ありがとう、また逢いましょう ⑨

 電車に揺られながら、移りゆく景色に身を委ねながら向かっている最中、自分達はいつも通りにいつも通りの端っこの席に鎮座して、もうすぐそこにまで迫ってきているであろうこの世界からの別れの準備に入っていた。

 もうすぐにそこまで迫ってきているであろう――実感は一切なかった。自分達のこの世界での人生というものはこれからも続いて行くものであるのだろうと自分は感じていたし、しかし実際、そうではないという事を事実として分かっていたから、自分はまるで自分が何月何日の何時何分に死ぬのか、死亡時刻が前もって伝えられている人間の様な気持ちになった。


 自分は蓮花と共に揺られながら眠った。自分だけではなく、蓮花ももう既に〝本物の睡眠〟を手に入れているようだった。自分達は他人から見れば不可思議な、違法と同義である本物の睡眠を得ている可笑しい人間であると見られているだろうが、そんなことは関係なく――もう自分達の人生は〝終わる〟のだし、死にに行くようなものだから、そんな他人からの怪訝な目線というのはどうってことなかった。


 目を覚まし、自分達は放置区の最寄り駅で降りてから、放置区の森の中に存在する研究所へと歩いて行った。自分は最中、蓮花に訊いた。


「お母さんに会わなくていいの?」


 蓮花はすぐさま首を横に振った。


「いや、いい。どうせ会っても引き留められるだけだし。あなたがいればお母さんだってきっと安心してくれるはず。私ね、覚えているの」


「何を?」


「お母さんに、もう好きにしなさいって怒鳴られたことを」


 自分はもうそれ以上何も言わなかった。


 自分達は放置区のトレーラーハウスの乱立している地区を抜け、森の中に入っていった。蓮花を自分の仕事と関係する、世界を動かす人間に関係する場所に連れてくることになるだなんて思ってもいなかった。その時初めて、自分は、自分の人生のうちの断片的に存在していたマテリアルとマテリアルが結合をし始めて、蓮花と互いの感情を愛し合っていた事も、世界を動かす人間によって与えられていた〝生きる意味〟も、どっちも本当の意味での〝自分の人生〟であるのだということを認識した。


 自分達は研究所に入る手前のところで一度立ち止まった。


「本当に良いんだね?」


 自分は蓮花の手を握りながら、ただ目の前の廃れて機能不全に陥った〝かつて研究者達に〝希望〟と呼ばれていた研究所〟を見つめながら言った。


「うん、大丈夫。もう怖いものなんてないわ」


 もう怖いものなんてないわ――その言葉は、じんわりと深く心の奥底にまで潜り込んだ時に急激に訪れる本能を以て感じることができる〝母性そのもの〟であった。 芳醇で豊潤な母性がそこに、間違いなく広がっていた。自分は本能のままにそれを感じ取る事が出来た。急激に自分の人生が、いいや、自分達の人生が、拓けていく感覚を自分は胸中に覚えた。人生に天井なんてない、自分達はどこまででもける。


 自分達は研究所の内部へと入った。すると、そこではある種予期していた通りにGLaSioが自分達を出迎えてくれた。


「嗚呼、悠久の時を超えた〝未来からの代理人さん〟がお戻りになられた。それはすごく喜ばしいことでしょう。それに、最愛に見られる女性まで連れて」


 自分は、GLaSioがどのような存在理由を以て生まれた〝生物〟であるのかを蓮花に説明した。説明をしている最中、GLaSioは自分が放つ言葉に対して一々頷きを見せていた。GLaSioは、蓮花をまじまじと見つめていた。そして、説明し終わるとGLaSioは自分の方に向き直して、自分に向かってこう言った。


「あなた方がこの場所に訪れて、私と運命的な出会いとするという事象は前もって考えられていたことなのです。それがどれほどの確率であるかという事はお教え出来ませんが、少なくとも、私はあなた達を待っていました。それはこの世界の文明においても喜ばしいチャプターの始まりを、予兆を感じせざるを得ない出来事だからです。貴方様の表情を見る限り、少なくとも疑問を微量なりともお持ちのようですが、その御気持ちも充分わかります。ですが、私としては――それは虚空実験の失敗と共に生まれた時空の歪みによってという事もありますが――実時間とは大きく打って異なる体感時間で生きてきました。今はもう虚空実験の失敗によって生まれた時空の歪みというものは是正されましたが、実際、私はこの時を本能的に、待ちわびていました。……長々しいお話は嫌いなご様子なので、端的に参りましょう。貴方様に一つ質問がございます。よろしいでしょうか?」


 自分は、ああ、と短く、けれども力強く呟いた。


「ありがとうございます。――貴方様は、本当に心の底から自分がいた元の世界に帰りたいと思っているのでしょうか? いいや、別に、貴方様の感情の具合がどうであろうといいのですが……ただただ単純に〝どのような理由で〟帰りたいと思われているのか、私は気になるのです。人間が絶望に満ちあふれている世界から、そうではない世界に戻る事が出来る様になったとき、どのような〝理由〟で、帰りたいと思うのか、ただ率直に気になるのです。」


 自分は、一瞬、自分の感情がGLaSioによって掌握されてしまったかのような感覚を覚えた。研究所の空間はもう既に、蓮花を除いた空間――自分自身とGLaSioだけが対峙する世界となっていた。GLaSioが自分の方をまじまじと見つめていた。自分の方を探っていた。ある種殺そうとしていた。けれど、今の自分が惑うことはなかった。戸惑ったり迷ったりすることもなかった。なんせ自分は今〝希望〟を抱いているからだ。自分はGLaSioのその球体のボディーを見つめながら、ハッキリと言った。


「最近気づいたんだよ。ハッキリとね。自分の人生は自分の人生で、それを覆せる人間はいない。好きなようにしてもいいし、自分が〝追い求めたいもの〟を求めてもいい人生なんだって気づいたんだ。勿論、夢の中に逃げれば絶望だってない空虚感だってない苦痛だって明確な殺意だって、税金だって、なにも無いんだ。けれど、人間というものは現実に帰ってくる。とても息苦しい鬱々として気持ちが自分の人生に釘を刺す人生に帰ってくる。昔の自分みたいに、自分に都合の悪い事は妄想で片付けてしまうこともあるかもしれない。けれど、今の自分はそうじゃないみたいに、現実に生きれば現実を変えていける。だけど、もう疲れたんだ。何もかもに、疲れたんだよ……。自分の、自分達の未来を思い浮かべた時、自分達の所在地はもう此処にはなかった。あっち側の世界にあったんだ。想像力が全てを決めるからね。だから、自分は蓮花を連れてポータルをくぐって、少なくともこれからの自分達が〝存在するべき〟世界に行きたいんだ」


 もう疲れたんだよ。一度、休ませてくれ。本気で眠らせてくれ。でも一度本気で目を閉じたらもうそのまま起き上がってくることはできないかもしれない。でもそれでもいいんだ。休ませてくれ。もう疲れたんだ。これ以上悪くなることはないっていう所からまた沈下してしまう、そういう時が多すぎるんだよ……。


「そうですか……分かりました。なら、もう決まったことですから、すぐさまやりましょう。こちらへどうぞ……」


 GLaSioは、自分達を一階の奥の扉の向こう側へと案内した。そこは、前回、一週間前この研究所に来た時も見た〝ポータル〟の存在する部屋だった。自分は、GLaSioに続いて蓮花の手を引っ張りながらそのポータルの存在する部屋へと入っていった。


 ポータルを間近に捉えて、GLaSioは言う。


「本当にいいのですね? 貴方様が世界を動かす人間から受け取ったその〝希望〟のエネルギー、自分達の為だけに使用して、よろしいのですね? そのエネルギーの使えば、そのエネルギーを使って人間の潜在意識の世界、目に見えない領域に潜り込んで貴方様が世界を動かす人間の潜在意識の世界を探索したように、貴方様の世界を構築して、民衆をそこに呼び込めば、大衆的な〝希望の流布〟と共に〝劣等感の温床の払拭〟が出来るはずなのに。貴方様は、ただ、自分達の安寧の為だけに、希望をご使用なされると」


「別にそれでいいんだ。別にそれで自分が冷たい人間であると思われてもいいんだ。責任を持つ、だなんて自分が言うと馬鹿馬鹿しく思われるかもしれないけど、でも、別にそれでいいんだ。とやかく言う奴がいるんだんったら、自分が全て受け止めるよ」


 そんなことは分かっていた。せっかく世界を動かす人間から受け取った〝希望〟を、自分達の為だけに使うだなんて、悪い事だということを勿論分かっていた。いつまで経ってもこの世界に住む全ての人間が持つであろう劣等感というものが取り払われることはないし、人間の人生が上向くことだってない、それを分かっていた。そう言ってみたら、何か自分がこの劣悪な世界から二人だけで勝手に逃げてしまうかのような気がしてきた。でも、自分は蓮花を一刻も早くこの〝劣悪な世界〟から遠ざけたかった。


「こんな事をGLaSioに言うのは酷いかもしれないけど、言っていいかな?」


「どうぞ、私はそれくらいじゃどうともなりません。この完璧なボディーに傷を付けられるような事がなければ、大丈夫です」


「そうか、なら良かったよ。こんな事を言うのは酷いかもしれないけど、機械には分からないかもしれないけど、人間には特筆すべき人間らしさというものがあるんだよ。GLaSioは自分の決断を、非合理的で頭の悪い人間がすることだと頭の片隅で思っているかもしれないけど、そうじゃないんだ。確かに、自分の選択というのは褒められたものではないかもしれないけど、でも、だから人間なんだ。だから、人間らしさのある自分は人間なんだよ。GLaSioはまだ自分の事を分かっているようで分かっていないんだ。自分は自分の人生を信じているんだよ。それに、自分達にしか分からない出来事だってあるから。だから、それをGLaSioにとやかく言われたくはない」


 自分は心の底からの言葉を言った。自分は機械が駄目だなんて言うつもりはないのだ。どう足掻こうが機械が人間に勝てるわけがない、機械如きが何を偉そうに……だなんて、言うつもりはないのだ。でもただただ〝人間である自分自身〟を否定されるのが嫌だった。人間にしか感じる事の出来ないなんとも言えない漠然とした感情を否定されるのが怖かった。


「……分かりました、なばらやはり早くおこなった方がいいですね」


 そう言うと、GLaSioは自分にポータル近くの沈痛台と呼ばれる台に仰向けで身を任せる様に指示をしてきた。上半身を脱ぐことも指示された。自分はその沈痛台に寝た。そして、GLaSioは上半身の露わになっている自分の身体に、その球体のボディーからこれまで見たこともなかった〝手〟を展開し、その手で自分の上半身の肉体に何か管を通した。

 自分はそうして、少しの間だけ眠った。目が覚めると、眠る前までは機能不全に陥っていた、エネルギーの枯渇に喘いでいたポータルがその本来の輝きというものを取り戻していた。


 自分は沈痛台から身を起こして服を着て、それから蓮花の元へと戻った。自分は蓮花にどれほど自分は寝ていたのかを訊くと、蓮花は一時間と少しだけ自分が眠っていた事を教えてくれた。そしてその頃になると、やっと自分は急激な気分の減退と共に希望の喪失を感じられた。希望を持ったことによっておさらばしていた〝未熟な感情〟というものが、まるで深層から浅瀬へと打ち上げられた深海魚の死骸の様に自分の健全で汚染されていない感情をも着々と蝕んでいった。


 忘れかけていた感情がまた再度到来した。自分はGLaSioと目を合わせた。GLaSioがそのボディーで大きく深呼吸をする様子が見てとれた。自分達は、もうこの世界から立ち去る時が来たようだった――。


 自分はこの世界で蓮花に出会えたことを物凄く感謝している。それが〝唯一〟と言ってもいいかもしれない、自分の退屈で鬱屈とした混乱と騒然に飲み込まれている人生の中での希望であった。


 自分達はなにもかもに傷ついていた。低俗な人間の悪貨によって、自分達の心の中庸を構成している良貨が駆逐される様子に浸されるのはもう懲り懲りなんだ。自分がほしいのは他人からの〝優しさ〟に他ならなかった。他人が欲しいのはなんだ? 四十エーカーの土地とラバ一頭か? 大きな家や車だろうか? いいや、自分は違う。ただただ愛に渇望を覚えていた。自分達の最低限の尊厳すら守られない世界にいるくらいなら死んでもいい。そのくらい、自分達は傷ついていたし絶えず何かしらに怯えていた。それは、昔よりかは減ったけれど、今だってそうだった。


 自分は、一度蓮花に抱擁をした後、蓮花の手を引いて共にポータルの内部に立ち入った。そして、次の瞬間、GLaSioがエネルギーの放出を司るスイッチを押す前に――自分達がこの世界から去るその去り際に、言った。


「貴方はいずれまたこの世界にくるでしょう。ありがとう、また逢いましょう」


 次の瞬間、自分達は眩い目のくらむ様な衝撃に飲み込まれていた。肉体が混乱の渦に飲み込まれていくのが分かった。混乱の渦に巻き込まれている中でも自分は蓮花を愛していたし、蓮花も恐らく自分を愛してくれていた。身体がいかずちに打たれたかのような強い衝撃に曝される。心臓の毛一本一本が逆立っていくのが分かる。呼吸がどんどん苦しくなっていく。臨界点を盟友として迎える準備は出来ている。この世界での命がついえる音が聞こえる。命の脈動が止まる感覚が人生を絞める。突然身体が軽くなる感覚に溺れる。意識はそうして無くなった。

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