重症患者 ⑥

 自分は緩慢な息遣いが聞こえる街並みを歩いていた。服装を身に纏っている外側――現実世界の、断片的で酷く乱雑に暴力を振るうような広告の列挙を見ながらホットコーヒーを片手に散歩をした。それはなんら変わらない自分の日常を支えていた。飲み切ったホットコーヒーをゴミ箱に捨て、いつもの、〝世界を動かす人間〟と関わる仕事に戻った――。


 ――誰かに使われることも無い、誰かに触れられることもない手つかずな雑居ビルを自分は登り(ボロい階段だった、今にも朽ち果て粉々になりそうな木製の階段)、そうして屋上へと辿り着いた。

 街を見渡すことが出来た。どこを見渡しても低俗な商品広告と手短な男と手短な女の歪んだ愛憎を見受ける事が出来たし、それに限った話をするならば――ああ、自分の居場所は本当にないのだな、この世界には、と自分は素直に思った。

 理屈じゃないんだ、そう、素直に感じてしまったんだ。自分は低俗な人間を嫌っていた。自分がそのような人間なのかもしれないのにも関わらず。


 久しぶりに、来た。だからか自分の領域の色彩が少しだけ抜けている様な気がした。一息つき、感覚の内情をただ、確かめ、自分はそれから深い溜息をついた。

 微風が感じられた。時間が経つのを待つ間に、街の構造をくまなく見渡した。それは初めて異性の性器を眺め恥じらいが生まれるまでの時間と同じ様に、少しだけの時間で。


 街は唸っている様に感じられる。表情を撫でられ、怒っているようにも感じられる。どこかではサラリーマンが未来へ対する展望もなく働いているのだろうな、と思いながら、屋外にまで漏れ出る蛍光灯の淡い光りをぼーっと眺める。空白を得る。自分のアウターのポケットに入っていた緑茶を一口飲んでから、また、ひとつ遠くを眺めた。

 肌寒さが自分に時間が少しばかり経った事を教えてくれたのは、実時間として一時間ほどが経った頃だった。夜に身を任せている状態から自分は浅瀬に意識を持ってきて、それからまた十分ほど人間を待った。その十分間の内に自分はこの屋上へと続く扉の上の部分に腰を下ろして待っていた。世界を動かす人間が屋上にやってきた。


 世界を動かす人間はなんら特別に見えない〝サラリーマンの男〟であったし、それは(その事実は)自分に深い絶対的な不変な気持ちを与えた。ああ、いつもと変わっていない。(不似合いな)ワイシャツを纏い、その上に窮屈そうに鬱屈したネクタイを締め、そしてその上から普遍で不変な事実として、いつも通りにこの世界で〝フツウ〟を纏っていた(鬱屈した様な姿のネクタイは社会という檻に繋がれたチェーンの様に自分は思えたし、けれどそんなことよりも〝フツウ〟の価値観への信仰を示しているようにも感じられた。けれどそれは片道切符で、もう戻ってはこれない価値観へ対する信仰となるのだが)。


 屋上の真ん中に存在している椅子に世界を動かす人間は腰を下ろした。

 自分はそんな姿を後ろから見ていた。変わらない、男性の姿。何かを考えている様子なのかは良く分からないけど、自分は〝仕事〟を開始した。


 自分は仕事の、自分の〝任務〟の一つとして〝世界を動かす人間(それは、ただ単一的なサラリーマンの男に他ならないのだが、自分は〝世界を動かす人間〟と呼んでいる)〟の見張りの様な仕事を請け負っていた。それは自分の日常にもこびりついていたし、どう足掻こうとも自分が〝世界を動かす人間〟から離れることは出来なかった。唯一、とも言って良いかもしれないが、世界を動かす人間が〝人間らしさ〟を感じ取れる事が出来る人間でもあったから一緒に――といっても一方的にだけど――いることは楽しかった。


 自分は立ち上がると、手に持っていた〝ムーンライト(手のひらサイズの月)〟を手に取り、空間に生温かい吐息を吐くように軽くそっと置いた。瞬間、展開したムーンライトは空間を占め、暴発の彼方を体現するような眩しい光りと共に、自分達を飲み込んだ。慌てふためく世界を動かす人間の姿とともに自分達は刹那的にその場から消えた。残ったのはotibaが飲んでいた緑茶のペットボトルの姿ひとつだけだった。



 ――いつも通りの空間に飛ばされた。


 なんにも聞こえない、ただ単一的に存在し続けている空間。


 自分は遠くに手を伸ばす、するとなにも見えない空間に色が着服された。そこは未使用の倉庫だった。海が近くにあるのか分からないが、波のような音が聞こえた。恐らく広大な海が遠くまで続いていて、けれどその端くれが自分たちの手元にあるのだろうと。


 自分が佇んでいる空間で、まるで微糖が含まれている吐息のような気持ち悪い蒸し暑さのようなものを少しだけ感じた。南国というのが昔あったらしいが、本で少しだけ読んだその〝南国〟の様にも感じられた。少しだけ蒸し暑くて、もやっとしている雰囲気そのものは自分が想像する南国そのものだった。

 広々とした倉庫を横目に、近くで眠っている様に横たわっている世界を動かす人間を自分は起こすと、微かに入り込んでくる、朝方なのか夕方なのか分からない時間帯の自然な灯りで倉庫の全体像を今一度しっかりと確認した。


 倉庫は遠くまで続いていたけれど、その全体像の底を自分は捉えることが出来た。奥までしっかりと見ることが出来た。いつも飛ばされる倉庫だけれど、倉庫と世界を動かす人間の〝癇癪〟の大きさは比例していることを自分はわかっていたから、いつも通りの作業に取りかかった。目を瞑り、開けるとそこに椅子が出現し、そこに自分たちは座った。


「久しぶりですね、お兄さん」


 彼はそう言った。


「ああ、久しぶりだね。覚えているよね、自分のこと」


「もちろんです。でも、此処がどんな世界なのか分からないです。いつも仕事から帰ってくる途中までの記憶はあるんですけど、そこからが分からないんです。そして、気がつくといつも家に帰ってきているです」


 そんな事はどうってことない、問題ないよ、そう自分は呟いた。


 それから自分達は軽く会話を交わらせ、自分はいつものように〝世界を動かす人間、彼自身の内部に溜り込んでいる、現実世界の歪さ――についての硬く、ぎゅう、ぎゅうと締め付けられている疑問について一つ一つ解いてあげようとした――〟けれど、今回だけは出来なかった。いつもならば彼の内部に手を差し伸べ、歪さについての疑問を解いてあげる事が出来たのに……。それが今回は、拒否された。


 けれどそれは〝彼自身に拒否をされた〟という事では無いという事をすぐさま理解した。世界に拒否をされたのだ。もっと明瞭に言うと、ムーンライトの内部に存在している、〝世界を動かす人間彼自身の形成するこの世界〟に――。


 自分はすぐさまこの世界から退避することに決めた。勿論、今回の記憶だって彼自身にはなく、また明日も同じ生活を彼は送るだろう。そしてまた次回此処に来れば、また同じ会話をしてから〝心の処方箋〟を自分は出す。それが、自分と彼との――いいや、〝世界に馴染む事が出来ない、似たもの同士の――〟絶対的な関係性だった。


 自分は席を立ち、一度だけ外を眺めながらムーンライトを回収した。そうして現実に戻ってきた。


 ――翌日のマスメディアでは〝正体不明の爆発的な光りが現れる――〟という報道が自分の手元にまで回ってきた。恐らくそれはムーンライトを使った時に起こった暴発の彼方の様な光りの事だろうなと思った。


 現実に戻ってきた自分はその後すぐさま家に帰り、刹那に睡眠を身体に施した。本物の睡眠を得ようとは今日はしなかったから睡眠に似たなにかをベットの上で体感した。

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