もう、いいんだ ⑨

「どうしたの?」


 電話を通して、向こう側の世界から解き放たれたような〝ヒステリー〟を覚えて、少しばかりの混乱を覚えていた自分にベットの上の蓮花がそう言った。いいや、大丈夫だよ、と言ってみたはいいけれど、何が大丈夫であるのかちっとも分からなかった。そう言っておけば、物事の主題から逃げれるような気がしたのかもしれない。自分でも深くは分からないけれど。


 冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出して、それを飲んだ。


 現実にやっと戻ってこれた様な気がした。徐々に世界の有り様や部屋の匂い、圧縮されたような伸び縮みを繰り返す情景、どれもこれもが自分がいた元の世界であった。ペットボトルの水を全部飲みきると、ゴミ箱にペットボトルを放り投げてから、起き始めた蓮花の待っているベットへと戻った。


 そこから自分は起きてしまった蓮花と色々な話しをした。そうしている内に部屋は、まるで真空管を叩き割ってその真空管の中に保たれていた〝世界を構成する様々な因子〟が漏れ出してしまったかのように久しく〝現実感〟を取り戻したし、それと同時に痛みも一緒に思い出された。それが、津波のように自分の身に降り注ぐのが分かった。降り注いでくる津波に苦しんでいる自分に、蓮花は優しく声をかけてくれたし、自分を柔らかく抱きしめてくれもした。


 生きた人間の温かみを感じるのは本当に久しぶりだった。そしてその時にふと、劣等感の温床となっている社会や、世界そのものに自分達が生きるのは難しいのだろうな、と――それは本当にふと思った事だし、それはありありと確かに進行形で感触がしっかりと残っている。

 気持ちが落ち着いた。落ち着いてからは細々とではなくてしっかりと自分達のしたい話をした。互いの、これまで口に出そうとも躊躇っていた話をしたのだ。自分は〝死んだ友達がいて、その友達のことを、自分は未だに忘れられないしその経験は傷跡としてしっかりと残っているんだ――〟という事を話した。


「その友達って、いつから友達だったの?」


「うーん、しっかりとは覚えて無いけど、確か十代の始まり頃だったかなって……そのくらいだよ、あんまり覚えていないって言えばそうかもね。酷いかな? 本当に好きで忘れられないくらい親友だったのに、そこまで覚えてないって」


 微笑を浮かべながら自分は言った。


「いや、別に酷くなんてないと思う。そんなものじゃない? 今は当たり前のように存在する人たちだって、いつまで〝そこ〟に居続けるか分からないし、そんな事言ったら人生分からない事だらけだし……。でも、その上で思うのよね」


「何を?」


「社会を含めた世界そのものの事よ。ちょっとスケールが大きすぎる話かもしれないけど」


 蓮花も、自分の微笑を真似するように自然に笑ってそう言った。


「良く分からないけど社会は回っているじゃない? まあ、私なんかよりアタマが良ければ、〝なんで、そうなっているのか〟も分かるのかもしれないけど、私はそうじゃないし。でも、社会がなんでか回っていっていることは確かだし――一番わかりやすいのは〝学歴〟だけど、イデオロギーみたいな、社会を形成するために必要だとされてる考えだったりもいっぱいあるでしょ? ……でもね、総じて思うの〝それって、人間らしい生き方じゃないんじゃないの?〟ってね。少なくとも、私はそう思う。社会から弾かれている人間が言った所で負け犬の遠吠えだとか、敗北宣言だとか言われるのがオチだろうけど」


 淡々と、けれどもその言葉ははっきりとした蓮花の温度のある言葉だった。


「自分も思うけど、まず生き方に〝フォーマット〟があるのが可笑しいよね」


「うん、本当に思う。生き方なんて人それぞれじゃない? 勿論、その仕組みの上で生きていくのであればフォーマットみたいなものがあった方が〝フツウ〟の人には良いのかもしれないし、悪いだけかって言ったらそうじゃない様にも思えるけど……でも、そういう仕組みの上で生きる事を強いられているのって、ある種の〝洗脳〟としか思えない」


「洗脳だろうね」


「うん」


「でもさ、どんどん良くなって行くと思うんだよ、世界も。自分達の人生も。目に見える形では分からないけどね。自分達みたいなはぐれ者たちが増えれば、世界は変わる。まあ、変えないといけないくらい酷い世界なんだけどさ……。生き方のお手本を見せればいんだよ。頭の硬い人間はアレかもしれないけど、そうじゃなくてさ、自分達も小さい子どもたちに。そうすれば自分達の生きる意味みたいなものもあるんじゃないかな? ……自分達みたいな人間が増えれば一番だよね」


 窓の外を見れば死んでるのか生きてるのか分からない世界が窺えたし、けれど大人はそんな世界を〝社会〟とし、世界と制定し続けている。息苦しくて堪らなかった。人生が仮に沈みゆく船ならば一人間として正常に〝船から降りること〟をしたいと自分は思ったし、けれど現実は違う。重苦しい重圧に似た鬱屈は恒常的に人々を取り巻き、まるでそれを例えるならば必ず沈みゆく船に強制的に乗船させられる奴隷に似たようなものだなと、昔から考えていたりもした。


 妙に生温かい退屈は人生の大半を覆い尽くしていた。そしてそれは――その場しのぎの様な生き方をしている大人達みたいにはなりたくない……その様な一様の言葉たちだけを微かに胸の中に抱きながら。――人生は消化試合なんかじゃない、そのような希望を微かに信じながら。

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