慢性的な避暑地 ③

 白狐に似た一筋の光りに包まれて、どこか肉体的な消失を感じ始めて、そして消失をし始めていた肉体が再度自分の元に戻ってきた時、自分は暗闇で先が見ないまるでトンネルのような印象を受ける場所に存在していた。


 どこかから胸骨を撫でるかのような恥部が空気に晒されているかのような音が聞こえた。自分は、今自分が佇んでいる場所に違和感を覚えた。


 ここは、世界を動かす人間と対話する時に、いつも来ることの出来る欠損を覚えているかの様な倉庫ではなかった。自分は自分の感情をありありと感じ取ることが出来た。今日も寸分の狂いも無く心のテーブルに圧縮された感情が陳列され、今日はどのような感情を引き出しましょうか? そう問われている様だった。どんな感情も今の自分には不似合いだと思った。


 自分はただ前へ遠くまで続く一本道の真っ暗いトンネルを歩いた。けれどどんどんと自分が領域を侵すように前へ踏みしめていく度にここがトンネルとは全く違うような場所であるということが分かったし――自分が前へ進んでいるんじゃない、景色が前に進んでいるんだ――自分はポケットに入っていたゴミを足下に捨てた。そしてまたさっきみたいに前へ歩いてみた。ああ、やっぱりそうだった。ゴミは自分の足下から離れようとしなかった。驚くほどに混乱というものが自分には存在していなかった。それが当たり前だとでも、言うかのように、背景だけが動くし、自分は〝そこ〟に滞留することを望まれている。


 可も無く不可も無い、感情を抱えながら、自分はしばらく考えた。どうしようもないよ、ここに留まり続けるしかないよ――そんな言葉が自分の心に生まれてきていることは確かだった。自分はその場に座り込んだ。温かくもなく、冷たくもなく、良いも悪いもない世界に落ちてしまったようだった。ムーンライトの光に包まれた所までの記憶はあるからここは少なくとも現実では無いと思うし、世界を動かす人間の〝潜在意識の世界〟であるという考えは間違っていないはずだ。


 それは突然のことだった。


 目の前に、世界を動かす人間が現れた。それは間違い無く世界を動かす人間で、そんな目の前の事実に自分はその場から本能的に立ち上がった。少しだけ距離を取った自分に対して、彼は言った。


「こんにちは」


 自分はただただ黙っていた。


 目の前にはワイシャツにラフな格好のズボンを履いた世界を動かす人間本人がいる。それは間違いない。自分の目で見ているんだ。匂いも、目も、耳の形だって本人そのものだった。


「ここはどこなんだろう?」


 君の潜在意識の世界だろう? とは一切言えなかった。それだけは何があろうとも明かすつもりはないしもし仮に明かしてしまったときは、恐らく自分は命を奪われる。


「僕の潜在意識の中ですよ」


 口の中から唾が消え失せるのが分かった。


「別に隠す必要なんてありませんよ。もう、知ってますから。でも逆に言えばそれしか分からない。貴方がどんな人間なのかも分からないし、なんせ初めて会うわけですから」


 自分と会うのは初めてだと、彼はそう言った。自分と前回を含めた過去の〝対話〟の記憶は保持していないようだった。自分は、まるで体中に埋め込まれている器具が取り外されてしまったロボットのような挙動で床に腰を下ろした。

 自分に対してそう説明をした後、彼は腰を床にまで下ろした自分と同じ高さまで床を下ろして、自分と目線を合わせて、言った。


「この世界ってなんなんでしょうね。どっちが現実か分からなくなる時ってありませんか? 夢とこの世界、どちらが現実なのか。でも、貴方がそうなのかは分かりませんけど、僕たちが普段生きている世界に僕が帰ってしまったら、何も覚えていることはないんです。ただただ、内在するエネルギーが着々と肥大化していっている姿を、お風呂場の浴槽で少しだけ汚らしいとも言える全裸を見下ろしながら感じている時だけは〝違う〟って思うんです。なにがなのかはわかりませんが。多分貴方が私の前に現れてくれたことにも繋がるでしょう?」


 彼は一呼吸置いて、言った。


「だから、じゃないかと思うんです」


「だから?」


「こちらの世界が実際は嘘で、あちらの世界……夢の世界が本当の世界であるから、夢というものを見させない為に睡眠というものが高級品になっているし、睡眠というものを取らなくとも生きていけるようになってしまっている、と。でも現実として我々が扱っている世界だって悪い事だらけじゃないはずですよ。良いことだらけじゃないけれど。夢の世界には不満も不平等も飢餓も病気も貧困も借金苦もなにもかも存在しない、けれどそれでもなにかを見つけ出すだけに現実として扱っている世界で生きていくの……でしょう? 義務を果たしていれば生きている気になるかなだなんて思わないでください、それじゃ〝人生を消化試合にしているのと一緒〟ですよ。」


 そう言った彼の背後には、眩しい光りが放っていた。

 去り際に、彼はその場の空間になにか陳列棚でも見えているかのようにそっと、言葉をその陳列棚に置いた。


「何もかも変わってきていますよ。人生も、それは貴方もでしょう? 僕もです。バレなきゃ良いと思っているものは全てバレますよ、いずれ。それは政府がしでかした悪事も含めて。貴方が探った方がいいことはまだあるのではないですか? 虚空実験のこととか」


 ――今思うと、暗闇の中で突然現れた彼には全ての思案や感情が、少なくともあの空間の内部では全てバレてしまっていたと思った。それが事実であることを示すかのように、自分が過去蓮花に言ったり、または自分自身に向けた言った言葉だったりを彼は言ってみせた。

 あの暗闇の空間に存在している最中は、自分自身に対しても他者に対しても何もかもが露呈してしまうのだと感じた。自分自身に対して気づきたくもない自分自身の部分も。嘘はつけない、まだまだ自分にはやらなくちゃならないことがありそうだった。

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