ありがとう、また逢いましょう ②

 世界には雨が降り注いでいた。それは何気ないそぼ降るような人々の感情に入り込むような雨ではなくて、世界の全てを一度――それは人間をも含めた全てを一度――世界から取り外して一つひとつ洗浄していくかのようなそのような印象を自分に与える強い雨だった。

 自分が家に帰った時、時刻は深夜になっていた。家のドアを開けて、玄関に足を踏み入れると、毛布を抱きながらベットの上で眠るように存在している蓮花の姿が見えた。自分は、何故なのかは分からないが、それが嬉しかった。蓮花はそこにいたし、自分はその姿をハッキリと眼前に捉えていた。


 自分は間違い無く、生きて帰ってくる事が出来たのだ。自分は蓮花を起こさないようにゆっくりと家の中に入っていった。懐かしい匂いがした。それはこの場所が自分達の〝居場所〟である事をハッキリと示したし、自分は蓮花の眠っている姿を見て急激な疲れを思い出し、蓮花のいるベットへと入っていった。

 自分は蓮花を壁際に追いやった。蓮花は壁と自分に挟まれていた。自分はふと、自分が過ごした今日一日が――いや、世界を動かす人間の潜在意識の世界での物事の全てが今日一日の出来事であるとは思う事は出来ても、感覚的にすんなりと咀嚼し切ることは出来ないのだけれど――でも、明日への架け橋を掛け始めた、今日と明日の狭間の時刻という時間帯の存在が自分の人生の〝集大成〟が、今日一日の出来事であるという事を遙かに示していたから、自分は自分が蓮花に押しつけた精子の匂いが未だにこの部屋のどこかに残っているのではないかと思いながら(そのような匂いを僅かに鼻腔に感じながら)、軽く眠った。


 十分もしない内に目が覚めた。それは蓮花が起きて自分に抱きついてきた音に反応したからに他ならなかった。自分は寝起きと共に息苦しさを覚える。蓮花が自分の身体の上に乗ってきていた。自分はそんな蓮花の身体を目一杯抱いた。


「ただいま」


「お帰りなさい」


 何にも代え難い充足を感じたよ。


「遅かったね、貴方にしては」


「そうかな、自分にしては結構早く……全速力で帰ってきたつもりだよ」


 そう言うと、蓮花は微笑を浮かべながら自分の身体をまさぐってきた。


「欲求不満なの?」


 笑みを浮かべながら自分はそう言った。


「どう思う?」


「さぁ、どうだろうね。君はいつも欲求不満だから」


「そうかもね、貴方からしたらそう見えるかも。でも、寂しかった。貴方が行っている間に色々な事を考えたのよ? なんせ、私には貴方が何をしてきて何にそんなに疲弊を覚えているかが分からないもの。概ねはわかっているけど、でも、完全には分からない」


「仕事をしてきたって事くらいしか?」


「ええ、そうね。でも貴方はそれを仕事だなんて思っていないんじゃない? 義務という言葉が好きだものね、よく私の前でも義務がなんだかって話してくれた。ねぇ、こんな話をするのは貴方にとっては凄く都合の悪いことかもしれないけど、私ね、貴方に一つ話したい事があるの」


 そう言うと、蓮花は自分の上から降りてまた壁と自分との間に挟まれた。


 蓮花は自分がなんて言うのか凄く興味深そうに見ていた。自分はまるで彼女から喉元にその可愛らしい手で握られている包丁の刃を向けられているような、そんな気持ちに一瞬なった。けれど、蓮花の表情を見つめていると、自分は内在していた何か強がったり都合の悪い現実に溺れてしまう気持ちだったりを、持つ気持ちが失せてしまった。


「それって話さないといけないことなのかな?」


「貴方がお仕事に行く前に、私が何か話そうとした事を覚えているかしら?」


「ああ、まぁ。覚えてるよ……」


「その時に話そうとしたことなの。貴方は怖いって思ってるかもしれないけど、大事なことなの、聞いて」


「……分かったよ。帰ってきた聞かせてくれって言った事も事実だしね。いいよ、話してほしい。でもさ、自分も言いたい事が一つ、蓮花の話したい事よりはあれかもしれないけど……あるんだ。聞いてくれるかい?」


「ええ、勿論よ。じゃあどうする? 貴方から話す? どっちの方が大切かと言えばどっちも大切だと思うの。でも、私の話したい事は後の方がいい気がする。貴方から話してよ」


「分かったよ」


 自分はこの瞬間までに色々な事を考えていた。それは勿論〝自分の記憶が完全に戻った――無くなっていた過去を取り戻す事が出来た〟という事についてだった。蓮花にどのように話せばいいのか分からない、それは今の自分だって一緒だ。でも、自分は言った。


「自分が仕事をしてきた事についての全容の全てを話す事は今は出来ない。でもいつか蓮花に話せる時が来る事だけは保証出来る。だからそれを踏まえた上で混乱する事なく聞いてほしいんだ。自分の記憶の全てが完全に戻ったんだ。しかも、それは自分が今までこの世界で生きている事を自認した時から覚え始めた息苦しさだとか、違和感だとか――それがどんな理由でそうなったのかも全てが分かる事だったんだ。ハッキリと言うよ、僕はさ、この世界の人間じゃないんだ。違う世界から来た人間なんだよ――これは事実なんだ。……そんな表情されたって今の自分に言えることなんて何もないよ」


 蓮花は何か自分自身の中で葛藤のようなものを抱いていて、それと何か戦っているように見えた。もし蓮花の中に葛藤のようなものがあったとしても、自分はその全貌を掴み取る事は出来ないし、優しく身体の隅々を撫でる事くらいしか出来なかった。


 蓮花は何も言わなかったが、自分は自分の身に何が起こったのかの全てを話した。記憶が戻った、という事以外に話せる事なんてなかった。まだ、少なくとも〝今〟は、自分がどのような存在でどのようにして記憶を取り戻したかについては話すことは出来なかった。一週間後、自分は蓮花をある場所に連れて行くことに決めていた。そこで、蓮花に本当の意味での〝全て〟を話すことに決めていた。


 蓮花は少しの間だけ自分に撫でられていた。自分はただそうしていることしかできなかったから、その間ずっと蓮花の首筋にキスをしていた。それだけが今の自分が感じている唯一の強いられていない感情だったから、ただ、そうしていた。蓮花が首筋へのキスを拒む頃になると、彼女に対する配慮の穴埋めのように行っていた撫では落ち着きを見せた。もう少し首筋へのキスをしていたいと思っていたのだけれど、蓮花は一度それを拒むと、ベットの上から降りてカーテンを閉めて、水を一口だけ飲んでからまた自分の元へと戻ってきた。そして、それから蓮花は自分が長くこしらえていた話を話し始めた。


「……私ね、妊娠したの」


「そっか」


「そっかって何よ。嬉しい?」


 嬉しいとも、嬉しくないとも思わなかったし、自分は何か他人に褒められるような感情を抱くことが出来なかった。けれど表情を見る限り蓮花はとても嬉しそうな表情をしていた。その表情が自分にとっては物凄く心底嫌になるような都合の悪い現実のように思えた。自分は、ただ〝自分が最愛の人間を妊娠させたということ〟に、少しだけ興奮を感じた。自分は蓮花の腹部を撫でてみた。一度は服の上から撫でて、それから直接腹部を愛した。


「ねぇ、嬉しい? 私は勿論嬉しいよ。貴方の子供だもの」


「勿論自分も嬉しいよ。ごめんね、そのくらい大事な話なら仕事に行く前に聞けばよかったね。いつ妊娠してるって気づいたの?」


「最近だよ。ふと、ね。まだお腹はそんなに膨らんでもいないしただ太っただけって思ってた、けど違った。ねぇ……貴方は私を捨てたりしない?」


 さぁ、どうだろうか。保証なんてなんにもないよ。自分ができる限りの保証なんて、本当に何もないんだ。――そう、言うことは出来なかった。その言葉を何度も反芻している内に、自分は蓮花がより一層愛らしく感じ始めた。蓮花はか弱いし、こんな事を言うのは酷いかもしれないが、自分がその気になれば蓮花を蓮花自身が今言ったように〝そう〟する事だって出来るはずだ(殆ど、いいや、絶対しないけれど……多分ね)。


 でも、自分は蓮花を捨てるような事があったら、それこそ自分は〝殺される〟ような気がした。それが〝誰〟であるかは分からない。それが〝なに〟によってかは分からない。けれど、強いて言うならば〝見えない存在(運命、と言ってもいいかもしれない)〟に、殺されてしまうかもしれない。もっともっと明確に言うとするならば、それは〝因果〟にだろう(酷いことをすれば、酷いことが返ってくる、当たり前のことさ)。だから、そのような事は絶対に無いと――できる限り愛してみるよ、蓮花もそうであってほしい――そう彼女に向かって言うのは恥ずかしかったから、自分はもう一度首筋に占領の証を付けた後、腹部にも占領の証を付けた。まぁ、もう蓮花のお腹の中には自分の〝色彩〟を授けてあるのだけれど――。


 自分はそれから、沢山蓮花を愛した後、家の外の空気を吸いに行った。そぼ降る雨は自分の感情にそっと寄り添ってくれたし、自分は、精子の匂いで飾られたまるで額縁の内側のような自分達の家(ワンルームの部屋)の匂いを何回も想起させて、その匂いすら手元にたぐり寄せて、その自分達がしてきた〝行為〟の全てに興奮を覚えた。


 自分はその時に、やっと自分がしでかしたとも成してきたとも言える蓮花とのセックスの全てを本当の意味で肉体的に感覚的に理解する事が出来た。まぁ、ちょっと遅かったけどな。何もかもが決まってから、自分は〝セックス〟の意味を真に理解する事が出来たって事だよ。でも、別にそれ――蓮花が妊娠したこと――に対して後悔なんてしていない事も確かだった。心の底から嬉しいし、心の底から……嬉しく思った。


 自分は雨脚の増す街の外灯に吸い寄せられる虫のように、同じく雨脚の強まっていっている街へと傘も差さずに繰り出していった。道中、自分はゴミ収集車を待っているゴミ箱を蹴飛ばした。中から人々の燃焼することもない感情の残骸が沢山露呈していた。自分は深い憤りを抱えていた。


 あの時の同じ様に――任務の始まる前のコールド・オブ・ナーの本拠地に向かう前の家での自分と同じ様に――自分は頭の中に沢山生まれては消えていく迷惑以外の何物でも無い自分自身の赤子のような幼稚な考えを、殺していった。赤子のような幼稚な考えはどんどんと膨らんでいった。それはまるで妊娠した女性のお腹の様に。その様に膨らんでいく幼稚な考えから繰り出される〝赤子のような幼稚な考え〟を、自分は幾度となく撲殺し続けていた。 そうするとどんどんと弱っていく赤子の様相が容易に想起された。自分は、自分が〝しでかした〟事の大きさに気づくのが、少し――いいや、重大なくらい、酷く遅いようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る