ありがとう、また逢いましょう ③

 自分達は一緒に、最寄りの駅から電車に乗って産婦人科へと向かった。


 電車に乗ってからはいつもと同じ様に端っこの席に座った。自分達の近くの席は他の車両よりも多く空いていた。だからか、蓮花はいつもよりも大きく自分に対してスキンシップを取るようになっていた。


 電車が産婦人科のある場所の最寄り駅に着くまでの間に、自分は色々な事を蓮花から訊いたし逆に蓮花も自分がしてきた〝お仕事〟について沢山色々な事を訊いてきたが、自分は全ての質問だったり、その問いかけに対して言葉を濁した。そうしていると、何か蓮花に対して雑な対応をしている様で自分の態度が嫌になりそうだった。けれど、今の自分にはそうするしかなかった。言葉を濁す事にも終わりが来て、自分は何か、仕事に対しての興味らしい興味を失いかけている蓮花に対して一言だけこう言った。


「一週間後くらいになればその時がくると思うけど、蓮花をある場所に連れて行こうと思うんだ。どことは言えないけど、まぁ、自分だって一回しか言ったことのない場所って言っても……分からないか。まぁ、そこだよ」


 言葉に対して蓮花は、何か自己と他者との狭間に生まれる〝不満〟のようなものに、何にも似つかないような表情を見せていた。納得はしていないようだったけれど自分は蓮花の目を見続けて、それに気づいた蓮花は、自分で自分を無理矢理にでも納得させるような頷きを自分に向かって見せた。


 蓮花と話している間にも、頭の中には〝死んだ、世界を動かす人間〟のことで一杯だった。それどころじゃないという事は分かっていた。けれど頭の中から世界を動かす人間が離れることはなく、迷惑なくらいに頭の中に鎮座していた。そして、自分は〝蓮花が妊娠した(だろう)〟という事実に、自分が現実で生きている生物であるとは深く思えなかった。現実を消失していた。現実をどこに制定すればいいのかずーっと迷っていた。

 それが自分達にとって深く重苦しい重責をそのまま飲み込んだような息苦しい出来事であったという事は、忘れることもないし今でも深く覚えている。



 ――自分達が産婦人科に入ると大人達の目というのがまず真っ先に自分達の目に入ってきた。その時点で、自分の意識は自分の内在する深い中庸によって保たれている狭い見地に逃げ込んだ。自分は、自分を内側から覗いていた。消失していく現実感というものが、より一層現実から離れていった。


 自分達が硬いソファーに座ってその順番を待っている間にも、自分達を殺すような大人達の目線というものは自分達に向けられていたし、そこに確かなる嫉妬みたいなものが含まれていた事を、自分はしっかりと覚えている。それがどうって事じゃないけれど、自分は何か悪い事をしてしまったかのような気持ちになった。勿論妊娠させた(だろう)という事を悪いと思う人もいるだろうし、だから何度も反芻するようだけれど――〝自分が肉体的に理解することの出来た出来事に気づくことも含めた、何もかもが遅かったんだ〟。


 何故こんなにも自分達を取り巻く環境は最悪で、逃げ道すらないだのろうと思った。けれど、それについて悩んでいるうちにその考えが間違っている事に気づいた。〝人生に逃げ道なんてない〟のだと気づいたんだ。それに気がつくのには、別に自分は遅くもないはずだと思った。


 それに〝人生には逃げ道はないけれど、自分が歩くことの出来る道ならば無数にあるのではないか〟とも思った。いいや、仮にそれが舗装されているもう成り立っている〝道〟じゃなくとも、自分が歩んでいく事の出来る方向性なんてどこにでもあるのだろうなと、思った。思慮がその様な場所までへと到達することが出来た時、自分は待っていた自分達の順番が来ている事に気がついた。


 重苦しい雰囲気は変わらなかった、けれども、蓮花は勿論のこと、自分をも含めた〝自分達〟の為に自分自身が出来る事なんて無数にあるのだろうと気づいていたから、自分は蓮花の手を握りながら、産婦人科の奥へと入っていった。

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