほど危ない人間なのか、別に自分に危害なんて加えないのかもしれない、それがどうであるかは憶測でしか分からない事だったが自分は感覚的に(それは本能的に、と言ってもいいかもしれない)すぐさま電車を降りた。


 コールド・オブ・ナーの戦闘服を身に纏ったその男もほぼ同時に降りるのが感覚的に分かった。

 駅の名はとても難しい名前だったからパッと見で咀嚼することが出来なかった。〝……放置区〟という文字だけを捉えることが出来た。


 パーカーのポケットに手を突っ込んで、頭の中でこの先を想像して、できるだけ……できるだけ急いで、途切れ途切れの不安を凌いで――自分は駅を真っ直ぐ進んで、古びた街路樹が先に顔を見せるシャッター街へと入っていった。


 シャッター街を抜けたところの地面はとてもぬかるんでいた。ささやかな嫌がらせに見える汚泥と泥に塗れた雑草の窺える水溜まりの中に、自分は身を落とした。水が高く跳ね上がる音が耳元に届く瞬間、全身は水溜まりの底を通り越して開けた場所に自分は辿り着いた。とても暗かった。今通ってきた水溜まりの底が先が滝のように勢いよく流れていて自分の背中を叩いて、自分はその勢いに押される形で泥だらけのコンクリートの上に投げ出された。

 全身が痛むのがすぐに感じられた。まるで地球全体が自分に向かって追突を仕掛けてきたように感じられた。


 流血をしている両腕を使い立ち上がり、二メートルは優に越す小トンネルの先を見定めると、自分はその方向に向かって歩き出した。

 この場所には、久しぶりにきた。どれほど前にきたのか覚えていない程だ。

 この場所を自分は〝隠れ家〟と呼んでいた。家ではないが、自分がよく政府中枢情報部の人間や、他の人間達に追われることがあると、よくいつも此処を利用していた。

 池や水たまりは、全てこの隠れ家に繋がっているし、思想の川と呼んでいる無駄な精神の贅肉を落とす為の川も存在しているから自分にとっては休息を取ったり中庸を見出したりするのにとても居心地の良い場所であることは間違いなかった。


 自分は思想の川で泥や汚れが付着したパーカーを軽く洗った後、少し経ってからそれを着て、家に帰る事にした。


 驚くことにこの頃には感情は落ち着くべき所に落ち着いていたし、収まるべき所にすっぽりと戻ってきていた。頭の中の騒然も抜けきっていた。今の感情はまるで短編小説を一冊読み切ったかのような、まるで感理路整然とした表情を見せる滞りの解消された道路の様な感じ、と言えそうだ。

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