ありがとう、また逢いましょう ⑥

 それは後から気がついて初めて分かった事なのだけれど、蓮花はこの一ヶ月間ほど、煙草を吸うのをやめていたり記憶フロッピーディスクをも含んだ何もかもに〝依存〟することをやめていた。

 それは〝妊娠の予兆〟みたいなものであるということは言うまでもなかった。蓮花の性格が変わったことに自分はどのような気持ちも抱かなかった。ただただ〝そう〟なるべくしてなったとしか思わなかったし――蓮花が〝母親〟になっていっている様相を、自分はこの一ヶ月間の反芻をすることによって色々と思い出すことが出来た。


 蓮花という最愛の人間を妊娠させたという事実はじっくりと、自分の身体を取り囲んで胸をじんわりと温かくさせた。そして、蓮花という人間への愛をより一層自分に自覚させた。


 自分は蓮花を連れて色々な場所に行くことにした。それは自分達が久しぶりに得る事が出来た〝安寧〟そのものであって、別にどこかに行くだとか何処で何かをするだとか具体的な事が必要なのではなくて、ただ自分達にはそのような日常からの逃亡――まるで毎日が緩慢な日曜の様な憂鬱と口当たりが絶妙な〝現実〟が必要だった。

 ただ、互いが互いの欲望に忠実であるという時間が必要だった。ありふれた惰性で続けている日常をより大切に思えるような、気分転換が必要だった。蓮花を色々な場所に連れて行く、と言っても自分達が求めていることなんて一緒だった。やはり、自分達には具体的な目的というのは、必要じゃなかった。


 自分達は、微風が頬を撫でる、緩慢で時の制約の存在する贅沢な夜を満喫した。自分達は都市の中心部に乱立するビルの中にある、レストランのテラス席に行った。テラス席はそれがたまたまなのかは分からないが自分達以外に客はいないようだった。BARのようなカウンター席や普通のテーブル席にはカップルのような人間から子供連れまで、様々な人で賑わっていた。この世界のどこにこんな人が住んでいるのだろうかと思うほどに小洒落た良識を纏った人間も見受けること事が出来た。


 少なくとも、自分が蓮花と出会ってからはそのような人間に出会った記憶がないし、まず第一にこのような〝自分達の世界の外側〟のような場所に来ることがなかったから、とてもありありとした新鮮な気持ちが胸を埋め尽くした。


 ちゃんとした服、と言うことは自分に対する自信の喪失に繋がってしまうかもしれないから、好まないのだけれど、自分は、自分自身の中でも一番まともなジャケットを着ていた。蓮花も、普段の蓮花からは想像出来ないような小洒落た〝女性〟として立派なお洋服を纏っていた。それはとても可愛らしかった。

 そのような女の子を――いいや、もうこの時には蓮花は立派な〝女性〟となっていた――妊娠させたという事実は、自分にとってはとても心が落ち着くことでもあったし、逆に心底興奮させる事実でもあった。


 自分達が日常を共にするようになってから、このような〝外界〟とも呼べる場所にくるのは初めてだったからか、自分達は最初自分達がこのような場所に来るべきではないのではないかと思ってしょうがなかった。自分達はレストランのテラス席の中でも一番端っこの方の席に座った。正しい立ち振る舞いを持った〝女性〟としての蓮花の有様はとても慎ましく、美しいものがあった。普段着ることのないジャケットを羽織っているからか、蓮花は自分の方を見つめながら微笑を浮かべていた。その表情もまた可愛かった。


 自分達は料理を頼んでからそれが自分達の手元にまでたどり着くまでの間に、ずっと自分の手を握りたいと催促してきた。自分はその催促を繰り返している蓮花の姿がとても良い意味で幼稚に思えてきてしまって、自然と笑みを溢してしまった。


 自分が蓮花の右手を左手で握ると、じんわりと愛が心に補給されていく感覚に陥った。それが遙かなる沼であることは明らかだった。一歩踏み出したら、その愛に逆らうことは出来ない。自分に手を握って貰って嬉しそうな蓮花の表情を見ていると、本当に蓮花という人間が、女の子であるのだな、と自分は改めて認識したし、けれどもその表情の奥に存在する、まるで生きる事そのものが都合の悪い出来事であると語ってしまうようなその不安げな姿というのを、自分は一切無視していなかったし――というか、無視することなど出来るはずもなかった。


 自分は〝昔〟と比べたら驚くまでに〝自分〟では色々な意味でなくなっていたし、それが〝希望を持っているから〟であるならば、自分は本当の意味での〝自分自身〟に戻れた事にはなるのだろうが、でも、ネガティブな気分、人生そのものが口当たりの悪い現実として生きていたあの頃の自分の方が、今の〝希望〟を手にした自分よりも遙かに自分が想像する自分には、近しかった。


 自分が持っていないものを(いいや違う、自分がかつて持っていたけれど今はもう消失し切ってしまっているものを)蓮花は持っているようだった。それはまさしく〝明確な不安と不安定な気持ち〟であった。その狭間で揺れ動いている蓮花がとても美しかった。


 我々は料理が自分達の元に来るまで、互いの手を取り合っていた。指先で軽いセックスをした。それは勿論雑なセックスなどではなくて、愛撫から始まる大人向けのセックスだった。だってほら、自分達はもう〝オトナ〟なのだから、と、自分達はそう言い合って、笑った。

『オトナになってまで愛撫もない雑なセックスはしたくないな』蓮花は神妙な面持ちで言った。自分はそれに、そうだね、と答えることしか出来なかった。


 自分達は自分達が思っている以上に〝オトナ〟に近づいているようだった。いいや、今言ったことは純然たる嘘だよ。いや……嘘なのかは分からない。分からない、けれど、でも自分達は自分達が思っている以上に〝成長〟していることは確かだと思うし、なにがそうさせたのかは分からないが、少なくとも、自分には〝守るべきもの〟が出来たのだ。それは蓮花であり、蓮花のお腹に存在するその子のことかもしれないし――自分達が生きる事に、生まれてきたことに、言葉通り死ぬほど嫌悪感を抱いたのにも関わらず自分達はお腹の子供に対して命を宿してしまったし、妊娠、という事実は自分の背後でいつでも自分の首を絞める準備が出来ているように感じられたんだよ。でももう、今の自分が絶望にエスコートをされるような事は全く無かった。それは言葉通り〝希望〟だった。


 自分達の元に来た料理を食べた後、自分達はテラス席から一度お店の中に入って、会計を済ませてから店を後にした(結局のところ、自分達以外にテラス席を使う人間はいなかった)。


 それから、自分達はビルの屋上のカフェに行くことにした。お腹は満たされていたけれど心は満たされてはいなかった。まだまだ互いに話したい事は沢山あった。屋上に向かっている最中、自分達はエレベーターではなくエスカレーターを使った。手を握っている時間が少しだけ伸びた。

 各階にたどり着いたら、ひとつ上の階へのエスカレーターに乗る、それを何階も繰り返すのだ。


 エスカレーターからは吹き抜けになっている中央部からビルの全体像を見ることが出来た。ビルには沢山の階が存在していて、自分達はその階層をただ事務的に登っている。互いに無意識的に指先でまた、軽いお遊びをしていた。今振り返れば、自分達の関係もその〝お遊び〟から始まったのだと言えた。自分はふと、吹き抜けになっている中央部から下の階層の景色を見渡しながら――午前から午後、午後から午前、セックスばかりしていた頃の事を思い出した。あの頃は、今と比べればなのもかもが酷かった。絶望に溺れると、自分はずっとそのままで、自分が浅瀬へと戻ってくるのには時間が掛かった。その浅瀬へと戻ってくる時間が無駄だなんて思わないけど、でも限りなく自分の命は長い時間絶望に浸されていたから乾くことを知らなかった。自分の感情は湿りきっていた。


 ――セックスは自分が思った以上のものではなかった。


 綺麗な女の子を汚す(という言葉に付着する加害性はとても嫌いだよ、でも、その言葉に心底興奮するんだ)という事はとても気持ちの良いものだよ、少なくとも、自分の事足りている部分と彼女の事足りていない部分を擦り合わせて互いの身体を迎合する事は充足そのものだった。でも、違うんだ、いいや違わないよ……気持ちの良いものである事には変わりはないよ。でも……快楽は人を良くない方向に向かわせるという事に気がついたんだ。セックスばかりしていても、自分が救われることはなかったし、でも、その時はそうするしかなかった――で終わらせるのであれば自分は自分の事を容易に嫌いになってしまいそうだ。


 あの時はそうするしかなかった、そうなのかもしれないけれど、でもセックスばかりする日常が人間を良い方向に向かわせることはないんだ。射精の後の罪悪感のある憂鬱は、もう体感したくもなかった。


 エスカレーターが屋上にたどり着く頃にはもう我々は指先のお遊びで二度、果てていた。屋上、と言ってもカフェとして解放されている部分だったから、様々な人がベンチに座ったり、テーブル席に座ったりしてお茶をしていた。ある種の公園の様にもなっていた。木々であったり、それから生み出される落ち葉であったり、公園そのものだった。自分は飲み物を買ってから(自分はカフェラテを買って、蓮花はというと何も買わなかった。――お腹の中の子供がそういう気分じゃないように思って、と蓮花は口にした。それがどのようなもの(感覚)なのかは自分にとっては生えてもいない尻尾というものに対する思慮の如くあまり肉体的な言葉ではなかったから、そうなんだ、という言葉だけを吐いた。)。


 それから公園のベンチに座った。この日だけは、今日だけは今まで自分達が、少なくとも自分にとっては疎外感を感じる原因そのものであった街並みというものが、とても胸の中を温めながらも良い意味でなんと言葉にする事も出来ない秀麗な景色を保っていて、自分は漠然に似たなんとも言えないような気持ちになった。


 蓮花は自分の持っているカフェラテの入ったカップに触れて手を温めていた。自分達は色々な事を話した。色々なこと、と言ってもこれまでの――出会ってから混じり合いを経て、それから今に至るまでの――ことを何度も何度も舌で触れて何度も改めて確認するかのような反芻が大部分を占めていたけれど。そうしているうちに、これからの事なんて何も、明日どうなるのかさえも、自分達を含めた〝人間〟という生物は不明瞭に溺れていて、だからこそ〝今〟をより尊重することが出来ることにもなるのだけれど、でも、自分達は〝なにも分からない〟をずっと続けているような気がしてならない。


 結局のところ、自分は自分だし、蓮花は蓮花なのだ。翻訳された小説の特に味わいのない書き出しみたいな言葉だけれど、胸の中に溢してみたら、それが本当にそうである気がして堪らなくなった。無意識レベルの〝義務〟というものが人生の中から刈り取られて(神様というものがいるのであれば(いいや、自分は何かしらの宗教の神様のことを言っている訳じゃないし――宗教の神様なんて大したものじゃないよ――ただ、自分が言いたいのは、漠然とした〝この量子的に限りなく近しい世界を盤面として眺めている、観察者的な立ち位置の存在〟のことなんです。もし、それを人間が漠然と持つ〝神様〟に対する意識の、向けられた存在であるならば、自分は限りない自分の持ち合わせているありありとした言葉達を以て言いたい――〝お花畑に着いたとき、それが自然な欲求であることは分かっています。自分も馬鹿じゃないし、何もかもを見てきたから。でも、その欲求に従って〝一番良いお花を貴方様の存在する世界に連れて行ってしまうのはやめてください〟と……。〟)。


 神様というものは、世界というお花畑から一番良いお花を持っていってしまいました。それは自分人生の無意識レベルの義務にまでなっていた、この世界での最大限の〝生きる意味〟であった、〝世界を動かす人間〟という存在を……。まるで蓮の花のような泥から咲いた花のような自分の傷だらけの人生において、その〝蓮の花のような人生〟までもを神様は刈り取ってしまったかのように、自分は酷く感じられた……)。でも、自分の人生というのは〝蓮の花〟そのものの様なものだから、その程度で終わることはなかった。


 最近、自分の心の中に、新しい蓮の花が生まれてきた。心の中にある泥から生まれてきたその蓮の花は、自分自身として、自分の分身の様なド真ん中に生えている蓮の花の隣りに生えてきた蓮の花であった。その蓮の花は、まさしく〝蓮花〟のことだった。そしてその隣りにも、死に絶えてしまった蓮の花が一本存在していた。それはまさしく〝世界を動かす人間〟だった。これがまさしく自分の人生であると思った。終わりなんてない。生きるのだ。生き続けなければならないのだ。自分が何故生き、何故あの人が死んでしまったのか、そんな考えが頭の中を漠然と埋め尽くした事は何度もあったよ。けれど、世界を動かす人間という蓮の花は死に絶えてしまったけれど、今の自分は一人ではないし、蓮花という蓮の花は、自分の心の中に存在する分身として蓮の花に対しても寄り添い続けてくれている様な気がした。自分の心の中には二本の蓮の花が生きていた。それは限りなく群生することのない、はぐれ者としての、人類の落としものとしての蓮の花。


 自分達が、少なくと自分自身が感じてしまっている〝人間は、何も分かってないし、聞こえてはいるけれど聴いてはいないし、見てはいるけれどえてはいないし、だから何もかも不明瞭の中に人間は生きている〟という感覚は、蓮花もどこか似ているような事を思っているのではないかと自分はこのベンチに座っている最中での会話の中で思ったのだった。


 過去への追憶は未来へ対する興味や不安、曖昧で絶妙なものへ対する間接的な思慮みたいなものだが、自分達はどうも今現在時点であっても、色々な意味で〝過去〟から、抜け出す事が出来そうも無かった。少なくとも、今のうちは絶対的にそうだった。


 自分達は過去に対する追憶を続けながら――自分はカフェラテを飲みきって、それをゴミ箱に捨てた後――共にフードコートへと行った。自分達の関係性はここから始まったんだ。フードコートの迷いに迷いを重ねた人々の終着場(ゴミ捨て場と呼んでみてもいいかもしれない)には、自分達はもう行き慣れたものだったし、自分達がまだ〝自分達〟になる前は――それはつまり、言い訳を重ねに重ねて、まだ自分が劣等感の温床に溺れていた蓮花を引き上げる前ということだけれど――自分達はまだ本当の意味での〝人生においての義務〟みたいなものは理解していなくて、覚えていた義務と言えば、とても面倒臭い、自分を自殺への誘惑に誘わせるのに十分な〝退屈な日常〟に付属する〝義務〟だけであって、無意識レベルの本質的な充足に繋がる義務というものをまだ自分達は胸の中に宿していなかった。


 でも思うのだ。少なくとも、そのような無意識レベルの本質的な充足に繋がる義務への理解というものを胸に宿すのには自分達はまだ若すぎた様にも思えるし――第一、自分の感情にすら対処出来ない、(すなわち、それは自分で自分の機嫌を取る事が出来ない人間、ということだが)そんな若い人間が、本質的な充足に繋がる無意識レベルの義務を胸に宿すだなんて、到底難しい様に思えるのだ。いいや、本当にそうなのだろうか。自分達は現に〝お腹に子を宿した〟という事実を突きつけられているじゃないか。――蓮花と一緒に歩きながら、自分はそんなことを考えている内に、自分はその自分の思いに対して自信が零れ落ちる様子をいとも簡単に想起してしまった。それはまるでオーバードーズの重症患者の口から溢れ出す泡のように――それはまるで渇望に渇望を重ねて、けれども恒久的な愛などないと知った人間の口から吐き出される息苦しさを覚えてしまう砂のように。


 自分達がフードコートに来たら辿り着いてしまう場所なんて一択だった。従業員専用の入り口であることを示す看板を見つめると、ああ、本当にここは始まりの場所で、終わりの場所でもあるのだな、という事を自分は悟った。


 従業員専用の入り口から向こう側に行くと、そこは表舞台と舞台裏の狭間のような場所。螺旋階段に自分達は久しぶりに訪れた。過去自分達が〝此処〟に訪れた時の自分達と、今の自分達、もう全く違う人間と言っても良いほど身体の隅から隅まで精神の端から端まで、変わってしまっていた。(それは後から思い返した時に気づいた事なんだけれど、自分は一人でならば、記憶フロッピーディスクの売人という立場として記憶フロッピーディスクの売買に勤しんでいた。だから、久しぶりかと言われれば微妙なところだった。けれど、蓮花と訪れるこの場所はとてもかけがえのないものだった)。


 自分は蓮花の手を引っ張って螺旋階段の上へと登って行った。建物の外の喧騒としてる音や、事務的に義務的に回り続ける換気扇の音など、様々な音が聞こえてきた。


 自分は、そのようなこの場所を愛していた。そして、そのような愛している場所で、自分は蓮花をひたすら自分の満足の行くまで愛した。螺旋階段を一番上まで登って、誰もこない二人だけの場所で、自分達は沢山互いの身体に触れ合った。昔の自分は心の底から誰かを愛して、誰かの為に生きて誰かの為に何か行動を起こす事が素晴らしいだなんて何か馬鹿馬鹿しいように思っていたことをなんとなくだけど覚えている。


 キスを重ねた後、蓮花は自分の肩に寄りかかってきた。そして、それから――そんな事を自分がするようになるだなんて想像もつかなかった。自分は、蓮花を耳を甘噛みした。とても美味しかった。彼女の鬱蒼とした熱帯雨林の危険地帯のような性格が、自分はとても好きだった。


 自分が蓮花を甘噛みした後、次は蓮花が自分の指を甘噛みしてくれた。自分はそのまま蓮花の口の中を指で掻き回した。彼女は何か反抗したそうに文句を垂れようとしたが、なんと言っているのかが全く分からなかった。


 そんな〝お遊び〟が終わると、自分達は窓ガラスから差し込んでくる、月が街を照らすその明かりが動くのと共に、自分達も照らされた方向に向かってじっくりと移動した。そんな事をしながら、沢山の事を話した。蓮花は素直に思いを露呈させていた。それは自分の気持ちではないのにもかかわらず、急激に自分の胸中を曖昧な不安で埋め尽くした


「otibaは本当に私なんかとの子どもを望んでいたのかな」


 自分はどんな事を言えば良いのか分からなくなった。だから細々こまごまとした事しか言えなかった。


「……どうなんだろう。ごめんね、こんな曖昧な事しか言えなくて」


 そう言った自分に蓮花は首を横に振った。


「別にいいの。別にそれはいいの、本当に。あなたとのセックスはとても愛らしいものだったから。そうでしょう? 私を好む人に出会ったのなんて生まれて初めてなの。私の身体を本当の意味で愛してくれる人間も、あなたが初めてなの。私の危険地帯はどうだった? 気持ち良かった?」


「最高だったよ」


 ――ああとても最高だったよ、自分はあの時を噛み締めるかのように内心呟いた。


 大丈夫だよ、蓮花がそんなに心配することなんてないんだよ。自分がそう言うと、蓮花は「そうね」――そう呟いた蓮花の言葉が取り繕われたものであるということは他を見るよりも明らかであった。


 そして自分は蓮花はこう言いたいのだろうなと瞬時に思った〝――形式として、形としてのセックスは勿論気持ち良かったし、身体の深層を突かれたことは、何よりも気持ち良かった。私の危険地帯の鬱蒼としている部分を貪るあなたも大好きなのよ。でも、そうじゃないのよ。今回私が言いたいことというのは。セックスという形式には満足してはいても、私達の子どもを作るという行為に対して、自分達の子どもが生まれるという事実に対して、あなたは本当に満足なんてしているの?〟……そう、蓮花は言いたいのだろう。自分は、考えた、そして言った。


「本当に心の底から望んでいることなんだよ。最愛の女性を妊娠させて、自分達の子どもが生まれる、それは本当に幸せな事なんだよ。蓮花が本当に言いたい事だって分かってるよ。大丈夫、心配することなんてなにもないさ。でも、その気持ちはよく分かるよ。自分もそうだったから。でもね、蓮花に知ってほしいんだ。人生というのはね、〝ピアノ線の上を歩くことのような、不安定さを保っていて、尚且つその不安定な歩みを均一な複数もの自分が役を担うが如く場面場面で現れながらそのピアノ線の上を歩いて行くことのようなものなんだよ。そうだろ? 自分といる時の蓮花が全てじゃない。一人で絶望に浸っている蓮花がいれば、自分に向かって精一杯笑顔を見せてくれる蓮花もいる。自分はその全ての蓮花を愛しているんだよ〟」


 蓮花の自分の胸の中に身を放り出した。自分は自らの胸に飛び込んできたそんな蓮花の表情を見ながら呟いた。


「その表情は君のお母さん譲りだね。とても可愛いよ。自分が好きな君の身体は君のお祖母ちゃん譲りかな?」


 ――君の身体がほしいんだよ。君の口から漏れる曲が聴きたいんだよ。蓮花の頭を撫でながら、自分はそう言った。私に対して望んでいるものはないの? 蓮花は自分の中でいだかれながら自分の顔を見ながら言った。自分は悩んだ。そして言った。


「愛してもほしいけど、自分のことを信じてほしい。もし、自分が君を心の底から愛すことが出来なくなる時がもし、来たとしても、許してほしい……」


 蓮花が何かを言おうとしたから、自分はそれを自分の口で塞いだ。



 ――それが自分が物凄く人間として成長して、過去の、まだ十代の頃の自分を可愛げのある〝男の子〟ではなく〝男〟であると言えるくらいに成長して、〝あの頃〟の事を思い返せるほどに余裕が出来たからこそ言えることなのだろうけど。それは後になって――後と言っても、自分が人生を当時の自分の年齢のちょうど二倍というのは、遠い未来と言うことも出来るかもしれないけど――自分は、〝恒久的な愛などない〟という事を知った。


 それがどのような意味を持ち、どのような匂いのある言葉であると〝観測者〟から思われるのかは一切分からない。ただ、自分は〝恒久的な愛など存在しない〟という事を知って、だからこそ〝愛せなくなるその瞬間まで、目一杯愛させてくれ〟と蓮花に対して言ったことを深く覚えているよ。


 それは本当に、十八という若者からしたら〝遠い〟未来のことなのだけれど……。


 恒久的な愛なんてないんだ。だからこそ、君を目一杯愛せなくなるその瞬間まで愛させてくれよ……。人生に安定なんて無いんだ。人生はピアノ線の上を歩くことのようなものなんだよ。

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