慢性的な避暑地 ②

 久方ぶりに、心の平穏というものが自分の元に訪れた。ずっとずっと荒れ果ててしまっていた砂漠や荒野に恵みの雨粒が舞い降りたのだと本気で感じられたし、これほどまでに心の晴れやかさを体感するのも珍しかった。


 大人、というものがどのような状態の人間のことを言うのか自分は分からないが、少なくとも〝子供〟だった頃は心にまだ奇しくも平穏というものが残っていたのだと、記憶している。

 自分は妙な重荷が取れたかのような感覚に自然と微笑を浮かべてしまった。これほどまでに世界がまともであると感じることが出来たのは久しぶりのことだったし、それと共に、年月というものが自分の心をどこか、もう一生涯抜け出すことの出来ない井戸か何かに突き落とされていたことに怖さすら覚えた。


 自分は大きく呼吸を吸う事が出来た。素足が芝生を捉え、そして今まで以上にコンクリートジャングルに対する嫌悪感を覚えた。身体の隅という隅に隠されるように自分の内在的な部分に存在していた疲弊というのが、蜘蛛の子を散らす様に逃げ回っている姿が想像出来た。そんな情景に対して自然に笑みを浮かべることが出来た。けれど、それはふとした瞬間に訪れたことだったのだけれど、たった一つの理路整然とした気持ちが自分を追いかけてきたんだ。


 ――〝ただフツウに戻っただけだろう? フツウの人間は、そんなに心を病ませない〟


 …………呼吸の沈黙が長く続いた。自分は自分のどこから発せられたのか分からない〝声〟に、呼吸がすぐさま浅くなるのが感じられた。被害妄想だとしても今の自分にとっては現実だった。平穏は乱され、蜘蛛の子が自分の元へ帰ってきている、そんな情景が頭の中に浮かんだ。

 それを必死に手で追い払おうとした。けれど駄目だった。――その声は数カ月前、自分に、記憶フロッピーディスクの売人としての自分に電話を掛けてきた、女の声のように聞こえた。


 自分は不思議でしょうがなかった。その女の声が言った言葉というのは、別に対して不思議ではなかった。その言葉通りにただ〝フツウの人間が抱えるフツウという状態に、ただ戻っただけ〟なのだから。

 それはなんだか味気ないような事実であったが、主観の含まれていない客観的事実はいっつも現実に生きる人間に対してエンタメの一つにもならないような面白味も無い〝面倒事〟だけ投げかけてくるから、別にそれに対してはなんら驚かない。それは昔からそうだったし、それは今の自分も含んだ〝自分の人生〟の大部分を占めている様な事柄だったから。 


 

 ――自分は十九時頃のフードコートに赴いた。


 フードコートの中には沢山とまでは言えないもののある程度の人間が存在していて、けれどこのフードコートで思い思いの時間を過ごしている人達のどの人達とも自分が同じ〝人間〟であるとは思えなかったし、そう思ってしまうと急激に濁流のように胸に不安が立ち込んできた。

 自分は少し奥まった場所にある『従業員専用』と書かれている張り紙の貼られたドアから中に入って、螺旋階段へと出た。まるで別世界に迷い込んでしまったかのようにとても寒かった。


 螺旋階段を少し昇ったところで、座り込んだ。現実感が全く感じられなかった。自分は唾を一度飲み込む。現実感がまた一段と消失する。自分は目を閉じて呼吸だけに集中をしてみる。現実感は自分の元からまた何処か遠くへと行ってしまう。ペニスを触ってみた。それは無意識的にだった。現実感は自分の元へ少しだけ近づいてきてくれた気がした。


 深い溜息が出た。自分はどこに現実を制定すればいいのか全く分からなくなっていた。どこが現実で、どこが現実じゃ無いのかも、分からない。言ってしまえば心の在り方が世界を良くも悪くも見せていると、言えるのだが、でもそれだけを思っていても、別に自分の人生は良くなるわけじゃないし、愛が無くても子供は生まれるし、自分の人生に対する鬱屈としている感情が誰かによって作られた焼却炉までの路線が目の前に現れるわけでもないし、ただ、今は我慢しているけれど〝心〟の夢遊は止まることを知らない。


 何がどうなれば幸せなのかも分からずに、ただ眠り(眠ることだって一般人はたどり着けないというのに)、ただ目を覚まし――夢の中には金も欲もエゴも悪意も善意も好きも嫌いもないというのにな――それでも、人間はこの世界で〝何か〟を見つけ〝何者に〟なっていくのかはその人次第だけどその為に目を覚まし、心の重い枷を帯びようとも、生きていくのだろうな。

 ……そう思っていると、急激に口寂しさを覚えた。もし蓮花が口寂しい、と口にしたら彼女の上の口に僕の唾液を流し込んであげるのに、けれどあいにく今の自分には、そんな事をしてくれる人間がいない。


 彼女の幼稚な乳房を舐めた事を昨日のことのように覚えている。


 自分は自らも知らない間に、大いなる欠損を覚えていた様だった。一生分の絶望を感じていたとも言える幼少期と比べるとまだまだ気楽なものに感じられたけれど、今の自分というのはそれでもだんだんと胸に空いた穴が大穴へと変貌を遂げそうになるのをなんとか手を使って押さえ込んでいる様な状況だった。手をそこから外せばすぐ楽になれるのだろうか、それは分からない。仮に楽になれるとしても、自分はそれを拒むだろうな、と純粋に思った。


 ――自分はいてもたってもいられなくなって螺旋階段を降りて階段からフードコートへと戻った。


 途中のトイレの個室の中に入り、ただ時間が過ぎるのを待った。時間になると、自分は個室から出て、また騒然がひしめくフードコートへと戻る。自分の中で着々と整えられていっていた閑静が一瞬にして壊されたのが刹那的に分かった。何度見ようともこのフードコートにいる人間達が自分と同じ〝人間〟であるとは思えなかった。もしかしたら一般人らしい一般人なんて存在しなくて、クローン人間か何かではないのかとも思った。


 自分は、それ程までに歪な生物を見定めながらムーンライトを手に持った。(まるで自分の事が見えていないように、誰も自分に対して視線を向けない)。自分は再度時間を確認した。予定の時刻だった。いつもいるべき場所に〝世界を動かす人間〟が存在している事を確認した。そして、自分は手に持っているムーンライトを宙に放り投げた。ムーンライトが宙で展開を進め、気がつけば、自分と同じ人間だとは思えないと思った、まるで脳機能の去勢された人間達を巻き込んだ様相で、フードコートはムーンライトの白狐に似た一筋の光に包まれて、瞬間、その場にいた人々の大半がその場から姿を消した。

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