ありがとう、また逢いましょう ④

 毎日があの日からの続編なんだよ――。


 あの日、と言ったら、自分の長く重苦しくのし掛かる曇天の様な人生においても、一日しか存在しない。それはこの世界のやってきたその日ことだよ。その日から今日まで続いている人生において――毎日が〝あの日〟からの続編であるという風な感覚を忘れた日は一度も無かった。


 自分達は産婦人科から帰ってきた後、どこかに寄り道をすることなく真っ先に自分達の〝巣〟に帰ってきた。ただただ純粋に自分達を苦しめる大人達の視線そのものから逃げたかった。自分達を受け入れてくれる所なんて自分達の巣以外にあるのあろうかと一瞬思ったし、自分は別に特別顔に出すことは無かったけれど、蓮花は深い憂鬱を飲み込んでしまったかのような表情をしていた。その表情を自分に向かって見せながら吐き出される言葉の数々に、蓮花が悲観的になりすぎているのではないかと自分は思った。


 蓮花が妊娠したという事実に、自分が悲観的になる事はなかった。

 自分の心の中がじんわりと愛で満たされていくのが分かったくらいで、悲観的になる事は、なかった。

 自分は目一杯蓮花を愛した。抱擁に包まれた彼女の身体にはとても温かい温もりが存在していた。抱擁している最中、自分はコップに入れてあった水を飲んだ。すると、蓮花もそれを飲むと言ったから自分は蓮花にコップの水を飲ませてあげた。


 抱擁に飽きて(けれど蓮花はそうではなかったから)、自分は部屋に音楽を垂れ流した。この場に適合する、そして自分達の巣が迎合をすることが出来る音楽を流した。そうすると部屋中に充満していた、今はもうお腹いっぱいな精子の匂いや遮光カーテンを通り越してまでやってくる外灯の明かりというものの一切が遮断された。

 蓮花に全て飲まれた水をもう一度コップの中に入れようと立ち上がろうとした時も、蓮花はそのいっときすらも抱擁を解こうとはしなかった。蓮花の匂いに溺れてしまいそうだった。だから一度離れたかったのだけれど離れることを彼女自身が許さなかった。自分は水を飲みたいという気持ちを手放して蓮花の手を再度握りながらそのまま時を過ごした。 


 音楽は自分自身すら欠乏に気づいていなかった感情の補充をしてくれた。自分は蓮花が眠ってしまうまでの長らくの時間、ずっと頭の中で――まるで沈着が当たり前の湖畔に突き落とされたかのような欠落を感覚のある自分自身について、考えていた。考えていてたって言っても考えてはいなかった。その様なふりをしていただけさ。

 でも、本当の睡眠に誘われた――眠ってしまった蓮花をベットに寝かしつけて額にキスをして家から出ようとした時、それがどんな理由で覚えてた欠落なのかの理由が分かった。自分は、〝この世界に自我を持った時から明確に抱いていた〝生きる意味〟を、今の自分は見失っていた――〟。


 自分は、ぽっかりと空いてしまった心に、溜息をつきながら家を後にした。

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