もう、いいんだ ⑧

 蓮花との日々が日常となってから一ヶ月が経とうとしていた。

 なんら問題らしい問題はなかったし(蓮花が時折見せる、癇癪を植え付けられた様に呼応する姿以外はなかったし)、それが当たり前であるという事実が一日でも長く続いてくれることを自分は何よりも望んだ。


 ――情景との一致を伺える真夜中の時間帯を過ごしている。フラストレーションや掃き溜めにすらなりきれない感情をチルサウンドと繋がって、情景との接合を果たして、心がふわふわ浮くような様相は日常だけれどそんな日常を今日も続けていく。もうこの頃になると蓮花が隣りにいるのにも関わらず自分は何処まででも(一定の恥部以外の範疇の部分ならば)見せることが出来るようになってしまっていたし、それを蓮花も受け入れていた。それが当たり前として存在し続けてくれれば幸いだな、と思う事が増え続けていた。



 ――自分は本を読み、テクノロジーからは離れてこの世界に対する解釈を様々な形で入れこもうかと思案していた時――それは記憶フロッピーディスクの売人としての生を保っている時でもあった――部屋の端っこに三つ存在している黒色の固定電話が唸りを上げた。静けさを保っていた世界に、外部との接触アンテナをぽっきり折っていて細やかな遙かなる静寂を体感しようとして居た時に、一人の人間が俗世からの乖離をしていた世界を無理くり手繰り寄せて俗世との接合をしてしまったかのような歪さがある唸りであった。


 自分は溜息をつきながら受話器を取った。女の声が聞こえた。そして、それが蓮花の声ではない事は蓮花が隣で眠っている事実が教えてくれた。


『はい、どうも。記憶フロッピーディスクのご購入をご希望ですか?』


『そんなのいいのよ……ねぇ、今時間ある』


 面倒臭い事に巻き込まれることだけは嫌だな、と思った。


『まぁ、少しなら』


『ねぇ……貴方って、男性、よね?』


『そうですね、一応ペニスが股に付いていますよ』


 乱暴な言い方だな、と自分でも思った。


『じゃあ、訊くけど、貴方って女子トイレに入ったこと、あるわよね?』


 なんと言葉を返していいものか分からなかった。


 たった数言で、自分は女が自分を現実世界で知っている人間であるという事に気づいた。でも、心当たりなんてあるはずなかったし、しかもそれが〝女性〟という事になるとよりそうであると言えた。


 言葉が紡ぐ空間が長らく続いた様に感じられた。早く自分が安心出来る〝フツウの世界〟に帰らせてくれないかなと思ってしまうほどに現実感が薄れていた。遠くで救急車がサイレン音と共に街中を駆け抜けている様相が感じられた。するとまた意識は電話の中の相手へと戻る。


『ごめんなさいね、本当は私は貴方が入った事あるのか知らないの。〝入った事がある前提〟でお話をしてしまってごめんなさいね。引っ掛けるつもりはなかったのよ?』


 優しい口調だったけれど、その中に何か〝芯〟のようなものが欠如している様に感じられた。実体のない幽霊と話しているみたいな気分になった。もしこの世界に実在していようが、幽霊に似た女が存在する〝電話の向こう側〟で何がなされ、何をこちら側の世界にもたらそうとしているのかが不可解でしょうがなかった。


『本当に申し訳ないんですけど、お客さんじゃないならもう切っても大丈夫ですかね? 自分に何を求めているのか分からないし、第一貴方が思っているような魂胆に乗ることが出来るほど馬鹿じゃ無いって思いたいんですよ、自分も』


『別に難しく考えなくてもいいのよ? ……ただ、貴方が〝女子トイレに入った事があるか〟が気になるだけ……。』


『じゃあ、どっちの答えにせよ、教えたところで自分にメリットみたいなものはあるんだろうか』


『分からないわ』


『じゃあそこに意味なんて無い様に思え――』


『オナニーするのよ、ただ単純にね。』


 …………。女は自分の言葉を遮り、そう言った。


『ぐちゅぐちゅ音を立てながらたった一人で、貴方が女子トイレに入り込んで何かしらをしていることを想像して……ね? ――人生はオナニーよ。よおく覚えておいてね、坊や。』


 そこに意味みたいなものが存在しているならば、今すぐにも教えてほしいと思った。そこに存在しているであろう意味を自分は探し求めた。女が〝女子トイレに入った事があるか〟を訊いた事に対して自分が――意味が無いように思える、と言った事に対するのと同じ様に、意味合いの様なものを空虚に求めた。


『ねぇ、想像してみてよ。私が白濁に似た白いベットの上で――さっきシャワー浴びたからまだ生温かい身体で寝っ転がって、全裸で、一人でバタークリームに似た生温かい陰毛をいじっている姿を。そして、貴方が女子トイレに入り込んでいる姿を想像してオナニーをしてい――』


 電話を切った。


 自分は電話がちゃんと切れたことを確認すると、蓮花が寝ているベットの脇に勢いよく寝っ転がった。継ぎ接ぎで繋がれていた俗世との接合の現実が、元通りになっていくのが感じられた。〝人生はオナニーよ〟――その言葉だけはずっとずっと頭の中を駆け回っていた。

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