第三章

心中お察ししますっていうか、もうそいつは死んでるんだよ

 PC機器が数多に存在している潤沢で静寂さを保ち続けているオフィスに、一人の男が存在している。

 それは我々の〝視点(カメラ)〟が捉える唯一の人間であり、それが意味する所は男が深夜帯のオフィス街に、少なくともこの部署に一人だけ残っているという単一的な事実であった。

 強く発達した胸部を持ち、その有り様がありありと白いワイシャツの上からでも確認出来る。男は窓際に移動して外を眺めた。自分が今存在し続けているビルの正面に同じ様なビルが建ち並んでいる。まるで、断続的に続く地震の活断層の一部を切り取ってそのまま貼り付けたようにも感じるくらい味気ない光景だ。


 窓の外の通りにそこまで人通りを感じることはなかった。静かだ。とても正常に近しい状態を保っている。


 男は、それを確認するとブラインドを下げて、少しだけ温室を下げて、文明の温度からできるだけ逃げて、途切れ途切れの気持ちを凌いで。ブラインドの下ろされたオフィスはとても冷ややかに感じられた。それは温室を下げていることも関係しているのかもしれない。深い溜息をついた。けれど、もう、病的なまでに思慮深い奴の思考さえこの空間には遠く及ばない。


 文明の温度が感じられなくなった。文明からの逸脱を空間は果たした。


 自分の机に再度向かう。再度深い溜息をつく。何を考えているのか分からないが、〝視点〟を通して垣間見える男の表情には、少しばかりの良心が宿っている様に思えた……機械的体質とは真逆の……。

 男は椅子にもたれかかる。椅子に体重がかかって、関節部の部品が金切り声を上げるような、そんな音が響き渡る。男は常々考えているようだった――。それがどんな事かは分からない。


 我々――の視点は男の背中を捉えている。男は、頭の後ろで両手を握っている様な状態。

 男は、トイレに向かった。トイレに行くと、男性用のトイレではなく女性用のトイレに入った。なんら躊躇いはなく、それが当たり前だと言うかの様に。そして、二つある個室の内の一つに入って、用を足した。軽くペニスが温かみを帯びていることが見て取れた。

 個室から出ると、手を洗い、鏡ににこやかな表情を見せつけてからトイレを立ち去る。席に戻る途中の自動販売機で緑茶のペットボトルを買った後、席に戻った。


 席に着くと、緑茶を一口飲み、深い溜息をつき、オフィスを探索するように歩き回り、そして席に着く、と……――。そんな行動を何回も何回も反芻するみたいに繰り返していた。

 そして、次第に彼が何をしているのか分かったのが十分ほど時間が経った時であった。


 突然、男はブラインドを上げた。我々の〝視点〟も、男の目線の先をしっかりと捉える。

 そこには、先ほどまでには匂いすら感じられなかった〝人間の大群〟が見受けられた。

 それは異常とも言える光景であった。

 深夜帯であるというのにも関わらず、人々はビルとビルとの間の太い道路を封鎖するくらいの勢いで〝どこか〟に向かっている様だった。


 どこに向かっているのだろうか、そんな感情が男からも感じられた。これまでの男の行動は、全て〝これを見るための暇つぶし〟に過ぎなかったのだと我々は思う。それはくして正しいだろう。

 民衆は、連日連夜〝まるで、何かに取り憑かれたように〟行進に似た歩みを続けていた。


 普段は埋まることの無い、人々が見受けられることの少ない道路が溢れんばかりに人間の存在によって埋められていて、それは〝夜の蜜〟を求めての歩みであることは間違いがないであろう。その蜜がどんな味を持ち、どんな効果を人々にもたらすのか、一切見当がつかない。


 男も同じ様な事を思っているように見える。まるでその蜜は、舐めてしまったら何もかもがどうでも良いと自堕落になってしまって、様々な構造物(それは我々のカメラが捉えている〝男〟を含めた場所も例外ではないのかもしれない)、様々な建物が溶け出してしまって――何処へでも飛べそうな空虚感を人々に与えるのかもしれない。天井はない、僕は何処まででも行ける。――それは全て妄想に過ぎない話だろうが……いいや、そうだろうか? 男はこの〝カメラ〟を含めた空間を文明の温度が感じられない程にまで乖離させた。


 だが、男も初めて、異常とも呼べる先ほどまでの光景を見たのだと思える。病的なまでに思慮深い奴の思考さえ空間には遠く及ばない。それは、この事態を前もって知っていたからではないだろうか? 分からない。それを確かめる術は我々にはないが、再度来たるべき瞬間まで、思案を深めていくとしよう。誰が、一般の男に入れ知恵の様なものをしたのかも、一緒に思案を進めておこう。


 男は、見たいものを見ることが出来たのか、トイレに向かうと、今度は正しい方に――男性用トイレに入ると、鏡を見つめた。表情を確かめている様だった。


 その表情に、二十数年間の〝歴史〟が詰まっていると考えると、とても興奮したし、それを味付けに自慰行為にでもふける事が出来そうなくらいだった。男の女性経験は如何ほどなものなのだろうか? 鏡の中の自分に意識が向きすぎて、表情が煮崩れを起こしそうな予感が立ってしまったからか、鏡から男は離脱した。

 男を背後から捉えていたカメラだけが、その場に留まった。鏡の内部には、まだ男が留まっている。それは〝鏡の中の男〟であり、表情が煮崩れし、顔面がぐちゃぐちゃに崩れ落ちてしまった男そのものであった。


 ――男は、自らを鏡で視認し、どのような事を考えていたのだろうか。


 それは我々には分からない。様々な事象や事柄を元に、再度思案を深くまで進めていく事としよう……。

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