ありがとう、また逢いましょう ⑩

 そこは何故か太陽は透明で温かく、退屈な午後は俺に妙にやわらかく、当たり前のように鳥や虫が鳴き、花が咲く、女の鼻歌が耳をからかう世界であった。


 自分は生温かい太陽の光りを浴びながら、たった二人だけで草原のど真ん中で、蓮花の膝の上で眠っていた。蓮花は程なくして眠っていた自分の耳をからかった。自分の耳の中に蓮花は息を吹きかけてきた。自分はくすぐったくって、それを拒もうとしたのだけれど、次第になんだか自分達はもう〝オトナ〟なのに、子供みたいな事をしている様に思えてきちゃって、蓮花と共に理由のない笑みを浮かべた。


 自分達がこの世界に来てから何年が経つのだろうか。十八年ほど経ったのだろうか。今の自分は三十六歳の人間としての人生を生きているが、かつて、自分達がまだまだ未熟でこの世界に来たばっかりの頃は自分はまだ十八歳だった。その事を考えれば、自分は人生を長く生きてきたらしい。まさか自分がこのような年齢まで生きることになるとは思わなかった。いいや、かつては思いたくもなかった。二十まで生きれればそれが一番理想的なのだと考えていた。自分は今、幸せだった。本物の睡眠は自分達を安堵へと容易に引き込んだ。自分達を汚したり苦しめる人間は殆どいなくなった。。自分達はたった、二人だけで、互いのために生きていた。ああ、それと、自分達の三人の子どもの為にも、生きていた。


 自分は遠くの原っぱで遊んでいた五歳と三歳の兄妹を、自分達の方に呼んだ。パパとママと一緒に遊ぼうよ、って。二人はすぐさま自分達の方に駆けてきてくれた。自分達の子どもは三人いた。原っぱで遊んでいた二人の子どもは自分達がまだ絶望と劣等感の温床に塗れているあっちの世界にいた頃ではなく、こっちに来てから懐妊した赤ちゃんだったから、自分と蓮花は時々〝パパとママは君達の為にこの世界に来たんだよ〟と冗談混じりに言うこともあった。そうすると、いつもお兄ちゃんは分からないと言ったし、元からこの世界の事しか知らないからか、自分達のその冗談混じりの言葉に少しだけ怒ったりした。それでいいんだ、と、自分は素直に思った。あんな世界のこと、知らなくていいと思った。


 蓮花の膝の上で眠ることは格別だった。


 草原のど真ん中で温かい太陽の光りを浴びながら、最愛の女性と子どもたちに囲まれながら、自分は最高に幸せな気持ちを味わっていた。自分はとても幸せな気持ちに包まれていた。自分はママにキスをした後、子どもたちにもキスをし、それから四人で原っぱの上で寝っ転がって日向ぼっこをした。そうしているととても気持ちが良かった。そうしているととても幸せだった。   



 ***


 

 絶望と劣等感の温床にまみれる世界に一人のとても細く白い肌を持って、希死念慮に弾んでいる男がいた。彼は十八歳だった。彼は禁止されている記憶フロッピーディスクの売人だった。それはとても危険なことだった。捕まれば懲役は二百五十年分あるのだ。それでも彼は禁止されている記憶フロッピーディスクの売買を続けていた。彼はいつの日か禁止されている記憶フロッピーディスクを買いに来た重症患者のような女性に一目惚れをした。それから彼らは徐々に仲良くなり始めて彼とその女性は同棲を始めた。けれどそれは良くも悪くもまた一つの、呪いに似た感情の交錯こうさくの始まりだった。彼は女性と――彼女とセックスを繰り返していた。そうしているうちに彼女は妊娠をしてしまった。彼にとって、それは希望でもあり呪いであった。けれど、そこから彼は変わった。そこから彼は自分自身ができる範囲のこと全てを彼女に対してやってのけた。彼と彼女は世界からある日突然、いなくなった。そして、〝自分達のいるべき世界で〟生きていくのだった。人生は想像力が全てを決めるのだと彼は言った。彼はとても素敵な男性になっていた。彼女も彼によって、素晴らしい母性を持った女性になっていっていた。彼女は言った――〝otiba、あなたと出会えて良かった〟と。それに彼も同調した。


 けれども、そんな〝理想〟が長く続くことはなかった。



 自分にまだ自尊心がなかった頃、自分は世界を眺めて〝世界はどうなってしまうのだろう、世界はどんな自分達の望んではいない惨状に自分達を連れて行ってしまうのだろう〟と、そう思ったものだよ。自分達は傷つけられたんだ。自分のポケットの中を漁ってもなにもないさ。


 ――結局のところ、自分は愛の意味を会いたいにしてくれた女性を命を懸けても良いほどに愛した結果、〝恒久的な愛などない〟という事を知った。それは紛れもない事実だった。それを他人に押しつけるつもりは一切生まれなかった。けれど、他人にその気持ちを押しつけてみたい気持ちで胸いっぱいになった。もし、十八歳の頃の自分が今の〝孤独〟になった(いいや、それは別に蓮花と離ればなれになってしまっただとか、互いが互いのことを嫌いになってしまっただとか、そんな事はないのだけれど)そんな自分の事を慰める為に隣りに、もし存在したのならば、こういうことを訊いてくるのだろうなと自分は思った。〝じゃあ、愛ってなんなの?〟


 ――愛って、なんなのだろうか?


 自分は恒久的な愛など存在しないという事を知って、だからこそ蓮花に言ったのだった。〝愛せなくなるその瞬間まで、目一杯愛させてくれ〟と。


 自分の人生、十歳から十八歳までの人生、を振り返ると思い出してしまうのがやっぱり〝絶望的な気持ち〟であった。自分は何もかもに怯えていた。何もかもが怖かった。気を張っていないとふとした瞬間に混乱の渦中に飲み込まれてそのまま現実に戻ってくることができなくなるのではないかと思っていた。人生はただ辛いだけだ、とも、思っていた。それは半分正解で半分間違いだった。人生には辛いところも勿論あるけれど、辛いだけではなかった。人生が悲劇ではなく喜劇であることを自分は知った。それでも、やはり自分の人生は体調不良と洪水のような感情とセックスが取り囲んでいたし、それ以外には何もかも、なかったように思える。


 世界を動かす人間から受け取った〝希望〟はなくなってしまったけれど、自分は清々しい気持ちで胸がいっぱいだった。もし過去の自分に一言だけ声を掛けることが出来るのだとしたら、自分はこのような言葉をかけてみたい。


 〝――自分自身と向き合ってみるんだ。そうすれば、自分が存在する世界が変わるんだ。難しいかもしれないけど、少しずつやってみるんだ。次はお前が絶望から抜け出す番だ。それに可も無いし不可も無い。お前の順番が回ってきたというだけの話なんだ。できることならば、周りにいる子どもたちでもなんでもいいけれど、救ってやってほしい。でもそうやって他人を救うためにもまず救わなきゃいけないのが自分自身なんだ。自分自身を救ったら、もうそれは世界そのものを救ったのと同じみたいなものなんだよ。次は君の番なんだ。一つが変われば、全て変わるんだ。頼んだよ――〟



 ――全ての事が終わったとき。いいや、すべてのことが終わったと思っていた時。自分自身は気がつくと、少しだけ大きくなった二人の子どもを連れて自分がいるべき世界側の研究所の〝ポータル〟のその目の前に存在していた。二人の子どもたちは、お兄ちゃん方が七歳に、妹の方は五歳になっていた。そして、自分は三十八歳になっている頃だった。自分は気がつくとポータルの目の前にいたのだ。それは本当に無意識的で潜在的なものだった。子どもたちに、自分は彼らの身長と同じくらいの高さにまで腰を下ろして目線を合わせてから言った。


「過去のパパを救ってやってほしい。過去のパパはトイレ……確かフードコートの中の女子トイレの中で君達によって目を覚ますんだ。意識を取り戻させてやってほしい。」


 兄妹は、その小さな身体の小さな首を縦に二度振って、分かった、と言った。


 自分はポータルのエネルギー装置の電源をONにし、二人の子どもの手の握りながらそのポータルの内部へと入った。自分はふと、数年前――いいや、二十年ほど前――GLaSioという名のロボットに言われたことを、ふと、思い出した。


 『貴方はいずれまたこの世界にくるでしょう。ありがとう、また逢いましょう』


 自分は、まだまだやらなくちゃいけない事があるようだった。

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蓮の花 ~私はかつて、希望と呼ばれていた~ 柊蓮 @hiiragiren1221

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