ありがとう、また逢いましょう ⑦

 自分はBARに行った。それは蓮花との〝濃密な時間〟を過ごした次の日の出来事だった。


 ――BARに行くとすぐさまカウンターの端っこの席に座った。半地下の構造をしているBARの中から外を見ると、街行く人々の足元を見ることが出来た。薄暗いBARの端っこの席というのを、自分は、自分が自分だけの為に持つ楽園のようなものにすることは簡単だった。自分は自分の住居のようにそのBARの端っこの席に居座った。女性が自分の元にまでやってきた。


 自分はその女性に目を合わせると、女性は自分に向かって微笑みながら言った。女性は一瞬とても幼く見えたし、けれどもじっくりとその女性に対して意識というものを合わせていくと、その女性は、自分の認識の中でとても成熟された人間――悲観的な感情という名の、人格向上完治プロセスを経てきた人間――のように思えた。


「何にしましょう?」


 女はグラスを自らの手で拭きながら言った。


「ウイスキーをひとつ」


「まだ飲めないでしょう。ごめんなさいね、あなたがウイスキーを飲む事が出来る年齢には到底見えないの……。別にルールが、とか……そういうお堅く面倒臭い大人の事情というものを私が尊重したいだとか、そういう訳じゃ無いの。ただ単にウイスキーを飲む〝資格がない〟ように思えただけなのよ。資格があれば、未成熟なあなたにもウイスキーの一杯くらい私の愛液入りで出してあげてもいいのに……」


「あいにくお姉さんのを体感したいだなんて思うことが出来るような気分じゃないんです。だからもし出すとしても愛液を入れる事はやめてほしい」


「別にいいじゃない。あなたは好きじゃないの? 女性の鬱蒼としている危険地帯のような熱帯雨林から見いだされる洪水が」


「好きでも嫌いでもないですよ。何でもいいです。何か他には?」


「私があなたにお似合いなものを作ってきましょうか?」


「それでいいです」


 女はそう言った後、自らが今の今まで、拭いていたグラスに何かしらの液体を注いで自分の元まで戻ってきた。


 自分はどうやら女に捕捉されてしまったようだった。女はやはりぱっと見ではとても幼く見えた。幼い、と言っても純粋に〝成熟を成していない〟という方向性の幼さではなくて、〝オトナ〟に対するアンチテーゼを抱えている鬱屈とした感情を抱えている子供の様な表情をしている、という方向性の幼さであった。それは〝若さ〟と言った方が近いかもしれない。

 だからか、自分が時折、刹那的に移動する多層的なレイヤーから見いだされる〝感覚的な認識〟と、眼前に広がる客観的な認識との間には広大な、それもとても純然に深しいズレが存在した。女の表情には、実年齢とは乖離する〝欺瞞な心がない様子〟というのが感じられた。


「はい、どうぞ」


 自分は自分の目の前に出された、女が先ほど自分の指でかき混ぜていたグラスに入った液体をまじまじと見つめた。


「毒なんて入っていないわ」


「そういうことじゃない」


「じゃあどういうことよ」


 自分は無視してグラスに入った液体を飲んだ。出会って数分も経っていない女の指が浸かった液体を飲むというのはとても不思議な気持ちだった。触れ合った事もない女の〝味〟というのは恐らくこのようなもので、恐らく自分が完璧には愛すことの出来る味では無いのだろうな、と思った。


 色々と、女に対する思案というものが頭の中に浮かんできた。喉元を通り過ぎると、それが恐らくノンアルコールのカクテルであるという事をなんとなく感覚で感じ取った。味蕾みらいでは味を感じ取る事が出来なかった。味覚で味を感じ取る事が出来るほど、自分は先ほどまでは保っていた〝安寧〟というのを女の存在そのものに奪い取られてしまったようだった。

 女は他の客の方を振り返るフリすらしないで、自分自身が飲む用のウイスキーを持ってきて、自分の方に向き直った。数口、口をつけたウイスキーを自分に向かって差し出しながらニヤニヤと笑みを浮かべながら言った。


「どう、飲みたい? 今だったら、私の飲みかけを飲ませてあげてもいいわよ」


 自分は女のその言葉を無視しながら自分のカクテルを喉に流した。女はそんな自分を見つめながら、不満そうな表情をしながら一口だけウイスキーを飲んだ。


「ねぇ、あなた名前はなんて言うの?」


 自分は頭の中で〝これから〟の事を考えている最中にそんな事を訊かれた。一瞬驚いた。自分は意識を頭の中から女の方へ戻すと、


「お姉さんから言ってくれたらいいですよ」


「そう、そんなに私の名前が知りたいわけなのね? 自分の名前を隠してでも私の名前が知りたいって」


「そういうことじゃ――」


「いいわよ……。――私にはね、名前なんてないの。あなたが思っている様に〝女〟でしかないの。……ええ、分かっているわよ。あなたはそういう回答を求めているわけじゃないということくらい分かっているわよ。――私はね、悲しみを楽しみとして噛み締めるだけの小市民。それか飼い主に似た彼氏に捨てられた放置民。同時にお家に鍵を忘れて帰れない異邦人よ。」


 ねぇ、満足したかしら――女は自分の心の奥底にまで土足で踏み入って、そんな事を呟いているような感覚を自分は感じた。「ねぇ、満足したかしら――」女がそう言うと、自分はまた何もかもを無視して、グラスの中で堕落した氷によってめちゃくちゃにされている液体をまた身体の中に流し込んだ。


「満足していないようね」


「そりゃあ。自分は名前を訊いたはずなんだけれど……」


「そうね。でもね、あなたはまだ若いから分からないかもしれないけど、この世界はね、いいや人間そのものと言ってもいいかもしれない……。大部分が〝白でもなく黒でもなくグレー〟なのよ。グレーゾーンに属している人間や、事象や、人間の生き方そのものまで……別にそれが良い意味でとか悪い意味でだとか、それは私には分かりかねるけれど、グレーゾーンが大部分を占めていて曖昧な事がこの世界とそこに住まう人々には多すぎるのよ。私はね、それが嫌い。でも、それが好きなのよ。ね? 曖昧でしょう? ……曖昧な事が悪いわけじゃない。理屈だとか論理的な正しさ、社会的な正しさだとか要請だとかは後付けで良いの。〝論理的な正しさ〟なんて求めたら、人間の存在そのものが不可思議なことになっちゃうもの。だからね、曖昧が全て悪いってことじゃないのよ。ただ、理屈的である必要は必要以上にはないってことなの。そうでしょ? あなたが彼女さんとセックスするのだって、色々なリスクだとかを考えたら、頭の良いあなただったら考えるでしょ? 妊娠したらどうしよう、って。でも、してしまう。最高よね、泣いている女の子の姿を見ると、凄く私興奮してしまうの。若いまだ経験の乏しい、無知が武器の若い人間がただただ好奇心に襲われて、セックスしてしまうのも理屈的に考えたら可笑しいことじゃない。でも、若いあの頃の頭の悪さが起因する爆発的なセックス、それはある種素晴らしいことだし、ある種の自殺行為でもある。別に、妊娠の可能性がどうだとか、そういうことを言いたいんじゃないんだけどね。……だから、覚えておきなさい。〝この世界には白黒ハッキリとついている事の方が少ないの――〟。だから、私の名前を追求してしまうような馬鹿な真似をするのはやめなさい」


 自分はなんにも言うことが出来なかった。


「ねぇ、あなたって何か悩み事ってあるのかしら? あったら聞かせてちょうだい」


 悩み事らしい悩み事なんて何にも存在していなかった。けれど――それは後から振り返った時には〝何故あんな事を言ってしまったのだろう〟と思うことになってしまったのだが――自分は、ふと口から言葉が溢れてしまった。それは、自分からしてもとても驚くような言葉だった。


「彼女が、もしかしたら風俗か何かは分からないけど、そういうところで働いている人間なのかもしれない、そうふと感じてしまう事があるんです」


 女は一瞬戸惑った様な表情をした。それが何故だかは分からない。それから、自分は長らく女からの返答というのを待っていたのだが、それから女が何かその自分の言葉に対して何かしらの明確な意思を示すような事は言わなかったし、けれども自分は何故かその事については特段気になることもなかった。


 ただ、自分の頭の中は〝蓮花が自分に隠し事をしているかもしれない〟という疑惑でいっぱいいっぱいだった。自分は軽い混乱を抱きそうになった。でも、自分が意識的か無意識的にかは分からないが、ふとした瞬間を経てそのような混乱と共に〝蓮花に対する微量なりとも含まれていた疑惑〟は何故か自然と波のように立ち去った。


「ねぇ、そんな事より、あなたって眠ることを禁じられた不眠症という名の人種の人間の辛さって分かる人間なのかしら? ……唐突かもしれないけど、でも、別にそのくらいいいじゃない。」


「分かるような、分からないような気がします」


「ああ、だってそうよね。あなた、記憶フロッピーディスクの売人さんだもんね。あなた、というか、otibaさんって言ってしまった方がいいかもしれないけど。……そんな表情しなくてもいいじゃない。私はね、あなたの何もかもを知っているの。そう、言葉通り〝何もかも〟をね。ただ、触れたことがないだけで、他は全てを知っているの。触れたこともないのに、まるでペニスだって触った事があるような気分に時折なるわ。というか、別に何もかもを知られたっていいじゃない、あなた女の子じゃないもの。月の満ち欠けの周期を知っているって言っているわけじゃないじゃない。まぁ、あなたは驚くほど女性的な部分が存在している様に思えるけどね……。まぁ、そんな事はいい。ねぇ、やっぱりあなたは眠ることが禁じられている人間の辛さを理解することが出来ない人間なのかしら? ……だったらとても残念だわ。少しばかり私のその辛さを理解してくれると思ったのに。」


「処方しましょうか? 一週間分くらい、記憶フロッピーディスクを」


「別にいいわ。禁じられたものを使っている人間は嫌いなの。そういう意味では私はあなたが嫌いだわ。でもね、時折羨ましく思うことくらいはあるのよ? ああ、記憶フロッピーディスクに溺れたら私もあなたの彼女さんの様に心地の良い眠りにつけるかしら、って。あいにく私は彼氏と別れたばっかりなの。どうしようもないわよね。だから私は〝お家に鍵を忘れて帰れない異邦人〟なの。ここが家みたいなものよ。――でも、眠ることが出来ないって最悪よねぇ。あなたもそう思わない? 禁じられたものを使っている――しかも売っている、人間には分からないかもしれないけど――椅子に私が縛りつけられて、恋人の浮気現場を見させられるみたいに、私を不眠症という形でこの世界に縛り付けておかなくても良いじゃない。なんだか嫌なのよ。何もかも。はあぁ、早く夢の中へ逃げたい」


 自分はその言葉に対して、どのようなリアクションを取る事も出来なかった。


 そのような会話を最後に、女は自分に話しかけるような事はなかった。自分は飽きられたのかもしれない、と思った。まあ、それならそれでいい、とも思った。自分はカクテルを飲んだ後、もう一杯だけ飲み物を頼もうとした。やはりウイスキーを飲みたい気分だったから、自分はそれを頼んだ。

 次の瞬間には、先ほどまで自分にウイスキーを出す事を拒んでいた女が、自分に向かってウイスキーを差し出していた。女は本当に自分自身に対して飽きを感じ始めたのかもしれないと思った。


 居心地の悪さを体感した。自分はそのウイスキーを勢いよく飲み終わると、そのまま家に帰ろうとした。けれど、女が最後に一言自分に衝撃を置いていった。そしてそれが終わると、自分は本当に家に帰った。家に帰ると、先に眠っていた蓮花の隣りに潜り込んでその日を強制的に終わらせた。


 夢の中で、女が最後に自分に残していった衝撃が浮き上がってきた。それは夢の中で大海原のド真ん中、小さな浮き輪に乗って浮かんでいるだけの自分の元に、海底から浮かんできたんだ。そしてその衝撃は、海の深層に自分を引きずり降ろそうとした。自分は女が最後に言った言葉が、明確な殺意を以て自分を海の奥底に引きずり降ろしていくような想像が自分の喉元を突き刺した。女が最後に自分に置いていった衝撃は、こんなものであった。


「女にとってのセックスは車の購入と同じ。長く乗れるか、安全か、壊れないか。死ぬこともある。男のセックスは駐車場探しと同じよ。『あそこだ、あっちに入れよう。有料ならいいや』そんなものでしょう? ……私はね、そういう、性欲という存在によってもたらされる〝悲惨な現実〟が嫌いなの。可愛らしい性欲の在り方ってないものかしらね。だから、私はそういう意味でもあなたは嫌いだわ。だってそうでしょう? あなたは自分の人生が悲惨である事を悲惨で、何か逃れられない惨劇のようなセックスのせいにしているから、だから、あなたの事が私は嫌いなの。私は知っているわ、あなたが今最愛の人間としている女性と初めてのセックスをするとき、いいや、後だったかしら、あなたは一度だけその最愛の女性に嘘をついた。そうよね? たしか……このような嘘だったかしら。あなたは初めてのセックスの後――最愛の女性の〝ねぇ、貴方って誰かを愛したことって、ある?〟っていう言葉に、こう返したのよ。〝どうだろう。恋愛的な意味で言うとない……かな。でも、尊敬だとかそういう事を含めたらあるよ――〟――……嘘よね。漠然とした嘘じゃない、ハッキリとした嘘よね。私はね、本当にあなたの事を何でも知っているの。だからね、あなたが本当は〝沢山の女性の膣の中を楽しんでいる人間〟であるという事も知っているのよ? ねぇ、あなたは分かっているの? 自分の人生の中で、〝何が本当に現実に起きたことであって、何が事実とは異なる妄想であるのか〟……本当にわかっているの? 分かっていないだろうね。だから、私はそういう自分の都合の悪い事を妄想で誤魔化してしまう人間が嫌いなの。どんな世界に行っても、自分自身からは逃げられないのよ。」


 そうして、自分は海の奥底に沈着して、溺死した。


 自分はその言葉の節々の一つすら、否定する事が出来なかった。

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