ありがとう、また逢いましょう ⑧

 その日がやってきた、という実感はそれほど無かった。


 最近の自分は、時間の感覚というのが確かに狂っていた。まだ世界を動かす人間が死んで、そして自分の胸中に〝希望〟が宿された事を自分事として捉えることが遙かに難しかった。それはある種、蓮花が妊娠をしたという事実よりも、現実味を帯びていない事象であったし現実味の欠如を感じさせられる出来事であった。


 寝苦しさが自分を苛んだ。自分は――それがどれほどのタイミングで起きた事なのかは明白にすることはとても難しいけれど――本物の睡眠に落ちることが出来るようになっていた。けれども、それが心地の良いと感じる瞬間というのはとても少なかった。悪夢を見ているわけではないけれど、確実に自分は〝悪夢〟に溺れていたし、本物の睡眠に誘われてそこで鎮座することだって可能なまでに〝深層〟に落ちる事が出来たが、確実に自分の本心というか、感覚的な実態は浅瀬に打ち上げられていた。まるで出産に失敗し死産となったクジラの赤子のように。


 ベットの上で打ち上げられている事はとても気持ちの良いものではなかった。それは自分にとってとても驚くべき事だったし、〝希望〟を持ったはずなのにも関わらず、自分の人生は希薄していっている様に感じられた。断片的な濃密が集約されている深層の眠りから(深層なんかじゃない、確実的に自分は浅瀬に打ち上げられているんだ。でも、その感情を誰か他者が理解出来ることは無いのだろう)自分は目覚めて、ベットの上に打ち上げられた自分の身体を体感すると、自分は自分の人生がとても窮屈な瓶に詰められた小魚の様な気分になった。


 そうなってしまった後は、蓮花から差し出された水を飲んで、それから蓮花の身体の中で朽ちるのだ。――そんな一週間を自分は過ごしていた。世界を動かす人間が死んでから、そんな一週間が自分の人生に訪れた。


 自分達は部屋の片付けというものを始めた。もうこの世界からいなくなる、というか、〝別の世界に行ってしまうのだから、もうこの世界での自分達の居場所なんて必要ない――〟。蓮花と沢山の〝希望〟を夢見ながら多くの事を語り合いながら片付けをした。

 自分は蓮花に〝虚空実験〟の事と、自分が今までしてきた仕事のこと(世界を動かす人間を見守る事が一週間前までの自分が義務として請け負っていた自分が生きる意味としても存在していた〝仕事〟なのだということ)を話した。蓮花は何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。少なくとも、納得に近しい表情を自分に見せてくれたし、そうすると自分はそれに救われたような気持ちになった。片付けを終えると、自分達は綺麗になった部屋を共に眺めた。


 自分達はこの場所でとても多くの事をしてきた。それは全てが本意的なものであるかと訊かれればそうではなかった。少なくとも〝自分自身の人生において〟自分は沢山の絶望をこの部屋で過ごしてきて、希死念慮に弾むことは何回あったのだろうか。でもそれも全て懐かしさ感じる出来事になっていた。


 自分はこの世界に必要とされていない人間の様に思えたことも何回もあった。それはこの世界にやってきてから数ヶ月経ったまだ十歳の頃の事だった。それは後になって分かった、というか、思った事なのだけれど、自分が〝愛する〟ものの全ては〝孤独〟を抱えていた。それは小説なり、音楽なり(損なわれた基底欠損の起こした感情は音楽で補うのが自分なりの延命方法だった)、様々な自分の愛するものが〝孤独〟に溺れていたが、それは蓮花だって例外じゃなかった。けれど、孤独は自分にとっては辛いものではなかった。


 孤独というのは自分に与えてくれた、世界に対してアンチテーゼを掲げる事が出来る〝最高のアイデンティティー〟であった。自分は孤独を愛していたし、孤独に愛されていた蓮花を今だってとても愛している。


 自分達は片付けが終わった部屋を体感し終わると、部屋から外に出て扉を眺めた。自分はこの家で、部屋で生活を始める頃は一人ぼっちで、ずっと自殺の誘惑に喘いでいた。八年経った今、自分は自分が元いた世界に戻ったわけでもないのに全く違うような世界にいるような感覚になった。それも今日で最後だと思うとなんとも言えない気持ちになった。


 自分はこの家で初めて蓮花を抱いた夜の事をずっと覚えている。蓮花は自分からしたらとても良い意味で幼稚なように見える。それは今だってそうだ。自分達は何がどうなればいいのかも分からずに、互いの身体を貪った。ただ互いの事足りている部分と事足りていない部分を合わせるだけの行為は、とても自分達の乾きそのものを覚えていた心に、充足を与えた。そのありありとした充足の感覚というのが、今も尚自分の奥底の中に確実に残っているよ。それはまるで蓮花から掛けられ呪いみたいなもので、その日を境に、自分の心の中に蓮花が住み着くようにもなった。自分の心に咲いている蓮の花の隣りに、蓮花という名の蓮の花が咲いていく様子が感じられたんだ。


 だからある種〝自分達〟としての人生は、ここから始まったと言ってもいいし、それを一生涯忘れることは無いだろう。


 自分は、我々の安住の地に別れを告げると、蓮花の手を引っ張って放置区に存在する研究所に向かった。

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